第2話 文字愛 vs 文字アンチ

「あなたは幼稚園の頃には新聞を読む変な子で」


 これも房子ふさこの証言だ。

 これについて亜美あみには多少、異論がある。他に読むものがないから新聞に関心が向いただけだろう、と。


 亜美の幼い頃、家には子供向けの本がなかった。

 理由を突き詰めれば、母の千秋ちあきが文字嫌いなのである。

 千秋はがんが見付かった時、文字が嫌いだからと食事制限や治療説明のプリントを一行も読まなかった程だ。生き死により文字嫌いが上回るらしい。

 更に、文字は小学校で覚える感覚の千秋だから、幼児に本を与える発想もなかった。兄が小学校に上がるまで亜美には飢餓きが的な文字不足だったろう。


 何しろ亜美はカトリックの幼稚園へ入園して間もなく自由時間に「聖書のお話」や聖歌集を読みにお御堂みどう通いを始め、


OHHHHHHおぉーーー! ※〇★◇◎?」


 西洋人の神父様が声を上げて感動した位だ。多分、神の教えに導かれた子と思われて。化け猫の次が、神に愛される子。たった四年の人生の割にドラマチックである。

 文字は読むもののコミュニケーション能力ゼロな幼稚園児と、日本語の達者でない外国人神父は幸せな誤解で結ばれた。


 この通り、亜美は文字ならば何でも良かったのだ。新聞を全て読めていた訳がないが、鑑賞することに意義があったのだろう。

 しかし、彼女には筋金入りの文字アンチが立ちふさがる。勿論、千秋だ。亜美の家でも新聞は取っていた。しかし、千秋は亜美が新聞を見ると取り上げる。一方、房子がいると千秋は余りしからない為、新聞をながめられた。それを覚えた幼児は、ここぞとばかりに房子の前で新聞を見た、と亜美は分析する。


 そして、六歳の時、文字愛vs.文字アンチ、騒乱のタネがかれた。その名を国語辞典と言う。

 祖父母の何某なにがしかの祝いで房子は金字のいわごとを刻んだ国語辞典を配った。それが亜美と兄にも一冊ずつ来たのである。


 これは亜美には事件だった。

 房子や千秋の感覚では、昭和視点で女子用の品以外、全て長男に与えるのが当然で弟妹ていまいは兄に平伏へいふくして貸りるもの、とされていた。いつもの法則ならば辞書は亜美には来ない。

 それが来た。しかも、文字がこれでもかと詰め込まれている辞書である。亜美がときめかない筈がない。今の子がタブレットをもらうより感動した自信が亜美にはある。

 読み過ぎて小学校低学年で辞書はバラバラに壊れるのだが、そんなに読んで千秋が嫌がらない訳がない。しかし、辞書は自分の母が与えたものだから取り上げられず、


「幼稚園で判らなかった言葉を引く時だけ辞書を開いて良いです」


 謎のルールが誕生した。ニュースの言葉等は引いてはいけない。

 しかし、千秋は知らなかった。カトリックは文語を常用していたことを。


「てんにましますわれらのちちよ ねがわくはみなのとうとまれんことを」

「もろびとこぞりて むかえまつれ」


 この見事な呪文ぶり。古語辞典が必要な気がするが、亜美は祈りや聖歌の文言もんごんを辞書で調べ始める。辞書でも判らなかった語を神父様に声をかけられた時、たずねることもあったので、彼の喜びの声は響き続けた。

 滅多にめられない亜美を手放しで褒める神父のお陰で、亜美は呪文を調べることを千秋に禁止されずに済む。


 その代わり、千秋は辞書と向き合う暇を削減する手に出た。

 亜美のお手伝いは主に外掃除、掃除機がけ、布巾ふきん縫い、お茶くみ、米ぎ、下拵したごしらえ、なべの見張りと灰汁あく取り、洗濯物たたみ、草取り、お使い、マッサージだったが、風呂掃除、雑巾がけ、手洗い洗濯と洗濯物干しが追加される。

 仕事が片付いていない、という理由で辞書から引き離され、千秋は亜美に可能な家事がないか目を光らせた。何が何でも読む時間を削りたい千秋の意思が感じられる。お陰で亜美は九歳でDIYから庭木の移植、時計修理まで担った。


 千秋が読書を嫌ったのには彼女なりの深刻な理由もある。亜美の祖父、千秋の父は失明した。彼女にとって視力低下は恐怖である。

 本を読むと目が悪くなる、そう固く信じていた千秋は子供達が本を読むのが怖かったのだろう。皮肉なことに子供達は読書好きだった。


 また、娘はとつがせる為に育てていた千秋にとって亜美が眼鏡になって「もらい手」に困ることが悩みなのだ。女は良い嫁ぎ先を得る為の教養のみ身につけるべきで、学問や本気の芸事は害、と彼女は思っていた。

 亜美が本を読むと千秋に怒られる現象は学校に上がっても続く。怒られるから隠れて読み、隠れて読むと見付かった時に更に怒られる、このエンドレスだった。十代で俳優Χ氏と出会うまでは。

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