梅雨の色
小野寺かける
梅雨の色
雨が降る季節になると、決まって思い出す光景がある。
手が届きそうなほど近くにある灰色の雲と、しっとり濡れる庭の草花。うつむく自分のドレスは白く汚れ一つないが、ずっと外に立ちつくしていたせいでひどく重い。
その白亜の裾に、ず、と赤い色が滲んでいく。
己の足元に倒れるのは一人の男。うつぶせのせいで表情はうかがえない。力なく前に放り出された右手には、にぶく銀に光る鋭利なナイフが握られている。ドレスを染める赤色は、彼の首から流れ出ている液体が原因だ。
しゃがみこみ、同じように投げ出された左手をそっと持ち上げる。薬指で光る指輪におずおずと触れると、己の指がかすかな音を立てて焼けた。とっさに手を放してしまったせいで、彼の手は泥の中にどしゃりと落ちてしまう。
どれだけ呼びかけても、揺すっても、もう彼が起きることはない。
ふわふわとしているのに艶がある、と評判の黒髪が水を含んで額や頬に張りつく。顎を伝って落ちていったのが雨なのか、涙なのか、もう分からなかった。
「どうしたの、ルコさん。ずいぶん憂鬱そうな顔してるけど」
心配そうな言葉と裏腹ににやにやとした笑みを浮かべる桜色の髪の男に、ルコは眉をひそめて萌葱色の瞳を窓の外に向けた。
「最近ずっと雨ばかりで嫌になるなと思っただけよ。髪もうまくまとまらないし」
「あー、幻獣でもそういう悩みあるんだ?」
「私の場合『限りなく人に近い幻獣』だもの」
なるほどね、とうんうんうなずいて、男は慣れた手つきで着流しをたすき掛けにしていた。彼の足元には箱が置いてあり、中から袋やら紙の束やらを取り出すと、周囲に並んだ棚に一つずつ置いていく。品数が少なく物寂しさを漂わせていたそこが、次第ににぎやかになっていった。
「今日はいつもと違うかっこうなのね」
「湿っぽかったり暑い日はこれだよ。そういうルコさんこそ着物なんだ。柘榴柄? ルコさんらしいね」
「この国でドレス姿の人なんてそうそういないじゃない。私の場合は周囲に馴染むために着てるだけ。それで、私が頼んだものはいつ渡してくれるのかしら」
「うーん、品出しが終わってから?」
「すぐに渡してくれて構わないのに」
「いや、雨続きでお客さんが少なくてさ。基本的に店には俺一人だし、誰もいないのにべらべら喋るのもおかしいだろ? だから適当な世間話をする話し相手に飢えててさ」
「あら、そう。てっきり私を口説きたいのかと思った」
「わざわざ人妻に手を出すような趣味は俺にないよ」
はは、と男は軽く笑って、この前どこそこの家が夜逃げしたみたいだとか、二軒隣の家で飼われている犬が子どもを産んで、番犬がわりに一匹譲ってもらえないか悩んでいるだとか、本当に適当な世間話をし始めた。
ルコも話が嫌いなわけではないため、彼の望みに付き合ってやることにした。もちろんただではない。礼として店に置いてある一番高い菓子を要求してやった。
はいこれ、と渡された焼き菓子に、ルコの目が軽く見開かれる。
「懐かしい」手のひらに乗せたそれは丸く、こんがりとした焼き目がついている。食べるとさくっと軽い音がした。「レンフナにいたころによく食べてたわ」
「知り合いがちょっと前までそこに家出――じゃないな、遊学しててさ。食べたいから取り寄せろってうるさくて。自分でやればいいのに、人使いが荒いっての」
文句を言いつつ、よそでは取り扱いのない菓子を自分の店で真っ先に売り出せるのが嬉しいのだろう。ルコはさくさくと焼き菓子を食べ進める。ほんのり甘く香ばしい。すきっ腹が少しだけ満たされた。
「去年もこのくらいの時期に雨が降り続いていたような気がするんだけど」
「梅雨だからね。ヨサカだとこれが普通だよ。レンフナには無かったの?」
「そうね」
でも、と近くの椅子に腰を下ろして、ルコは窓越しに聞こえる雨の音に耳を澄ませた。
――もう二百年以上前になるのかしら。
――あの人が死んだのもこの時期だったわね。あの日も雨が降っていて。
「あれ、開いてないのかな」
不意に入り口の扉の向こうから誰かの声がした。鍵のかかったそれを横に引いたのか、がたん、と音が響く。男に目を向けると、彼はさっと棚のかげに体を滑りこませて、唇の前に人差し指を立てて笑っていた。
「稲庭さーん。稲庭さん? おかしいな、留守かな」
しばらく粘ったのち、何者かは去っていった。稲庭と呼ばれていた男は人の気配が無くなった頃に品出しを再開していた。
「さっきのお客さんじゃなかったの?」
「声から考えて常連さんだと思うよ。よく酒を買いに来るんだ」
稲庭の店には日々の暮らしの必需品のほか、野菜や酒類、なにに使うのか分からない雑貨など、たいていのものが揃っている。店の規模はそこまで広くないはずなのに、求めているものを訊ねるとどこからともなく出してくるのだ。
「四日くらい前にも来たんだけど、もう無くなったのかな」
「開けてあげればよかったじゃない」
「残念だけど、今の俺は〝普通の〟店の店主じゃない。今の客はあんた一人。あんたが帰るまではつまり、」
「〝幻獣専門店の〟店主って言いたいんでしょう?」
「よく分かってる。というわけでお待たせ。はい、こっち来て」
稲庭は店の奥にある机、その手前にある椅子にルコを招くと、机の上にことりとなにかを置いた。
透明な瓶だ。大きさは手のひらで包み込める程度で、盾に細長い。中央がくびれた見た目は女の体に似ている。植物の精緻な模様が美しく、少しでも扱いを誤ればまたたく間に割れてしまいそうな気がした。
その中に入っているのは、目眩がしそうなほど鮮やかな赤い液体だ。
ずっとこれを待っていたのだ。ルコは逸る気持ちを抑え、代金を支払ってから優雅に便を手に取った。
きゅ、とガラスの栓を引き抜いて、まずは香りを堪能する。鉄くさくも甘やかな香りが鼻腔を通り抜け、思わず喜悦の吐息がこぼれた。軽く瓶をゆすってから、今度は中身を喉に流しこむ。ひと息にではない。限りある液体をじゅうぶん味わえるよう、一口飲んでは舌の上で転がし、たっぷり時間をかけて飲み干した。
「本当、美味しそうに飲むねえ」稲庭は机に肘をつき、ルコが渡した代金を指先でもてあそびながら言う。「酒なら俺も一緒に飲もうかって思えるけど、それ、
「残念ね。とっても美味しいのに」
ごちそうさま、と瓶を置いて、唇に残った血を舌で舐めとる。芳醇な香味から察するに、若い女から提供されたものだろうか。自宅でも楽しめるように追加で二瓶頼むと、稲庭はすぐに用意して風呂敷に包んでくれた。
「気をつけなよ。前に比べて減ったとはいえ〈機関〉はまだうろうろしてるから。もし捕まってこれ見られたら言い逃れできないよ」
「夫と同じことを言うのね。大丈夫よ。いつだって用心してるわ。じゃなきゃ何百年も生き残ってないでしょう」
「確かに――――あ、そうだ。ちょっと待ってて」
立ち上がりかけたルコを制して、稲庭は机の後ろにさがっていた暖簾をくぐり奥に引っこんでしまう。なんだろうと思いながら待っていると、戻ってきた彼の腕にはひときわ大きそうな風呂敷が抱えられていた。
「なにそれ?」
