最終話:新しき名前と共に

 季節は巡る。

 南からの風に仄かな暖かさを感じた季節に始まった会試は、冷たい北風が吹き込み始めた頃に終わりを迎えた。

 そして今、都は長く厳しい冬を乗り越え、新たな命が地面や木々の梢に芽生え始めようとしている。

 

「悪い! ちょっと急いでいるんだ、通してくれ!」


 多くの人が行き交う都の大通りを、義忠が声を張り上げながら駆け抜ける。

 義忠は科挙に合格し、官吏となった。しかも天子の傍に控える補佐役という、新人には有り得ぬ厚遇である。


 が、補佐役と言いながらも実質は天子の使い走りと言った方がより正確だろう。

 いくら天子と言えども、まつりごとを行うには何かと手続きが必要なものである。

 そこでちょっとした厄介ごとならそのような手数をかけることなく、義忠に直接言いつけて解決させることにした。

 

「お、義忠さん! また何かあったのかい?」

「いつも大変だねぇ。今度またうちの店へ飲みにおいでよ」

「おお、義忠さん。先日はうちの孫がお世話になりました」


 おかげでほぼ毎日、都をあっちへ行ったりこっちへ行ったりして問題を解決する日々を送った結果、今や都の人で義忠を知らぬ人はおらぬほどの有名人となった。

 父・曽義之の名誉も回復し、今や曽親子と言えば二代に渡って国に尽くす忠臣として語られるほどだ。

 

「……義忠」

「すまんが話は後に……って、おお、久しぶりだな、クゥ!」

「……ん」

 

 行き交う人々を器用に避けながら疾走する義忠に何者かが並走してきたかと思えば、それは他でもない空であった。

 かつてのような乞食みたいな姿ではないものの、今の空もまた義忠とは違う意味で有名人となったので、フードを深く被って顔を隠している。

 

 そう、科挙に合格したものの官吏を職を固辞した空は、義忠も驚くべき職に就いた。

 なんと歌姫である。

 空とほぼ年齢の変わらない女の子たちとグループを組み、音楽に合わせて踊り、歌うその斬新なパフォーマンスはたちまち都の人々を虜にした。

 なので今も目立たぬよう頭からすっぽりと布を被って顔を隠しているわけである。

 

「頑張っているみたいだな、空」

「……義忠も頑張ってる。この前は空も助けられた」

「ああ、握手会の騒動か。お前も今や人気者なんだ、これからはもっと警備を厳重にしないとダメだぞ」

「……ん。でも……」

「なんだ? 何かあったのか?」

「……ちょっとこれからのことで悩んでる」

「どういうことだ?」

「……空、やめるかもしれない」

「どうして? 他の子たちと上手くやってないのか?」

「……ううん。みんな、とても良くしてくれてる。でも、空、他にやりたいことがある」


 かつては感情が乏しかった表情も、歌姫になってからは随分と少女らしいあどけなさを見せるようになった空。

 しかしその顔も今はどこか緊張気味に強張り、小さな手を何か必ず叶えたい願いがあるかのようにぎゅっと握りしめている。

 

「そうか。その気持ち、通じるように俺も祈っている」

 

 その様子に何かを悟ったのか、義忠はそれ以上何も訊かず、しばらく無言で走るふたり。

 やがて見えてきた永定門に、半年前と何ら変わったところのない、懐かしい人物の姿を捉えた。

 



「おー、義忠と空じゃねぇか。なんだか久しぶりだなぁ」


 駆け寄ってきたふたりを見て、芭蕉は人懐っこい笑顔を浮かべた。


 官吏になった義忠は勿論のこと、歌姫として活躍する空もお忍びとは言え、科挙の受験生時代とは比べ物にならないほど立派な服装を身に纏っている。

 が、芭蕉はと言えばあの頃と何も変わらない普段着のまま。ともすればちょっとその辺りにでも散歩へ出かけるような恰好である。

 足元を飾る紺色の染め緒をした草鞋以外は、とてもこれから長い旅へ出るようには思えない出で立ちであった。

 

「水臭いぞ、芭蕉。ようやく国中を見て回る旅から戻ってきたと思ったら、俺たちに何も言わずこの国から出て行くなんて」

「いやぁ、だってふたりとも忙しそうだしさぁ」

「そんなことを気にするような奴じゃないだろ、お前。どうせ面倒くさかっただけに決まってる」


 さすがは科挙を共に潜り抜けてきた仲である。見事に見透かされて芭蕉は頭を掻いた。

 

「芭蕉、世話になったな。もしまたこの国に来ることがあったら、必ず俺を訪ねてきてくれ。何をしてやれるかは分からんが、飯だけは腹いっぱい食わせてやる。デブ芭蕉になるぐらいにな」

