第二十九話:俳句世界記憶

「俺を喰らうか、ふん、面白れぇ。喰らいすぎて腹ァ壊すなよ、天災!」


 芭蕉は遥か遠くの雲を仰ぎ見て『あの雲は 稲妻を待つ たより哉』と早速一句捻る。

 それだけで先ほどまで雲ひとつなく澄み渡っていた空の彼方に、突如として雷を抱く雨雲がもくもくと立ち込めてきた。

 

『稲妻や 闇の方行く 五位の声』


 続けての詠唱で雷鳴を轟かす暗雲が一気に空を覆い、どこからともなく現れた何百、何千という五位鷺ゴイサギ(ペリカン目サギ科ゴイサギ属の鳥)が、雷鳴に負けじとばかりにグワッグワッと一斉に鳴き始める。

 

『稲妻を 手に取る闇の 紙燭しそく哉』


 それでも芭蕉の俳句は止まらない。

 三度詠唱すると暗闇に伸ばす。

 その芭蕉の手へ、轟音と共に雷が走る!

 

「あの馬鹿っ! 雷が鳴っているのに手を上げるなんてなにをやってるんだ!」

「いや、あの芭蕉殿が考えもなしにそのようなことをするわけが……み、見ろ、義忠! 芭蕉殿が落ちてきた稲妻を掴んでいる!!」


 天子が驚くのも無理はない。

 あろうことか芭蕉が雷神トールが如く己の手で雷を掴み、そして槍投げの要領で雷を天災めがけて投擲した!

 

「はっはっは! どうよ、まさに『稲妻に 悟らぬ人の 貴さよ』って奴だ!」


 さらに俳句を詠みながら芭蕉は次々と手にした雷を投げまくる。

 まさに俳句を具現化する芭蕉ならではの常軌を逸した攻撃であった。

 

「さすがは松尾芭蕉、素晴らしい!!」


 が、次々と自分めがけて飛来する雷を前にして、天災は逃げない。

 それどころか一歩も動くことなく両腕を左右に大きく広げて突っ立っていた。

 例の不可視の壁がその悉くを完璧にシャットアウトしているからである。

 一発でも当たれば感電死は必然であろうが、天災本人はおろか、その衣すらも依然として純白のままだった。

 

「な、なんという……」


 その光景にさしもの仙人と言えども絶句せざるを得ない。

 

「ああ、なんということだ。芭蕉殿の力をもってしても天災には及ばぬと言うのか」


 天子も信じられぬと嘆いた。

 もちろん勝負は始まったばかり、まだ芭蕉が負けたわけではない。

 しかし、芭蕉であれば天災すらも軽く凌駕するのではあるまいかとの期待が天子にはあった。

 それが苦戦を予想させる開戦を前にして、不安が空を覆う暗雲のように立ち込めてくる。

 

「いい! やっぱりあなたは最高だ、松尾芭蕉! もっとだ、もっとください! あなたの持ちうる知識を全て私に……私に差し出すのです!!」


 稲妻が滝のように降り注ぐ中、天災が感極まって叫ぶ。

 まさにその姿は知識を貪欲に食らう饕餮そのもの。松尾芭蕉という最上級料理を前にして、食欲が天井知らずに高まっていく。

 

「は、アホか? これ以上、てめぇに送る俳句なんざねぇよ」


 が、まさかの供給停止オーダーストップ

 芭蕉は恍惚感に浸る天災とは真逆に冷めきった表情を浮かべると、俳句による具現化までも止めてしまった。


 たちまち世界が元の雲ひとつない青空へと戻る。

 五位鷺たちもどこかへ飛んで行った。

 

「何故!? 何故やめるのです、松尾芭蕉!?」

「だから言ったろ。これ以上は必要ねぇんだって」

「どういう事ですかっ!? まさか負けを認めるというのですか!?」


 そんなことを天災はこれっぽっちも考えていなかった。

 予め提示されなかったが、この勝負はどちらかが力尽きて倒れるまで行うものだとばかり思っていたのだ。

 なのに芭蕉がまさかの試合放棄。そんなもの、天災にとっては嬉しくもなんともない、ただの消化不良に過ぎない!