「結婚祝いだよ。俺から、ルコさんに」
包みをほどくと、中から現れたのは一着の白いドレスだった。
どうしたの、と視線で訊ねると、稲庭は軽く胸を張ってドレスをこちらに押し出してくる。
「言っただろ、結婚祝いって。ルコさんはうちの上客だし、こういうのを贈るのも悪くないかなと思って」
「嘘ね。処分に困って押しつけることにした、の間違いじゃない?」
「あ、バレた?」
稲庭はしばらく店を休業していたのだが、ただ休んでいたわけではなく、あらたな仕入れ先や品を求めて各地を転々としていたそうだ。その際に無理やり売りつけられたのがこのドレスだという。
もとは異国の貴族が仕立てたもので、縁あってヨサカまでやってきたらしい。これを買い取ることを条件に今後も優先的に取引する、と言われて購入したものの、ずっと店に出していなかったと稲庭は語る。
ルコはぐるりと店内を見回してみた。衣服を作る生地はあるが、衣服そのものはあまり置いていない。そんな中でこの国には珍しすぎるドレスを置いたところで買い手がつくとも思えないし、だから表に出していなかったのだろう。
「旦那と結婚式とか、まだ挙げてないんだろ? せっかくだしこれ着たらいいよ」
「そう言われてもねえ」
「あれ、なんだか気乗りしなさそうだね」
稲庭はいそいそとドレスを広げて、可愛いだろ、と見せつけてくる。
首から胸元までは肌を透かすレースで彩られ、腰から下はたっぷりとしたフリルがあしらわれていた。それでもどこかあっさりとした印象を与えるのは、他にこれといった装飾がないからだろう。
大昔に着ていたドレスに似ているな、と頭の片隅で思っている間に、稲庭は風呂敷に包みなおして、半ば無理やりルコの胸に押しつけてきた。
「ありがたいけど、あまり白いドレスは好きじゃないの。気持ちだけ受け取っておくわ」
「言われてみたらいっつも黒いのばっかりだったね。けどこれが似合いそうなの、うちの顧客だとルコさんくらいしかいないんだよ。ほら、ルコさんの見た目って可愛らしいしきれいだから」
「褒めたってなにもでないわよ」
「それは期待してない。ね、とりあえず貰うだけ貰ってよ。着たところ旦那に見せるとかさ。喜ぶと思うよ? そのあとは切り刻むなり誰かに譲るなりしていいから」
「あの人のことだから大して反応しないと思うんだけれどね」
結局断りきれず、ルコは血が入った瓶とドレスの風呂敷を手に稲庭の店を出た。雨が降っているのにこんなに大荷物にさせるとはどういう了見かと思わなくもないが、やっぱりいらないと戻しに行ったところで適当な褒め言葉とともに持って帰るよう促されるのが予想できた。
はあ、とため息をついて、ルコは傘を差して自宅への道をたどった。
「近ごろ幻獣の目撃情報が相次いでいる」
桔梗色のベストのボタンを留めながら、夫は辟易したような、使命に燃えているような口調で呟いた。ルコは彼の横で夫愛用の刀を持ち、「大変そうね」と微笑みとともに労ってやる。
「ここで作られたのかしら。それとも海を渡ってきた?」
「どちらもいる、と僕は思っているが。とはいえ大抵は失敗作みたいなやつばかりだから、処理自体は簡単なんだ。数の多さこそ厄介だが」
夫はルコの手から刀を受け取り、慣れた手つきで腰に佩いた。
「〈機関〉は些細なうわさ話すら拾うほど幻獣の情報に敏感になっている。僕の同僚に見つかってくれるなよ」
眼鏡の奥で光る鈍色の眼差しは、心の底から心配してくれていると分かる。ルコが夫の胸に寄りそうと、手套に包まれた彼の指先が髪を優しく梳いた。
「最近よくも悪くも活きのいい新人が入隊してきたんだ。僕の班ならともかく、よそに配属されたから僕の目が行き届かない。それとなく君から遠ざけることが出来ないかもしれない」
「仮に見つかったとしても、そんな簡単に私が殺されると思ってる? これでも〝ツヴァイトの最高傑作〟って呼ばれた幻獣なのよ」
作り主の名を口にしたことで、かすかに胸の奥が痛む。いつもならそんなことはないのに、昨日に引き続いて今日も雨が降っているせいかもしれなかった。
ツヴァイト――かつてこの世に存在した、魔術師の家系の一つ。無垢であるがゆえに、偉業とも極悪とも称される結果をもたらした家。
夫の指からルコの髪が滑り落ちていく。髪に触れられただけでは物足りなくて、もっととねだるように背伸びをすると、額に口づけが落とされた。
「唇にはくれないの?」
「……帰ってからな」
「ふふ、楽しみにしてるわ」
帰ってきたのは今朝だというのに、二時間もしないうちにまた出て行ってしまう。寂しいとは思わなかった。夫とはこれから先、人が普通に生きるよりも長い時間を共有できると分かりきっているからだ。
行ってらっしゃい、と彼の背を見送ろうとしたところで、なにか思い出したように「そうだ」と夫が振り返る。
「帰りがけに幻獣屋に会ったんだが」
「稲庭さんに?」
時間帯を考えて、恐らく開店前の準備をしていたのだろう。なんとなく嫌な予感に気持ちがざらついた。
「『奥さんに素敵なお召し物を渡しておいたんで』と言っていた」
「…………ああ、えっと」
「どんなものをもらったんだ?」
「なぁに、嫉妬してるの? 他の男からものを貰うなんてって」
「そういうわけじゃない。君が僕を好いているのは僕が一番よく知っているから。単純に気になっただけだ」
それだけ言って、夫は風のように飛び出していった。
一人取り残された家で、ルコは大きく伸びをした。彼の給金ならもっといい家に住めるはずなのに「お互い身をひそめるにはこれくらいでちょうどいい」という理由で古びた長屋住まいなのだが、故郷にはないヨサカ独特の雰囲気と間取りが気に入っている。
――「着てくれるのを楽しみにしてる」って目だったわ。
ルコは桐箪笥にしまいこんでいた昨日のドレスを引っぱり出した。自分の体に当ててみると、丈はちょうどいいくらいだ。それが分かっていて稲庭はこれを押しつけてきたのだろう。微妙に気持ち悪い。
稲庭に指摘されたように、ルコが着物以外に愛用しているのは黒いワンピースやドレスだ。白を好んで着ることはない。苦い過去を想起させるからだ。
けれど夫に求められた以上、無視しているわけにもいかない。ルコは試着してみながら、彼との会話を振り返った。
「幻獣の目撃情報、ねえ……本場じゃないからこそ、そこから逃げてきた魔術師かぶれたちが作ってるのかしら」
神話や伝説、伝承の生物を基にした人工生命体、幻獣を作成できるのは〝魔術師〟と称されるごく一部の人々だけだ。彼らは
ルコもそうした幻獣作成で生み出されたうちの一体である。〝
幻獣づくりには材料が必要になる。動物、植物、鉱石、そして人。
一般人にとって、人が材料として使われている、というのはとても恐ろしく、受け入れられない事実だったのだろう。魔術師たちに向けられるのは嫌悪や侮蔑に変わり、やがて異端者として一族全員が処刑される家もあった。かつては十あった高名な家系も今や二つにまで減り、その二家も「幻獣作成の永久禁止」を条件に存続が許されている。
