第三十六話:向こう側へ

 あの正岡子規をして「もし若くして死んでなければどれだけ素晴らしい歌を残していたことか。彼こそナンバー1だ」と言わせしめた三代目鎌倉殿・源実朝。

 その名歌〈大海の 磯もとどろに よする波 われて砕けて 裂けて散るかも〉が最強にして最凶と評される所以は、言わずもがな下の句にある。

 なんせ体が割れ、心が砕け、皮膚が裂け、そして――。

 

「松尾芭蕉、殺すには惜しい奴やったな」


 最後には命が散る。あたかも岸辺へ押し寄せる波のように。

 この対人最強の短歌が完成してしまった以上、芭蕉の死は絶対であった。たとえ一茶ちゃんの応援効果があったとしても、死者を回復させることなど出来やしない。


「そやけど戦いたかったワイとやれて逝けたんや。これもまた本望やろう」


 視線をやや、正確に言えば石段三つ分だけ落とす阿倍仲麻呂。

 そこに右足を心持ち持ち上げたまま絶命している芭蕉の亡骸があった。


 こちらは仲麻呂とは真逆に顔を石段三つ分上げ、その瞳には意志を貫かんという炎がいまだ燻り続けている。もしやしたら芭蕉は自分が死んだこともまだ自覚できていないのかもしれなかった。

 

「見事な最後や、松尾芭蕉。そやけどな」


 遠く離れた異国の地で巡り合った同郷の、勇敢なる散り様には心から賛美を送ろう。

 しかし、

 

「最後のは一体なんやねん? 『松島や ああ松島や 松島や』って駄作もええとこやないか!」


 俳句世界記憶ハイク・アカシックレコードを持つ俳人の辞世の句としては、あまりにお粗末すぎではなかろうか。

 どうにもそこが解せない仲麻呂である。


 事実、松尾芭蕉が作ったと言われるこの俳句、実は芭蕉の作ではない。

 元は田原坊なる人物が詠んだ『松島や さて松島や 松島や」なるオリジナルを、後年に芭蕉作と称して改作した観光用キャッチコピーなのだ。


 では実際に芭蕉が松島で詠んだ句はどのようなものか?

 実は作っていないのである。その雄大な景色に感動したあまり、詠むことができなかったのだ。

 そういうエピソードを利用し、感極まった芭蕉が季語も俳句技術も忘れて『松島や ああ松島や 松島や』と詠んだと、後世になってもっともらしい話がでっちあげられたわけなのである。

 

「久々のシャバや、最後はもっとええもん見せてもらいたかったんやけどな」


 納得はしていないが、今更どうしようもない。

 とにかく召喚された勤めが終わったのだ。天界へ戻ろうと仲麻呂は芭蕉の躯へ背を向ける。


 成り行きを見守っていた天子と目が合った。呼び出された時から天子が芭蕉のことを気に入っていることに、仲麻呂は気が付いていた。だから少し気まずい。咄嗟に視線をずらそうとする仲麻呂だったが――。

 

 先に視線がずれたのは天子の方であった。

 とは言ってもあからさまに視線をずらしたというよりも焦点ピントが後方にずれただけだが、その瞳が見る見るうちに驚愕や喜びに満ちた色に彩られていく。

 

「何が駄作……だって?」


 背後から声が聞こえた。

 たちまち仲麻呂の心の中にもまた、天子と同じく驚きと喜びの感情が湧き上がってくる。


「松尾芭蕉!」

「おい、阿倍仲麻呂……取り消せ……さっきの駄作って言葉……取り消せよッ!」


 死んだはずの松尾芭蕉。

 その芭蕉が遅くとも力強い足取りで石段を登ってくる。

 死してなお先に進もうとしているのではない。その証拠に瞳にはまた炎々と熱き魂が燃え盛っている。

 

「どうやって生き返ったんや、松尾芭蕉!?」

「決まってるだろ……俳句だよ!」

「そんなアホな!? あれに死者を蘇らせる力なんてあらへんはずや!」


 なんせ『松島』を三回言っているだけなのだ。復活どころか、本来なら何の効果も発生しないはずである。

 

「字面だけ見てるから……そう思うんだ」


 芭蕉がボロボロになった身体へ鞭打って石段をもう一歩登った。

 

「いいか……あの俳句はな……松島のあまりの美しさに圧倒されながらも、それでも何とかその感動を俳句にしたいと思って作り出されたものなんだよッ!」


 あともう一歩で石段を登りきる。

 それでも芭蕉は身体ではなく、まずは言語機能の回復に一茶ちゃんの応援効果を費やした。

 何故なら松尾芭蕉は俳人だからである。たとえ骨が折れ、内臓が破裂し、血がどれだけ流れようとも、最初に回復させるべきは俳句を詠みあげる口と喉なのだ。

 