「そんなこと、私は許しませんよ! 私たちはどちらかが倒れるまでやりあう宿命のもとに生まれてきたはずです」

「こっちはそんな宿命で生まれたつもりはねぇけどよ。安心しな、天災。勿論、お前を倒すまでやり続けるつもりよ」

「ならば何故!?」

「そうさな、んじゃ俺が今見せてやった俳句をひとつでも詠んでみろよ」

「そんなことに何の意味があるというのです!?」

「やれば分かるさ。ちゃんと諳んじることが出来たら、俺も続けて俳句を詠んでやらぁ」

「……本当ですね?」


 くだらない挑発だと憤る天災であったが、応えれば芭蕉が続けるとあっては受けるにやぶさかではなかった。

 ここはあっさりと詠んでみせよう。

 いや、それだけでは面白くない。いっそのこと、芭蕉同様に具現化してみせたらどうか。

 

 芭蕉の幻想具現化能力の原理はいまだよく分からないが、天災とて目に見えぬ知識を力に変えたり、不可視の壁にする贈物スキルがある。

 ならば俳句という知識を、言葉通りの現象に置き換えることもきっと出来るはずだ。

 

 天災は口元に薄っすら笑みを浮かべると、先ほど芭蕉が詠んだうちの一句を声に出そうとした。

 

「…………どういうことです?」


 当初、天災は何かの間違いだと思った。

 知識を喰らい、知識を溜め込み続けて幾星霜、その膨大な量に対してしかし忘れ去られたものはひとつとて無い。

 

「一体何が起きているというのですか!?」


 なのに何故か先ほど芭蕉が詠んだ俳句を、どれひとつとして完璧に思い出すことが出来ない。

 雲、稲妻、五位、紙燭、貴さ……言葉は思い出すことが出来るのに、どういうことかそれを連ねることができないッ!

 

「私に何をしたのですか、松尾芭蕉!?」

「俺は何もしてねぇよ。ただ、それがてめぇの限界ってことさ」

「私の限界? そのようなことは決してありえません。私はこの世で知り得た全てを記憶することが出来るッ!」

「ああ、それがてめぇの限界だよ、天災」


 そして芭蕉は唐突に『荒海や 佐渡に横たふ 天の河』と詠んだ。

 たちまち辺りは夜の日本海へと移り変わり、荒波に小さく浮かぶ佐渡が島に向けて、夜空にきらめく天の河が横たわる光景が映し出された。

 

「さすがは芭蕉殿、なんと美しい……」


 その絶景に感嘆の言葉を零す天子の横で、仙人が「天子よ、ワシがさっき絶句したのは天災の力に対してではありませんぞ」と語り掛けた。

 

「どういうことだ?」

「ワシが絶句したのは芭蕉の底知れぬ力に対してですじゃ。この戦いが始まる前、ワシは天災の力を大海原と称しましたな」

「確かにそう申しておられたな」

「しかし芭蕉の力はまさにこの天の河、大宇宙そのもの。次元がまるで違うのですじゃ」


 これはまさにそのことを知らしめるが故の一句であった。

 しかし、天子たちの会話が聞こえぬどころか、芭蕉の意図をも理解出来ぬ天災は、今まさに聞き及んだ俳句に対してもまた自分の記憶に収まらないことに半狂乱となっていた。

 

「どうしてです!? どうして芭蕉の俳句を私は取り込むことができないッ!? 私の限界とはどういうことですか、松尾芭蕉!」

「簡単なこった。俺の能力はありとあらゆる俳句を諳んじて具現化することが出来る。俺の中に俳句に纏わる世界記憶ハイク・アカシックレコードがあるんでな」

「それと私があなたの俳句を記憶できないのとどういう関係があるのですか!?」

「鈍い奴だなぁ。ありとあらゆる俳句だって言ったろ。ってことは過去と現在には存在しない、未来の俳句も俺は使えるってことだ。対してお前は膨大な知識を持ってはいるが、それは過去と現在のものだけ。未来に関する知識なんてお前にはない。故に未来のものを記憶することも出来ない。そりゃそうだ、普通はそうなんだよ。は、な」