ちなみに幻獣に心臓はない。代わりとなる〈核〉が胸に埋め込まれ、神力の塊ともいえるそれを破壊あるいは摘出されない限り、半永久的に動き続ける。作成から長い時を経てなおルコが生きていられるのは、そうした理由からだ。
「今でも幻獣を作れば問答無用で火あぶりって聞いたけれど、ヨサカだとその規則は今のところないみたいだし。ああ、だから余計に〈機関〉の人たちが張り切ってるのね」
呟きながら、ルコは着物を脱いで下着姿になる。夫に見せる前にまずは自分でドレスを試着してみようと思ったのだ。
だが、どう考えても一人で着られるような代物ではない。助けが必要になる。
特に焦ることもなく、ルコは「誰かいる?」と狭い庭に向かって問いかけた。間もなく、ぴちち、と軽やかな鳴き声とともに一羽の鳥が部屋の中に入ってくる。大きさと見た目はスズメによく似ているが、色合いはカラスよりなお深い黒色をしていた。くるりと丸い瞳は濃艶な紅梅色だ。
「お呼びですか」と鳥のくちばしから人の言葉が発される。ええ、とルコがうなずくと、鳥はルコの目線の高さまで飛び上がり、くるっと宙返りする。
次の瞬間、目の前に見目麗しい青年が現れた。
季節外れな蝙蝠のごとき外套と、病的なまでに白い肌。頭に沿うような短い髪と切れ長の瞳の色は先ほどの鳥と同一だ。青年は半裸のルコに驚くそぶりも見せずにひざまずき、手を取って指先に軽く口づけてくる。
「お久しぶりです、ルコさま。あなたさまが人間、それも幻獣の敵たる〈機関〉に嫁いだと聞き、眷属一同お助けせねばと肝胆を砕いておりました」
「そういうわりには最近姿を見かけなかったわね。蒼依さんが怖くて近づけなかったんじゃないの?」
夫の名前を出すと、青年は薄くほほ笑んだままなにも言わない。図星だったらしい。
「心配してくれるのはありがたいけれど、私は自ら望んであの人を選んだの。お互い同意の上よ」
「ですが、ルコさま」
「そんな話をするために呼んだんじゃないわ。悪いけれど、着るのを手伝ってくれない?」
これ、とルコが指さしたドレスに、青年の顔にあからさまな困惑が浮かぶ。それでも拒否せずにうなずくと、いそいそと手を貸してくれた。
彼はルコが長年の生活で手に入れてきた眷属だ。吸血鬼という特性上、ルコは定期的に人の血を摂取しなければ老いてしまうし、果ては活動を停止してしまう。それを避けるため、ルコの好みに合う適当な餌を見つくろってくる配下が欲しかったのだ。
眷属にする方法は簡単だ。人間の血を一滴残らず吸い尽くしてしまえばいい。対象は一度命を落としたのちに吸血鬼、それもルコを支え、守り、盾となる眷属として復活する。
――そう。一滴、残らず。
「ルコさま?」
不思議そうに顔を上げた青年に、なんでもないと首を振る。
かつては百人近くいた眷属も、現在はずいぶん数を減らしてしまった。ルコがレンフナからヨサカに渡る際についてきた人数はさらに少ない。青年はそのうちの一人である。
「最近は餌の調達にさえ我々を呼んでくださらない。悲しい限りです。眷属はもう不必要なのかと絶望する仲間もおりますよ」
「この国で少し前に、聞いたこともない宗教団体が幻獣を作って、材料調達のために違法な人身売買をしていたって事件があったでしょう。あれを機にヨサカを見回る〈機関〉の人員が増えたって蒼依さんから聞いたのよ」
夫が所属する〈機関〉の正式名称は〝幻獣覆滅機関〟という。読んで字のごとく、幻獣を滅ぼすために存在している組織だ。世界各国に支部があり、幻獣の情報があればどこにでも飛んでいく。幻獣側にいかなる事情があれど、存在許すまじとばかりに徹底的に追いつめては殺しにかかってくる。
「ああ、なるほど。だから餌の調達の露見、ひいては我々が危険にさらされないよう、幻獣屋を利用して血液を摂取しているのですか」
「あなたたちのためじゃなくて、あくまで私のためよ。あなたたちは元人間であって純然な幻獣じゃない。じゃあ誰が人間を眷属に変えたんだって追及されて、私にたどり着かれたら困るでしょう」
信用されていませんね、と青年はルコの背後に回り、腰のひもを締めていく。
「幻獣屋はどのように血液の調達を?」
「さあ、それは知らないわ。おおかた金と引き換えに血を抜き取らせてもらってるんじゃない? ……ところで、ずいぶん慣れた手つきだけど」
「人であった頃は令嬢に仕えておりましたので。――出来ましたよ」
青年はルコの手を取り、近くにある鏡台の前に導く。
そこに映しだされているのは純白のドレスをまとうルコだけで、黒衣の青年は影すら映っていない。銀のみが弱点であるルコと違い、眷属である彼らはニンニクや聖水が苦手だったり、鏡に映らないといった吸血鬼の主な特徴を有してしまっている。
いかがですか、と青年に訊ねられ、ルコは唇をつんと尖らせる。
「落ち着かないわ。私に白は似合わないんじゃないかしら」
「なにを仰います。とてもよくお似合いですよ。白い肌がより際立ち、黒髪の麗しさも数倍増しております。失礼、少し装飾品をお借りしても?」
「ちょうどいいのがあるか分からないわよ」
青年は鏡台に置かれていた小箱や、引き出しを一つ一つ見てはピアスやネックレスを取り出し、恭しい手つきでルコを飾っていく。ついで背中に流しっぱなしだった黒髪を結い上げると、最後に白い造花を差しこんで嬉々とした笑みを浮かべていた。
「ああルコさま、なんと美しい。さすがは〝最高傑作〟たるお方。どれだけ言葉を並べ立ててもあなたさまの麗しさを表現できない。美の女神もあなたさまの前では首を垂れて這いつくばるに違いありません」
褒めたたえられて悪い気はしない。だがやはり白で着飾った自分の姿は見慣れなくて、どうにも背中がむずむずする。試しにその場でくるりと回ってみると、ふっくらとした裾が優雅にひるがえった。
恐らくこれは特別な場でのみ使用するためのものだったのだろう。日常的に使うにはいささか動きにくい。
特別な場――そう、例えば結婚式とか。
「それにしても、このような花嫁衣装をどこで?」
青年は鏡台に置かれていた紅を指にとり、絵を描くようにしてルコの唇を色づけていく。やはりこれは花嫁のためのものか、と納得したところで、稲庭から譲られた、もとい押しつけられた一連の流れを説明した。
「結婚式ですか。女性であれば誰もが憧れると耳にしたことがありますが」
「ひどい偏見よ。現に私は気乗りしていないもの。招く客もいないし」
「客を招かねばならないというわけでもないでしょう。新郎新婦、二人きりで挙げるのも悪くないのでは?」
「けど神の前で愛を誓うんでしょう? 蒼依さんはどうか知らないけど、私に誓うべき神なんていないわ」
「それはそうかも知れませんが」
魔術師たちが処刑されていた時世に、「どうかこの人を助けてくれ」といるかどうかも分からない神に願ったことはある。だがそれは叶わなかった。あの日からルコの中に神など存在していない。
「レンフナでは教会で式を挙げるのが主ですが、ヨサカでは神社、と呼ばれる場所でよく執り行われるそうですね」
青年はルコが先ほどまで着用していた着物を衣桁にかけ、形を整えながら言う。結婚式云々の話はまだ続いていたらしい。うんざり顔のルコに気づいているはずだが、彼に話題を変える気はなさそうだ。
