第三十四話:一茶ちゃん

「芭蕉!!」


 身に纏う衣を真っ赤に染め上げ、どぅと前のめりに倒れこむ芭蕉。

 その悲痛な姿に義忠は名を叫び、クゥは思わず石段を走り上がっていた。

 

「芭蕉、死んじゃ!!」


 駆け寄った空は芭蕉を抱きかかえるものの、その身体は全ての活力が抜けきったかのように脱力しきっている。

 

「無駄やで。在原業平の短歌をまともに浴びて生きとるわけあらへん」

「そんなわけない! 芭蕉が死ぬわけないもん!!」

「そうだ! あの生命力溢れる芭蕉が死ぬわけがない!!」


 思えばここまで芭蕉のピンチらしいピンチをふたりは見たことがなかった。

 故に芭蕉がここまで追い込められるのを想像することが出来なかった。


 確かに阿倍仲麻呂――朝衡ちょうこうと言えば死してなお英霊として祀られる英傑である。その力は到底凡人の及ぶところではない。

 しかし芭蕉とて具現化する俳句を自由自在に駆使する、およそ人間離れした天才俳人だ。どんなピンチだろうと常に笑って乗り越え、饕餮とうてつと化した天災すらも余裕でねじ伏せた。


 それがまさかかくも無残に命を散らすなんて、ふたりにはとても信じられない。信じたくなかった。

 

「朝衡様、一体何が起きたのか教えていただいてもよろしいでしょうか?」


 そんなふたりと比べると天子はまだ冷静であった。

 勿論、内心では動揺している。いくら芭蕉本人の望みとは言え、死に至らしめる可能性のある英傑を呼び出したのは失敗であったかと後悔の念がじくじくと痛む。

 だが、天子として、殿試の試験官として、なにより松尾芭蕉の友として、彼の身に何が起きたのかを知っておくべきだと思ったのだ。

 

「くたばっちまう前に芭蕉も言ってたやろ。奴の頭の中を利用したんや」

「どういうことでございましょう?」

「あいつは短歌のこともよく勉強してやがった。そやからワイが詠み終わる前に何の歌か分かったんや」

「つまり、芭蕉殿は自ら朝衡様の歌を具現化してしまった、と?」

「そや。具現化共振って言うてな、ワイらみたいに歌を具現化出来る者は、時としてその理解の深さ故に相手の歌の具現化を手助けしてしまうことがある。ワイも李白と初めてやりおうた時に痛い目にあったわ」

「なんと李白様と!」

「なんや古い詩を詠いはじめよったなと思ったら、いきなり具現化しよってな。ワイも芭蕉と同じように『詠唱速度なら短歌の方が断然上や。楽勝楽勝』と思っとったから、まともに食らってもうたわ。こいつを克服するのは苦労したでー」


 滔々と語る仲麻呂の耳に、何やらぼそぼそと呟くような声が聞こえたのはその時だった。

 彼だけではない。阿倍仲麻呂の話に耳を傾けていた天子と仙人にも声が聞こえた。

 

「芭蕉!」

「芭蕉!!」


 ましてや必至になってその名を呼び続けたふたりが聞き逃すはずがない。

 

『やせ蛙』


 普段からは考えられぬほど小さく、弱々しい声。

 

『負けるな一茶』


 どんな時も余裕をかます姿からは想像出来ないほど、残り僅かな力を引き絞って芭蕉はその一句を詠む。

 

『これにあり』


『やせ蛙 負けるな一茶 これにあり』完成!!


 それは辞世の句ではない。

 この状況にあってもなお生きようと、戦い続けようと芭蕉が自らを鼓舞する一句である。

 具体的に言えば。

 

「がんばれニャン! がんばれニャン! がんばれがんばれニャンニャンニャン!!」


 突如として現れた猫耳バニースーツのうら若き女の子が、ポンポンを懸命に振りかざして芭蕉を応援し始めた。

 そして。

 

「よし、復活!」


 芭蕉が何事もなかったかのように復活した!!!

 

「芭蕉、大丈夫なのかっ!?」

「ああ、さすがに今のはちょっとヤバかったがもう大丈夫だ!」

「……と言うか芭蕉、あの子は一体誰?」

「あれは一茶ちゃんだ!」


 芭蕉が言うには小林一茶は芭蕉の生きた時代から約100年後に活躍した俳人だそうだ。

 そのどこか可愛らしい俳句から、きっと若くてエッチなピチピチギャルに違いないと芭蕉は断言する。


「彼女の応援効果は凄いんだぞ。ほれ見ろ、もうなんともない!」

「……そう」

「ん? どうした空、なんか怒ってる?」

「……なんでもない。ただ芭蕉なんて死んじゃったらよかったのにと思っただけ」

「なんでだよ!? 死んでたまるか!」

「……芭蕉なんか死んじゃえ!」


 空が抱え上げていた芭蕉の頭を思い切り石段に叩きつけた。

 ごちん! と鈍い音がして目の奥がちかちかする芭蕉であったが、すぐに一茶ちゃんの応援で回復した。

 

「おいこら、空! いきなりなんてことをしやがるんだ!」

「……知らない!」


 むすっと頬を膨らませ、ぷいっとあらぬ方向に顔をそむける空。

 そんな空に「なんだこいつ?」と呆れ顔で恨めしい視線をむける芭蕉。

 ありとあらゆる俳句、さらには古典の短歌などの意味を読み解く芭蕉であるが、どうやら乙女心の解読は苦手なようである。

 

「おい、まだ試験中やぞ。なにいきなりイチャイチャしとるねん」


 もっとも真に呆れたのは仲麻呂の方であった。

 虫の息に追い込んだのに、突然やたらと煽情的な服装の若い女の子が現れたかと思えば、その応援で一瞬で復活。

 おまけにえらくベタなラブコメもどきまで見せられては馬鹿馬鹿しくなるのも無理もない。

 

「は? イチャイチャもなにも俺は頭を思い切り石段に叩きつけられたんだが?」

「それをイチャイチャって言うんや」

「え? ちょっと意味わかんない」

「お前なぁ、ちょっとは女心も勉強せぇや。まぁ、ええわ。それでまだやるつもりなんか?」


 訊かなくても答えなんて仲麻呂にも分かっていた。分かり切っていた。

 だから芭蕉も何も答えず、ただ口元を不敵に吊り上げて応える。


 ただし具現化共振から逃れる術を、芭蕉はまだ持ち合わせていない。次に唱えられたらまた同じように食らう羽目になるのは目に見えている。

 それでもまだやり続けるのは芭蕉の意地か、それとも一茶ちゃんの回復効果に絶大な信頼を置いているのか、はたまた――

 

「ホンマモンのアホやな、てめぇは」


 ならばそのアホが如何ほどのものなのか。

 見極めてやらんと阿倍仲麻呂は最強にして最凶の短歌禁呪を紐解き始める。

 

〈大海の 磯もとどろに よする波……〉 


 俳句と短歌、その頂上決戦もついに大詰めを迎える時がきた。

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