「ああ、楽しみにしてるデブ」


 懐かしいデブ語にふたりして声を大にして笑った。

 

「まぁ俺からはそれだけだ。それよりも空から大切な話がある」

「なんだよ空、大切な話って?」


 言われて視線を義忠の隣に佇む空へと向ける芭蕉。

 空は芭蕉に気付かれぬよう、後ろ手で義忠の尻を思い切り捻りながら、おずおずと顔を覆い隠す布の下から芭蕉を見上げた。

 

「……芭蕉、あの……空……ね」

「うん? なんだ?」

「……その……あの……」


 が、待てど暮らせど空はなかなか切り出そうとしない。

 以前ならなんでもズカズカ言っていたのに珍しいなと思いつつ、芭蕉はふとあることを思い出した。

 

「あ、そうだ、空。お前に贈り物があったわ」

「……贈り物?」

「ああ。と言っても相変わらず素寒貧だからな、あんまり気の利いたものじゃねぇんだけどよ」


 芭蕉が空の両肩へ手を置くと、布の下の顔を覗き込む。

 びくっと体を大きく震わせた空は、それでもおずおずと視線を合わせた。

 

「お前に新しい名前をあげてぇんだ」

「……名前? でも空の名前、お祖父ちゃんから貰ったものだから……」

「ああ、分かってる。だから字はそのままで、読みだけ変えるんだ」

「……どういうこと?」

「俺の国では同じ字でもいくつかの読み方があってな。クゥというのもそのうちのひとつなんだが、それはこちらの国と同じように『空っぽ』とかそういう意味に通じるんだ」


 空の祖父がどういう意図でそのような名前を付けたのかは分からない。

 暗殺者という何者にもなれない虚しい存在という意味かもしれないし、あるいはその空っぽの器に愛情を注ぎ入れるという意味だった可能性もある。

 だが、ずっと芭蕉はこの名前をどこか物寂しく感じていた。


 この子にはいつかもっと自由な名前を与えたいと思っていた。

 

「だからな、俺の国の読み方で『ソラ』って名前をお前に送りたいと思う」

「……ソラ?」

「ああ、この国では『天空』ってのと同じ意味だ」

「……それって」


 三人は揃って視線を自分たちの遥か頭上へと移す。

 どこまでも続く、春の日の穏やかな大空が広がっていた。

 

ソラ、この大空のように自由なったお前には相応しい名前だと思う。どうだ、気に入ってくれたか?」

「……うん!」

「そうか、よかった。んじゃ俺はそろそろ」

「分かった! ソラ、ずっと芭蕉についていく!」

「え?」


 空がぱっと頭から被っていた布を脱ぎ捨てた。

 突然現れた今話題の歌姫に周りが騒然となるかもしれない。が、もはやそんなことはどうでもよかった。

 ただただ、空は嬉しかった。

 嬉しすぎて芭蕉の腰辺りに抱きついて、離れなかった。

 

「ちょ、おま! 付いてくるってどういうつもりだよ? お前には歌姫っていう新しい仕事があるじゃねぇか! おい義忠、お前も笑ってないでこいつを引き離せ! こんなところをこいつの応援者ファンに見られたら、俺、殺されちまうよ!」

「安心しろ、芭蕉。俺がお前たちを応援者から守ってやる」

「そうじゃなくてだなぁ」

「というか名前を付けておきながら、今さら引き離せとか酷いことを言うもんじゃないぞ、芭蕉」

「えっ?」

「名前を付けるということは親も同然。なのにお前は空を捨て置いて旅へ出ると言うのか?」

「ええっ!?」


 しまった、そこまでは全然考えていなかった芭蕉である。

 大いに慌てて、額に冷や汗をかきながら、どうしたものかと腰にしがみつく空を見やる。

 

「…………ははっ」


 が、今まで見たことがないほど嬉しそうな表情を浮かべる少女の顔を見ていると、なんだかもうどうでもよくなってきた。

 

「仕方ねぇなぁ。行く当てもない、どっかそこらの枯野でおっ死ぬかもしれない旅だけどよ、一緒に行くか、ソラ?」

「うんッ!」


 あまりにも無邪気な答えに、芭蕉は言っている意味が分かっているのだろうかと少し不安になった。

 一方、


「でもソラよ、これだと芭蕉とは親子という関係になるがそれでいいのか、お前は?」

「とりあえず今はそれで我慢する」


 まったくもって恋する少女は強い。

 義忠は顔をいっそう綻ばせた。

 

 

 

 かくして若き天才俳人・松尾芭蕉はソラというお供を得て、都を去った。

 その旅は、冒険は、まだまだ始まったばかりなのだが、ひとまずはここで筆を置くことにしよう。

 お付き合いいただき、ありがとうございました。

 

『無双の細道~科挙デスゲームに参加するので一句詠む~』 完。

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