「先日ちょうど見かけたんですよ。一組の新婚夫婦が神前で式を挙げておりました。紫陽花の咲き乱れる境内を花嫁行列が進むさまは素晴らしかったです」
「先日って……最近ずっと雨続きよ。そんな中で式を?」
「ルコさまはご存じありませんか? この時期に式を挙げると縁起がいいのだそうです。同じ噂を人であった頃に聞いたので、恐らくヨサカには最近もたらされた迷信でしょう。流行りものが好きな国民性ですかね、さっそく便乗したようです」
「足元が悪いでしょうに、よくやるわ」
試着は済んだ。もう脱いでもいいかと思っていたのだが、せっかく着たのにもったいないと青年の強い反対を受けてしまう。夫に一目見せてからでも悪くないはずだ、と言い残して、彼は鳥に姿を変えて空に消えた。
数時間後、ルコは一人、ひっそりとした森の中にある神社の境内に立っていた。
降雨の影響か、人影はほかに見当たらない。沙羅双樹や花しょうぶが見ごろを迎えており、紫陽花も鮮やかな色彩を放っているが、咲き乱れる、というほどではない。家から一番近かったために足を運んだが、青年から聞いた神社はここではなさそうだ。
「……やっぱりこんなかっこうで来るべきじゃなかったわね」
傘を差しているとはいえ、風の流れによって雨粒はたまに体を濡らす。ただでさえ広がっている裾は完全に水を吸っていた。鳥の鳴き声は聴こえるが木々の枝で休んでいるのか姿は見えず、なんとなく馬鹿にされているような気分に陥った。ルコは拝殿の手前にある門に身を寄せ、誰もいない境内に視線を巡らせる。ここならば屋根があるし濡れることはない。
どうして神社に来てしまったのか、自分でもよく分からなかった。雨の中で式を挙げる人の姿をからかってやろうと思ったのか、あるいは。
――参考にしようとした、なんて。
よく整備された参道やその脇に敷き詰められた砂利が、雨に打たれてさらさらと音を奏でている。目を閉じて耳を澄ませると、はしなくも眼裏に懐かしい光景がよみがえった。
『ルコは私にとって母であり、姉であり、そして……愛しているんだ。そんな君を壊すなんて私にはとても出来ない。一緒に死んでくれなんて言えない。私が死んだら君は自由だ。どこにでも行くといい。けれどどうか、私が息絶えてしまうまでは美しいほほ笑みをたたえていておくれ。今まで支えてくれてありがとう』
「…………本当に、この時期はいやね。あの時のことばかり思い出しちゃう」
普段よりも鮮明に思い出してしまったのは、あの日の庭と境内の雰囲気が似通っているからだろうか。異国で、植物や建物の配置もなにもかも違うのに、閑寂とした空気感と、涙のごとく降り続く雨。白いドレス姿でいることも同じだ。
夫はこの姿のルコを見たらどう思うだろう。表情らしい表情のない彼のことだ、いつも通りの無表情で「普段とかっこうが違うな」くらいは言ってくれるだろうか。
「似合わないって言われるかしら」
ふふ、とかすかな笑い声は雨音に溶ける。
どれだけ境内を眺めていただろう。曇り空のせいでいまいち時間の経過が分からない。そろそろ帰ろうかと足を踏み出しかけて、ルコはなにげなく拝殿に振り向いた。
この国で広く信仰されているのは太陽の神だという。門と拝殿をつなぐ道の両脇には濡れそぼつ白い旗が並び、太陽神を示すと思われる印が描かれていた。
――神が本当にいるとは思えないけれど。
そのまま門をくぐり、拝殿まで進んだ。人々は賽銭とやらを投げ入れて神に祈りや願いを捧げるらしい。だがあいにく手持ちがないし、祈り方も知らない。ルコはぼんやりとただ前を見つめたまま、奥の本殿にいるらしい神に意識を向ける。
――もしも願いが叶うなら。
そう心の内で呼びかけそうになって、結局ばからしいと首を振った。
「……私らしくないわ」
「まったく。その通り」
突然どこからか声がした。はっと振り向きかけるのを制するように、どっ、と後ろから右肩になにかが突き刺さった。
「ッ…………!」
なにがおこったのか分からない。ルコはふらふらと体の向きを変え、肩から強烈な痛みを与えてくるものの正体を探ろうと左手を伸ばした。
矢だ。だらりと垂らした右腕に、傷口から流れ出た血が伝う。
声がした方へ目を向けると、参道の半ばに二つの人影が認められた。
どちらも男だ。どちらも若いが、着ている服は白と黒でそれぞれ対照的だ。白服の男は少年と言っても差し支えないほどで、手にした弓がやけに仰々しい。裾や襟を飾る刺繍はアザミの花を模したものだとすぐに分かった。しかし顔に見覚えはない。
もう一方の黒服の男は、二十代後半を思わせる。手入れのされていない乱れた黒髪と、妖しく光る朱色の瞳、聖職者のローブに似た衣服には見覚えがあった。
――〈機関〉の下級隊員と、私の眷属……。
「久しぶりですね、ルコさま」
眷属がへらへらと笑う隣で、〈機関〉の少年は背中の矢筒から矢を一本引き抜き、弓につがえている。
「どうして〈機関〉と一緒にいるのかしら」
「それをあなたが言いますか?」
二本目の矢はすぐに放たれたが、ルコから外れた門の柱に突き刺さった。少年は忌々し気に舌打ちをしている。
ルコは肩の矢を引き抜こうとした。しかし直後、焼けるような痛みに襲われる。傷口からじゅうじゅうと聞くに堪えない音がした。どうやら普通の矢ではないらしい。立っていられなくなり、思わず賽銭箱を背にして座りこんだ。
「ずいぶん長い間顔を見ていなかったけれど、その挨拶がこれ? どういう了見か聞かせてもらえる?」
「落ちぶれてしまったあなたをこれ以上見ていたくないんですよ」
眷属は少年を引き連れ、一歩ずつ近づいてくる。
「あなたはご自身がどういう存在かお忘れですか。人を超越した不死身の存在。薄情で無慈悲で高潔なる吸血鬼。人型幻獣の先駆けにして最高傑作。そうでしょう?」
「そう名乗った記憶はないわ。あなたたちが勝手に呼んでいるだけよ」
「ああ……謙遜するなんてルコさまらしくない。やはりあなたは、あの男と結ばれてから変わってしまわれた」
男がやれやれと肩をすくめると、少年が矢を放った。距離が狭まったこともあり、今度はルコの腹に命中した。純白のドレスがまたたく間に赤く染まっていく。
しゅう、と目の前に煙が立ち上った。矢が刺さった場所からだ。
――この矢は、まさか。
「貴様にとっての弱点は銀なのだと、そこの吸血鬼から聞いたよ」少年が初めて口を開いた。「矢は銀製なんだ。効くかどうかは分からないけど、一応毒だって塗ってある」
嘲笑まじりのそれは声変りをして間もないのか、多少のあどけなさが残っている。彼が放った三本目の矢は左肩をつらぬき、ルコと賽銭箱をぬいつけた。情けない悲鳴を上げるまいと噛みしめた唇に血がにじむ。
「何百年も生きている幻獣らしいな。昔は強くて麗しくて素晴らしかったと散々そいつに教えられてね。どんな美しい奴なのかと思ったのに、なんだ、この程度でくたばるくらい弱いとか。正直とんだ期待外れだよ」
「褒めていただいて嬉しいけれど、勝手に失望されてもいい迷惑だわ。それで? あなたたちは手を組んだってことでいいのかしら」