「こ、この私が普通ですって……」

「ああ、その通り。普通のてめぇにはそれが限界なんだよ!」


 饕餮として転生してからはもとより、以前の人間だった頃からも天災は自分が普通だと考えたことは一度もなかった。

 幼き頃から神童として周りから持て囃された童子(子供版科挙の合格者)出身で、転生前はまだ知力一辺倒だった科挙でトップ合格も果たした。

 世渡りが上手くなかったので官吏としては成功しなかったが、それだけ研究に打ち込んだ。死してもなお知識を追い求め気が付けば饕餮として転生し、それまで以上に貪欲にありとあらゆる知識を貪って異能の力も身に付けた。

 

 なのに。それなのに!

 

「この私が普通の……凡人だと言うのですか、松尾芭蕉!! もう許しません! 死になさい!」


 やろうと思えば天災はいつでも芭蕉を殺せた。

 未来の記憶は閉じていても、俳句を詠まないと力を引き出せない芭蕉と違って、天災はただ念じるだけで知識を力に変えることが出来る。

 スピードでは圧倒的に上。だからいつでも芭蕉を殺せる、と。芭蕉から情報を貪れるだけ貪っておいてそれから殺そうと、そう思っていた。

 

「やれるもんならやってみやがれ! さっきまでのてめぇならともかく、今のてめぇに俺は殺せねぇよ!!」


 そしてそれは芭蕉も同じ考えであった。

 力の大きさはともかく、普通に戦えば苦戦は必至。もし天災が速攻で戦いを決めに来ていたら、芭蕉たちに勝機はなかったかもしれない。


「なんですって!?」

「まだ気がついてねぇのかい? てめぇ、俺の俳句を喰らって大変なことになってるぜ?」


 だが、天災の正体は知識を貪欲に追い求めるバケモノ・饕餮。

 俳句という限られた知識とはいえ、その保有量は無限大とも言える芭蕉を相手にして、食い散らかすような真似をするであろうか?


 否、時間をかけて最上級の料理を存分に味わおうとするはずだ。 

 その強欲さによる驕りにこそ、まさに芭蕉たちが付け入る隙であり

 

「大変なことですって? あなたの俳句の攻撃など私の壁が全て塞ぎ切ってやったではありませんか! つまらない命乞いなどyd8%@)Q!?!?」

「わはは、さすがは俺様の俳句! 言語まで崩壊させたか!」


 芭蕉が矢継ぎ早に次々と俳句を詠んだのも、まさにその為であった!

 

「さっきの俳句は別に稲妻でお前を攻撃してたわけじゃないぜ? そもそも稲妻ってのは稲のつまって意味じゃねぇか。稲穂を妊娠させるのが仕事なのに、どうして男のてめぇなんかに当たるってんだ?」

「G&Kタw”?」

「あの一連の俳句はな、てめぇでは消化できねぇ未来の情報をしこたま与えるのが目的よ。それをお前さん、喜んでがつがつ食いやがって。おかげで見ろ、完全に消化不良を起こして情報中枢が下痢を起こしてやがるぜ!」

「B>3J+DZ!!!!!!!」

「はははっ! そんな状態でまともに力なんて振るえるもんかよ!」


 天災は芭蕉を超圧力で圧し潰そうとするが、指摘された通り、その力が上手く働いてくれない。

 いや、それどころか普段は意識しなくても張り巡らされている透明の障壁すらもが今は霧散していることに、天災は気が付いた。

 幸いにも芭蕉が気付いた様子は見られない。今は芭蕉を殺すよりも障壁の回復が先だと思ったその時。

 

「……った」


 今や保和殿の庭を埋めつくす日本海の荒波のしぶきの中から突然、クゥが飛び出してきた!

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