「俺だって本物の松島を前にして俳句を詠める自信が無ぇ。それでもこれを詠んだ奴は懸命に捻り出したんだッ! その気概を、覚悟を、俺はあれを読み上げることで身に纏った!!」

「それで蘇ったっちゅうんかいな!?」

「三途の川の渡し守も言ってたぜ。六文銭じゃなくてこんな気概を持っている奴をあの世に送るわけにはいきませんってな」


 そう、芭蕉が向かうべき所はあの世ではなく、現世。

 そして阿倍仲麻呂が待つ保和殿のテラスであった!

 

「さぁ、来てやったぜ、この野郎! 今度は俺の俳句を喰らいやが……あ?」


 ついに石段の頂点へ足をかけた芭蕉。出会いがしらの一発とばかりに脳裏に浮かんだ俳句をお見舞いするつもりだったが、その目論見は仲麻呂の異変の前に空しくも霧散した。

 

「どういうことだ、てめぇ? 身体が透けてるじゃねぇか!!」

「残念やったな、松尾芭蕉。霊力切れや。なんせワイ、さっきの実朝の短歌にほとんどの霊力を使ってしもうたからな」

「なっ!? 俺と戦うんじゃなかったのかよッ!?」

「ワイはそんなこと一言も言うとらんで。ここまで登ってきたら合格やって言うたやん」

「俺はそこまで行って叩きのめすって言っただろうが!」

「そやなぁ。すっかり忘れとったわ」


 さっきまで芭蕉復活の真相に呆れかえっていた仲麻呂だったが、今はなにやらすっきりした表情を浮かべ

 

「そやからこの続きはいつかあの世でやろや」


 秋の空を仰ぎながら言った。

 

「あの世って……俺は当分そっちへ行くつもりは無ぇぞ?」

「かまへんよ。こっちは待つのに馴れ取るし。それにな芭蕉、お前はまだ縛られとるからな」


 話している間にも霊力の消費が止まらないのだろう。仲麻呂の身体が見る見るうちに薄くなっていく。

 そのくせして妙に気になる言葉を残すのだから、芭蕉としてはたまったものではない。

 

「おい、俺が縛られてるってどういうことだよ!?」


 消えつつある仲麻呂に大きな声で問いかけながら、頭の片隅で必死になって霊力を回復させる俳句がなかったかと検索を走らせる芭蕉。

 

「それやで、松尾芭蕉」

「は?」

俳句世界記憶ハイク・アカシックレコード……そいつに縛られとる限り、ワイには絶対勝たれへんよ」

「てめぇ、何を言って……」


 言うまでもなく俳句世界記憶は芭蕉の俳句パワーの源である。これがあるからこそ芭蕉は過去現在未来全ての俳句を使うことが出来るのだが、故に俳句世界記憶に縛られていると言えなくもない。


 しかし、それを言うのなら仲麻呂だって短歌世界記憶タンカ・アカシックレココードに縛られているはずである。

 共に世界記憶を使いこなし、俳句と短歌に大きな戦力差はない。ならば勝敗は揺蕩っているはずだ。なのにどうして仲麻呂は芭蕉に絶対勝てないなどと嘯くのか!?

 

「……まさかてめぇ、短歌世界記憶にはない短歌を作り出したって言うのかッ!」

「そや。ワイしか知らない、ワイだけの短歌や」

「そんな馬鹿なッ! 世界記憶に存在しないなんてあり得るかッ!」

「はっ。だからてめぇは縛られとるって言っとるんや。ワイに勝ちたいんなら辿り着いてみせろや、世界記憶の向こう側によ!」

「世界記憶の向こう側……」

「まぁせいぜいあがくとええ。んじゃな、いつになるかは知らんがあっちで待っとるさかい、ワイの期待に応えてみせろや、松尾芭蕉」


 朝から冷え込む保和殿のテラスに、一瞬、心地よい風が吹きこんだ。

 季節は晩秋、しかしその風はまるで春の、全ての命に新たな旅立ちを告げる風に似ていた。

 

「面白れぇじゃねぇか、阿倍仲麻呂」


 芭蕉が呟く。しかし、その言葉を受け取る者はすでにもういない。

 

「俺も絶対辿り着いてやるぜ、俳句世界記憶ハイク・アカシックレコードの向こう側によ!」

 

 それでも芭蕉はいないはずの阿倍仲麻呂の姿がはっきりと見えているかのように、その思いを口にした。

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