「利害が一致したんです」と眷属はしゃがみこみ、ルコの顎を掴んで無理やり視線を合わせてきた。「夫という存在を得て弱くなったあなたは、二度ともとに戻ることはないでしょう。そんなの耐えられない。だったら殺してしまえばいいと思ったんですよ。けれど俺ではとうていあなたに敵わない。弱体化したとはいえ、主従関係であることに変わりはないから手が出せない。でも、ほら。今はそこら中に〈機関〉がいるでしょ? 手柄を得たい奴だってごろごろいる。だからそいつと組んだんです。ルコさまを殺してくれって」
眷属は自分の理想と違ってしまったルコを消せるし、少年は手柄を得て〈機関〉での昇進が期待できる。なるほどね、と薄くほほ笑んだルコに、眷属は怪訝そうな眼差しを向けてきた。
「まだ余裕なんですか?」
「ええ、そうね。この程度で弱らせたと思われたくないものだわ」
「気丈で結構です」
にこ、と眷属は極上の笑みを浮かべ、勢いよくルコの頬を平手打ちした。甲高い音が鳴り、木の枝で休んでいたであろう鳥たちが数羽飛び立っていく。
その後も数発、同じように叩いたあと、眷属はうなだれるルコの前髪を掴んで上向かせた。
「どうして抵抗しないんですか。されるがままなんて、やっぱりルコさまらしくない」
「……そうね。あなたの言う通り、私は変わってしまったのかもしれないわ。じゃなきゃ今ごろあなたたちの頭を潰しているでしょうね」
「以前のルコさまに殺されるのなら最上の幸福ですが、今のルコさまに殺されるのは屈辱です。俺よりも弱い相手の手にかかるなんてごめんだ」
――ついさっき「絶望する仲間もいる」って聞いたけれど。
――もしかして、この子のことだったのかしら。
幻獣の特性として、〈核〉がある限りはいかなる傷もすぐに治る。殴られた頬も一時的に腫れはしたが一瞬で引いた。だが銀製の矢だけはどうしようもなく、じゅくじゅくと着実にルコの肉を焼いていく。抜こうにも手に力が入らないし、返しがあるため簡単に抜けない。
「このあたりですよね、ルコさまの〈核〉は」と眷属がルコの胸を指でなぞる。ぞっと悪寒が背筋を撫でた。「一つ気になるんですが、ルコさまの血を吸い尽くして、そのうえで俺に〈核〉を埋め込んだなら、俺はルコさまになれるんでしょうか」
「あなたが、私に? さあ、どうかしら。でも無理でしょうね」
くふ、と掠れた嗤いが吐息のようにこぼれた。
「確かに私は弱くなったかもしれないけれど、誇りまで捨てた覚えはないわ」
「!」
痛みは絶えず続いている。ルコはそれを意識の隅に追いやり、力を振り絞って腰を上げた。
瞳は萌葱色からおぞましい緋色に変化し、同時に丸っこかった爪が肉を切り裂くほど鋭利に伸びる。両腕ともまともに力は入らないが、それでも不意をつくには十分だった。ルコの爪は眷属の顔を左右から深く引っかき、格子状の傷を刻みつけた。
まさか反撃が来ると思っていなかったのか、眷属はあっさりと腰を抜かしている。
自分も攻撃されないか、と少年が数歩下がった隙に、ルコは眷属に乗りかかった。先鋭な犬歯で首筋に噛みつき、そのまま肉を食いちぎる。聞くに堪えない醜い悲鳴を聞き流し、同じように他の部位も食いちぎってやろうとしたところで、〈機関〉の少年に引き倒された。
背中を強く打ちつけ、首を絞めるように押さえつけられる。少年の手には弓矢ではなく、いつしか短剣が握られていた。
「貴様のような幻獣は危険だ。今は大人しくしていても、いつか人に被害が及ぶに違いない。ここで殺してやらないとな」
「――――……りよ……」
「なんだと?」
「あなたみたいな下っ端に殺されるなんてお断りだって言ったのよ」
ルコを殺していいのはただ一人だけだ。
首を掴む少年の腕にぐっと爪を食いこませ、少しでも力が緩まないかと試してみた。だが彼は痛みに呻くこともなく、幻獣討伐の果てに手に入るであろう地位が待ち遠しいのか、唇はいびつな三日月の弧を描いている。
「ああ、そうだ。最後に一つ聞いてやらないと。貴様と結ばれたとかいう〈機関〉の隊員は誰だ? 幻獣を憎み消し去る組織に属していながら裏切った愚か者を言え」
どうやら青年と違い、少年と手を組んだ眷属はルコの夫について詳細に知らなかったらしい。でなければここで裏切り者を白状しろなどと迫られるはずがない。
ぎし、と骨が軋むほどに少年を掴む手に力をこめ、ルコは散々待たせた挙句に言い放った。
「お断りするわ」
「……そうか」仕方ない、と少年は短剣を高く振り上げた。「言えば楽に殺してやろうと思ったのに。残念だったな吸血鬼。今まで人々が受けた苦しみのぶん痛めつけてから〈核〉を…………ん?」
少年の言葉が途切れる。顔と噛まれた傷を再生させた眷属も彼の隣に並び、訝しげに周囲を見回していた。
境内には相変わらず静けさが満ちている。その中で、雨風に左右された様子のない、黒い霧のようなものが本殿側から参道側に通り抜けていった。
なんだあれは、と二人が霧を目で追おうとした次の瞬間。
眷属の首が高く宙を舞った。
「…………え?」
疑問を一つこぼして、力を失くした彼の体はどっと音を立てて崩れ落ちる。毬のように地面に転がった首は、困惑に彩られたまま間もなく砂と化して雨に流されていった。
「なっ――――」
少年の手が首から放れる。彼は慌てた様子で参道を見ており、ルコはのろのろと体を起こして同じところに視線を向けた。
そこに立っていたのはがっしりとした体格の男だった。衣服は黒。紫色の糸で描かれている刺繍は少年の白服に刻まれたそれと同様だ。右手に携えた刀には眷属を斬った際の血が残されている。どういうわけか、肩にはいかつい顔に似合わない黒い小鳥が乗っていた。
――ああ。
ルコが安堵を浮かべる前で、少年の脚が震えはじめる。
「あ、あなたは」
「ここでなにをしている」と低い声で問うた男は、間違いなくルコの夫――蒼依だった。
〈機関〉において黒服の着用が許されるのは幹部級だけ。なかでも蒼依は〈花〉と呼ばれる上級幹部だ。白服の少年から見ればはるかに上の地位である。
蒼依は刀を手にしたまま、音もなく少年との距離を詰めていった。
「白服――〈種〉や〈芽〉は原則二人以上での行動が定められているはずだが」
「そ、そうですが……しかし聞いてください! 俺、いやえっと、私は危険な幻獣がいるとの情報提供を受け、討伐に、」
「一人で、か? お前と行動を共にしていたはずの白服はどこへ?」
「そ、れは」
「一人で手柄を上げて抜け駆けをしようとしていたのか」
少年はなにも言わずに歯を食いしばっている。かと思うと、「ですがッ!」となお己の正当性を主張するかのように、賽銭箱にもたれかかるルコの腕をつかんで引っ張り、蒼依に見せつけた。
「私は一人でこいつを追い詰めました。もうすぐ〈核〉を破壊できそうなんです!」
「嘘だろう。お前とともにいた男はなんだ? お前の協力者ではないのか」
「ち、違います! そいつはその吸血鬼の眷属でした。私はそれを利用していたんです! この吸血鬼を処分後、眷属にも手を下す予定だったんです」
見ていてください、と少年は震える手に力をこめ、短剣の切っ先をルコの胸に突き付ける。
彼は気づいていないようだ。蒼依の瞳に瞋恚が揺らめいていることなど。
「私はこいつを討伐して、幹部への一歩を――――」
「無理だな」
ルコの視界で目もくらむような銀がひらめく。
痛みを感じたのは一瞬だった。ルコの首は、眷属と同じように胴体から切り離され、ことりと膝の上に落下する。ぱ、と断面から噴きあがった血は、白いドレスを濃密な赤に彩色していった。
「お前に彼女は殺せない」
蒼依の言葉を最後に、ルコの意識は水底に沈むかのごとく落ちた。
目覚めた日のことは鮮明に覚えている。
「あー、良かった。ちゃんと起きた!」
ふんわりと体重を受け止めるベッドから体を起こすと、かたわらに置かれた椅子に見知らぬ壮年の男が座っていた。何日も寝ていないのか目元には濃い隈があり、白髪交じりの無精ひげはみっともなく伸びている。
彼が〈無垢〉の別名で呼ばれるツヴァイト家の魔術師だと知ったのは後日のことだ。この時はまだ、ルコは自分が誰なのかも分かっていなかったし、当然男の正体を知る由もなかった。
立派なベッドのわりに、部屋は粗末だった。板張りの壁からはすきま風が入り放題で、天井には蜘蛛の巣も目立つ。ルコが寝かされていたベッドの隣には二回りほど小さなベッドが置かれ、その中で眠る赤子はぷうぷうと可愛らしい寝息をたてている。
「ひとまず目覚めるのは成功したな。ううん、次は……言葉! 言葉はどうだろう。君、話せるか?」
「…………?」
「しまった。知能はそれほど高くないのか? いや、でも人を使ったんだし、そんなことはないと思うのに。作り方は問題なかったし、材料の人間が良くなかったとか? まいったな。ユーリの母親代わりになってもらいたかったんだが……これから教えていくしかないか。だよな?」
「……あー……?」
「はは、そうか。こっちが言っていることも分からないか」
男はルコの華奢な肩を力強く叩いた。てっきり痛めつけるために叩いたのだと思っていたのに、後年になって「あれは励ましていたつもりだったんだぞ」と教えられた。
男は妻を亡くしていた。妻との間には息子が残され、自分一人で育てていく決意をしたものの、今度は自分が病にかかってしまったという。
魔術師がもつ神力は「なんでも出来る力」であり「なんでも出来ない力」でもある。男が得意とするのは幻獣作成で、病の治癒などはまったく出来なかったのだ。
「だから思ったんだよ。俺の代わりに息子の面倒を見てくれる幻獣がいたらなって」
「それで私を作ったの?」
作成から数年の歳月が流れ、男は死の床についていた。ユーリと呼ばれていた男の息子は七歳になり、ルコの知能も相応に成長してきた頃だった。
「俺は分家だし貧乏だ。人を雇う金もない。だったら幻獣を作ったらいいかって思いついたんだよ。すごいだろ?」
「褒めてほしいなら素直にそう言えばいいじゃない」
「はは、そうだな――けどな、今まで作ってきた幻獣と同じにはしたくなかったんだよ。なにせ人を……俺の息子を育てるんだ。動物型や植物型に任せるのはちょっと不安でさ。で、『じゃあ人型の幻獣を作ったらいいじゃないか』って。それでお前を作ったんだ」
男がルコを作り上げるまで、人型の幻獣は現れなかったそうだ。挑戦者はいたけれど失敗続きだったのだと。ルコの誕生をきっかけに他の魔術師たちは男に技術を乞うようになり、人型の幻獣は増え、同時に男のもとに舞いこむ金も増えていった。
「だったらそのお金で、本家やよその魔術師に頼んで病気を治してもらえばいいじゃない。まだ間に合うんじゃないの?」
「さすがにもう遅い。いいんだよ。俺はじゅうぶん幸せだった。それじゃあ、ルコ。ユーリを頼んだ。ユーリも、ルコをあまり困らせるんじゃないぞ」
「はい、父さん」
ルコを作る時に「ユーリの世話をしてくれるように」と願ったからだろう。ルコにとってユーリは息子のような、弟のような存在だった。甘えてくる姿は愛らしく、悪さをして𠮟りつけた際にはたまに反抗もされたが、基本的には彼はとても素直で明るかった。また父譲りの幻獣作成能力も保持していた。
素晴らしい幻獣を作る魔術師がいる、と評判され、ユーリのもとには多数の依頼がもたらされる。やがてその能力はツヴァイト本家にも注目され、当時の当主に男子がいなかったこともなり、大人になった彼はツヴァイト家の次期当主として引きたてられることになったのだ。
「父さん喜んでくれるかな」
「もちろんよ。生きていたらとても褒めてくれたでしょうね」
「ルコは褒めてくれないの?」
「私が褒めたら、ユーリはそれで満足してしまうでしょう? だから今はお預けしてるだけ」
「はは」と笑う顔は父にそっくりだった。「手厳しいな、ルコは」
当主としての振る舞いや言動を教育されながら、技術を学ぼうと集まってくる弟子たちに教えを施す毎日。ルコもかたわらで支え、たまに悩んで行きづまるユーリを慰めてやったりもした。
なにもかもが順調で幸せだった。ユーリとの間に、ただの家族として以上の感情が芽生えつつある自覚はお互いにあったが、口にすると今の生活が壊れてしまいそうで、どちらも言葉には出せなかった。
そんな日々が急変したのは、幻獣作成に人間が使われていると露見してからだ。
露見してしまったのは別の家系だったが、追及を受ける中で、そこの魔術師が暴露した。
――真っ先に人を材料に使ったのはツヴァイト家だ。
「…………ルコ」
雨が降りしきる庭で、ルコはユーリと向かい合っていた。その手に握られているのは鋭利なナイフ。ツヴァイト家に残っているのは再興を託されて逃亡した彼だけとなり、他の親族はみな投獄され、今や処刑を待つのみとなっている。
ユーリも決して安全ではない。彼の名は期待の魔術師として広く知られていたし、捕まった人々の中に彼がいないことも同様に知られていた。どこまでも逃げたところで、追手をふりきることは出来ないだろう。
「ルコ」とユーリは今にも泣きそうな顔で名前を呼んできた。左手の薬指で輝く指輪は、つい先ほどはめたばかりのものだ。
「ルコは私にとって母であり、姉であり、そして……愛しているんだ。そんな君を壊すなんて、私にはとても出来ない。一緒に死んでくれなんて言えない。私が死んだら君は自由だ。どこにでも行くといい。けれどどうか、私が息絶えてしまうまでは美しいほほ笑みをたたえていておくれ。今まで支えてくれてありがとう」
「待ってユーリ、まだ、」
助かる方法はあるはず、と手を伸ばしたルコの前で、ユーリはどこまでも穏やかな笑みを浮かべ、己の首にナイフを突き立てた。
「――――ユーリ…………」
「起きたか」
頬に涙が伝う感覚に目を覚ます。見慣れた天井が目に入った。視線だけを横に動かすと、白いシャツと黒いパンツだけという簡素なかっこうをした夫が正座していた。
「……蒼依さん?」と呼んだ声はかさついている。
「まるっと一日眠っていたんだ。気がついたようで安心した」
手套をつけていない指がルコの涙を拭っていく。
「調子はどうだ」
「あまりいいものじゃないわ……体が重いもの」
「一応そこの瓶に入っていた血は飲ませた。覚えていないかもしれないが」
「まったく知らないわね。どうせなら意識がある時に味わいたかったわ」
「あの状況では仕方がないだろう。首が元に戻ったのも昼頃だった」
普段の再生速度であればその日の夜には戻っていたはずだ。自分で思っていた以上に血を流していたらしい。
今も決して万全とはいいがたい。蒼依に頼んで右手を持ち上げてもらうと、目に映ったのは水をはじく玉肌ではなく、皺だらけになって骨が浮き出る老いた手だ。
喉もひどく渇いている。望みを察したのか、蒼依は無言でシャツのボタンを外して肌を露にしてから、人形のごとく脱力したルコを己の腿の上に座らせた。しばらくぐったりと彼の肩口に額を押しつけていると、「口を開けろ」と指示される。言われるがままにのろのろと唇を開いて犬歯をむき出しにしたところで、蒼依はルコの口を己の肩にあてがった。
ぷつ、と歯の先が遠慮がちに皮膚を刺す。舌の上に血の味が広がった頃には、ルコにもはや理性はなく、根元まで歯を埋めこんで、吸血鬼としての本能に従って夫の血を味わっていた。
蒼依は苦痛一つ上げることなく、赤子をあやすように背中を撫でてくれている。歴戦の傷が残る手は武骨で不器用そうなのに、手つきは優しく繊細だった。
じゅうぶんに血液をむさぼって意識も明瞭になったところで、ルコは夫の肩から牙を引き抜いた。布団に戻る気になれず、そのまま身を委ねるように蒼依の胸にもたれかかる。とくとく、と命を刻む音が耳を打った。
「あの白服の男の子はどうしたの」
「罰則を受けている」と蒼依は感情のうかがえない声で言う。「ルコを傷つけたんだ。殺してやろうかとも思ったが、僕の班の所属じゃなかったからな。隊律違反を理由にして奴の上司に突き出してやった」
「……そう」
「『手柄を横取りする気ですか』と喚かれたが、違反しておいて横取りもなにもないだろう。『〈核〉が胸にあるとも限らない』と適当に説教もした」
だからルコの首を刎ねたのか。あからさまに助けるわけにいかず、先に眷属を殺したことで首を飛ばせば死ぬと印象付けて。しかし眷属と違い、ルコは〈核〉さえ無事なら元通りになる。
「公にはあなたが私を処分したってことにしてきたのね」
「僕の到着があと少し遅れていれば、君は間違いなく〈核〉を破壊されていたはずだ」
「どうしてあそこに私がいるって分かったの?」
「君の眷属を名乗る男に呼ばれたんだ。『ルコさまが危ない』と」
そういえば神社に現れた蒼依の肩には黒い小鳥がいた。ドレスの着付けを手伝ってくれた青年だったのだろう。家に現れた時と同様、どこかでルコを見ていたのかもしれない。
――疑わしいけれど。
「君こそ、どうして神社に? 普段からそんな場所に行ったことないだろう」
「ちょっとした気まぐれだったの。あなたを呼びに行った子と話をしていて、少し覗いてみるのも悪くないかと思って」
「姿を変えて逃げるなり、もっと反撃するなり出来たはずじゃないのか」
「私に刺さっていた矢を見なかったの?」
銀に傷つけられた際は、その傷が回復するまで変身能力はまともに使えない欠点がある。まして今回の武器は矢だった。剣でただ斬られたのとは受ける影響が違う。反撃が遅れたのも同様の理由だ。
蒼依はしばし考える様子を見せ、「そうか」とだけ呟いて、ルコの痛みをいたわるように肩を撫でてくれる。
気絶していた間に蒼依が着替えさせたのだろう。ルコは薄い単衣をまとっていた。
「君が着ていたドレスなら、眷属の男が持っていったぞ」
「……どうして?」
「洗ってくると言っていた。腹の部分は破れていたし、そこも縫っておくと」
「……別に捨ててくれても構わなかったのに。似合わなかったでしょう?」
「確かにいつもと雰囲気は違って見えたが、似合わないとは思わなかったぞ。胴を両断しては服も破れてしまってもったいないな、とも」
蒼依は以前、任務をこなす中で敵の盾にされたルコの体を躊躇なく斬り捨てたことがあった。同じ手を取らなかったのは見惚れていたからなのか、と微妙におかしくなって、ルコは目じりを下げて笑う。
「幻獣屋が渡した服というのは、あの白いドレスか?」
「ええ。結婚祝いですって。私と、あなたの」
「……なにか裏があるんじゃないのか?」
「単純に荷物になるものを押しつけてきただけだったみたい。昔のことを思い出すから、白いドレスはあまり好きじゃないんだけれど」
「そういえば気がつく前に誰かを呼んでいたな。『ユーリ』と。それに関係しているのか?」
嫉妬などではなく、単純に興味があったのだろう。
蒼依にルコの過去を詳細に話したことはなかった。これも一つの機会だろう。ルコは自身が作られた日からユーリが死を選ぶ日までを話した。
「私ね、ユーリに求婚されていたのよ」
ルコの肩を撫でる蒼依の手が止まる。
「ずっと断ってきたの。私はあなたを守り育てるために作られた幻獣であって、恋人にはなれないって。でも十年くらい経って、折れたのよ。私だってユーリのことを愛していないわけじゃなかったから。……その頃にはもう魔術師への糾弾が始まっていたわ。残された時間は短かった。私はドレスを着て、彼に求婚を受けるって伝えに行ったの」
雨の降る庭にいたユーリは、ルコが結婚の意思を固める一方で、死を選ぶ道の上に立っていた。
「助けて、あげられなかった」
はらはらと涙がこぼれ落ちる。自分の意思で止められない。
「私の眷属として一緒に生きる選択肢もあった。だけど彼は自死を選んだ。私が呆然としている間に血がどんどん流れていってしまった」
「…………」
「私がもっと早くに決意を固めていれば未来は違ったのかもしれないって、何度も思ったし後悔したわ。ユーリがいないのなら『自由だ』って言われたところでどうすればいいのか分からない。だけど死ぬ勇気も出なかった。幻獣が〈核〉を破壊されて死んでいくところを何度も見たことがあって、怖かったから」
幻獣に死体は残らない。〈核〉が無くなれば血肉は砂となる運命だ。
「眷属を作ったのも、一人は寂しかったからか?」
「ええ、そうね。そうかもしれない。でもいくら眷属を得てもユーリを失った虚しさは埋められなかったわ。あなたに会うまでは」
ルコはゆるりと顔を上げ、氷のごとく冷たい手で蒼依の頬を両側から包みこんだ。
「先に言っておくけれど、あなたをユーリの代わりとして見たことは無いわよ。見た目も性格も全然違うもの。――あなたは私を殺すと言ってくれた」
そこに惚れたのよ、とルコは蒼依に唇に己のそれを重ねた。二、三度くり返して様子をうかがうと、彼は軽く首を傾げている。
「前にもそう聞いたが、ずいぶん歪んだ理由だな」
「さすがに百五十年くらい生きたころには『死んでもいい』って覚悟を決めたのよ? でも自分の名誉ばかり気にしたり、面白半分で挑んでくる人に殺されるのは納得がいかなかった」
死んでもいいと言いながら敵はことごとく返り討ちにしてきたし、眷属が殺された際には復讐に及んだこともある。蒼依との出会いもそれが理由だった。我ながらちぐはぐだと自嘲の笑みがこぼれる。
「蒼依さんの殺意はきれいだったもの。幻獣を徹底的に滅ぼすっていう決意が美しかった。ああ、この人になら殺されてもいい――殺されたいって思うくらいにはね」
「そう思うなら、他の男にやすやすと殺されようとするな。肝を冷やしたんだぞ」
「ごめんなさい」
彼の言葉は本音だろう。瞳には恐れと怒りが浮かんでいる。表情と違って彼の眼差しは雄弁だ。
蒼依の指がルコの頤をすくう。
「口づける約束だったから」
言い訳のように呟いて、蒼依はルコに口づけた。あご髭のくすぐったさに微笑んだすきに舌が入りこみ、歯列や口蓋をなぞられるとぞくぞくと肌が粟立つ。仕返しとばかりに軽く唇に噛みつくと、わずかに彼の頬が綻んだ。
は、と吐息をこぼして顔を離す。互いをつなぐ唾液の銀糸は蒼依の舌が絡めとっていった。
ふと目を見ると、鈍色だった蒼依のそこは緋色に染まりつつある。
「体が辛いならここで止めておくが」
「まさか。ちょっと乱暴にされたくらいで壊れないわよ」
ルコの指が、蒼依の筋肉質な首から体の線を辿るように下っていく。
「まだ物足りないわ。あなただってそうじゃない?」
蒼依はなにも答えず、無言でルコの唇を奪った。布団に横たえられながら彼の背中に腕を回し、首筋をなぞっていく舌に体を震わせる。
昨日まで降り続いていた雨は止んでいる。なにげなく窓の外を見ると、久しぶりに見た夕焼けは血のように凄艶だ。その空の下を、ぴちち、と歌うように鳴きながら、一羽の黒い鳥が飛んでいった。
翌日の昼ごろに目覚めると、蒼依の姿はすでに無かった。体を起こすと、座卓の上に血液を詰めた瓶と書き置きがあるのが目についた。念のために今日は休んでおけ、と記してある。
昼食代わりの血を飲み干してから窓を開け放った。南の空で輝く太陽がまぶしい。
「――いるんでしょう」
ルコの呼びかけから数秒後、どこからともなく現れた小鳥が部屋の中に入りこんでくる。間もなく小鳥は青年の姿をとった。
「おはようございます、と言うには少し遅いでしょうか。しかしルコさま、我々眷属は日光に弱いのですよ。ここに来るまでの間に焼けるかと思いました」
「挨拶と愚痴はけっこうよ」
うだうだと無駄話をする気はない。ルコは目もあやな笑みを浮かべ、青年に詰め寄った。
「あの眷属をそそのかしたのはあなたでしょう」
「…………」
「とぼけるつもりかしら。あの眷属は蒼依さんのことを知らないみたいだったし、当然私がどこでどう暮らしているかも把握していなかったはず。たいしてあなたは直前に私に呼び出されているし、私がどんな行動をとるのか予想も出来ていたでしょうね」
「…………」
「なんとか言ったらどう?」
「素晴らしいです、ルコさま。そこまでお見通しだったとは」
ぱちぱちと青年は手を鳴らす。馬鹿にしている様子はなく、心の底から感動したと言いたげな表情だ。
「ですが一つ訂正を」青年は人差し指を立てて悲しげに眉を下げる。「彼が〈機関〉と手を組んでいる、しかもあなたさまを討とうとしているとは想定外でした。彼からはただルコさまが元に戻るようお話をしたいと相談を受けていたもので」
彼は境内でもルコたちを眺めていたのだろう。青年は死んだ眷属と違ってルコに崇拝に似た情を抱いているし、殺されてしまうわけにはいかなかった。
「だから蒼依さんを呼びに行ったのね。そこだけは感謝するわ」
「ルコさまの危機を知らせた見返りに、半年ほど幻獣としての活動を見逃していただけることになりました。お優しい方ですね」
最初からそれが目的だったのではないかと疑う気持ちもまだあるが、ひとまず青年の言葉を信じることにしてやった。
「蒼依さんはすぐ近くにいたの?」
「いいえ、ここから少し離れた山間部の方にいらっしゃいました。もしかすると間に合わないかと思ったのですが……まさか
「ああ、そういえば言っていなかったわね」
蒼依はただの人間ではない。ルコと契約し、体内に血を取りこんだことで常人より長命となったうえ、幻獣由来の力を使用できるようになった〝幻操師〟だ。遠距離からすぐに駆けつけられたのは幻操師としての能力をいかんなく発揮したからだろう。青年が鳥の姿になれるように、蒼依は霧と化して素早く移動するのを得意としていたはずだ。
「次に同じような手段を取ってみなさい。その時は問答無用であなたを殺すわ」
「二度としませんよ。お二人の結びつきはしかとこの目で見ましたし、ルコさまの選択を訝ることは今後一切いたしません。お詫びとして他の眷属の説得にも回りましょう」
「そうして頂戴」
話は以上、と口にするかわりに背を向けて庭を眺める。青年は陽の差しこまない影の際までやってくると、「そういえば」と訊ねてきた。
「まだドレスを繕えておりません。ご希望であれば処分もしますが、いかがなさいますか?」
「……持ってきてもらえるかしら」
「おや、てっきり捨てろと仰るかと」
「蒼依さんが、その、言ってたのよ」
昨晩、眠る間際に彼はルコの髪を撫でて「花嫁衣装で着飾った君をちゃんと見てみたい」と呟いていたのだ。
――君が式を挙げたいというのなら付き合う。今は忙しくて難しいが、いずれは。
だからこう返答した。「梅雨の時期に式を挙げるのが流行っているらしいわよ」と。蒼依は不思議そうにしながらも、悪くないとうなずいてくれた。
「思うのですが、花嫁衣装が白ではないといけない、とも限らないのではないでしょうか」
青年は小鳥に姿を変え、ルコの周囲で羽ばたいた。
「昨日目にして感じました。あなたさまに似合うのは黒でも白でもない。鮮やかな赤ではないかと」
「赤、ね。悪くないじゃない」
ルコはよく髪を結ぶが、その際に使うリボンも赤であることが多い。もともと嫌いな色ではなかった。
「ではそのように手直しをいたします。せっかくの純白を染めるのは多少忍びないですが」
「あなたってなんでも出来るのね」
「ルコさまのためならこの程度いくらでもいたします。それではまた後日、ドレスをお届けに上がりますので」
青年は青空に向かって飛んでいく。日光に弱いという言葉通り、雨の日に比べて羽ばたきが不安定だった。にもかかわらず呼び立てたのは罰のつもりもあったのだが、あの様子では彼にとってルコからの罰はすべて褒美となりそうだ。
これからもこの季節、雨が降るたびにユーリのことを思い出すのは間違いない。白が苦手なのも相変わらずだ。
けれどそれ以上に、甘い記憶に彩られる予感がする。真っ赤なドレスを着たルコと、その手を取る黒衣の蒼依。二人をつなぐのは歪んだ愛だとしても、幸せであることに変わりはない。
ルコは装飾品を入れる小箱にしまっていた一つの指輪を取り出した。蒼依から結婚の言葉とともに渡されたものだ。銀で出来ているため、普段はつけられないそれを、左手の薬指に通した。
「……ふふ。楽しみね」
じゅ、と音を立てて指輪に触れている皮膚が焼けただれていく。それすらも欣幸と感じて、ルコは萌葱色の瞳をうっとりと細めた。
梅雨の色 小野寺かける @kake_hika
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