第二十六話:魂の天秤

「笑え、義忠!」


 芭蕉たちがそう叫ぶ中、当の本人である義忠は深い瞑想の中にいた。

 集中しすぎたのだ。周囲の声はもう天子の掛け声ぐらいしか聞こえない。掛け声に合わせて手を出してはいるものの、勝ったのか、負けたのかそれすらも分からなかった。


 だが、分からなくていい。

 今の義忠にとって最も大切なのは、瞑想の果てに浮かんできた父の語り掛けてくる言葉に耳を傾けることであった。

 

「義忠よ、最初は拳を緩く握るのだ」


 懐かしい父の声。瞑想の中で義忠は幼き頃に戻っていた。


「身体全体を脱力させて、打つ瞬間にだけ力を入れる」


 言われるがまま義忠は拳を打つ。ピシリと拳の風切り音が響き渡った。

 

「うむ。いいぞ。だが、打つ前はもっと力を抜くのだ」


 やってみる。が、なかなか上手く行かない。

 

「はっはっは。やはりお前は私の子だな、義忠」


 なのに父は嬉しそうに笑った。

 

「真面目なのはいいことだ。でもな義忠、真面目すぎて厳格になりすぎるのもいかんぞ。人間、ほどほどが一番良いのだ。さぁ、肩の力を抜いて。顰め面もよしなさい。そうだ義忠よ、この言葉をお前に送ろう」


 そして父は義忠は耳元で「笑門来福」と囁いた。


 そうだ、すっかり忘れていた。

 父はこの言葉が好きだった。真面目で、厳しい人であったが、常に「笑門来福」の志のもと、穏やかな笑みを欠かさない人だった。


 それをどうして忘れてしまっていたのだろう?


 義忠は自分の人生を振り返る。

 そうだ、父があらぬ疑いで裁かれ、非業の死を遂げたその時から人生は大きく変わった。父の汚名を晴らすのが生きる目的となった。

 その為にはどうしても科挙に合格する必要がある。

 義忠は必死に学び、必死に鍛えた。

 父の教えである「笑門来福」を忘れてしまうほどに。

 

「そうだ、笑門来福だ、義忠」


 父の声が聞こえる。

 

「笑え! 笑うんだ、義忠!」


 そこに芭蕉たちの声が重なり、義忠は思わず口元に微笑を浮かべるのであった。

 

 

 

 一方、相変わらず顔に張り付いたような笑みを浮かべる顔笑は、怒涛の四連勝に自分の勝利を確信していた。


『笑顔必勝』

 顔笑は自分の能力をそう称している。

 幼い頃に気付き、以降百戦百勝を続けてきたこの必勝法は、相手よりも笑顔である限り、決して負けはしない。

 

 それでも顔笑は石橋を叩いて渡る用心深さで、一本目のように思わぬ邪魔が入って笑顔を忘れる危険性から一発勝負を避け、そしてまた

 

「次こそは雀拳チョキで勝負しますよ。約束しまーす」


 などといかにも心理戦に持ち込んでいるかのような演技までして、自分の能力を隠しているのであった。


(あははは、こんなので高級官吏になれると思ったら笑いが止まらないよぅ。さぁて早く終わりにしちゃおうっと)


 天子の合図とともに二人同時に手を出す。

 顔笑の手は、果たして雀拳であった。一応約束を守った形ではあるが、顔笑にとってはどうでもよかった。

 何故なら顔笑は何も考えずに手を出している。考える必要などないからだ。笑ってさえいれば、自動的に相手に勝つ手を出す。そういう能力なのである。

 

 しかし、雀拳で勝ったということは、これまでずっと石拳グーを出し続けていた義忠は最後の最後で両拳パーを出したということになる。

 信念を曲げてまで勝とうとして負けるとは、これほど滑稽なものはない。顔笑はますます笑いが堪え切れなくなってきた。

 

「6本目。顔笑、雀拳。義忠、石拳。よってこの勝負、義忠の勝利!」


 が、吹き出しそうになっていた顔笑の表情が一瞬にして「えっ!?」と呆けたものへと変貌する。

 信じられないと改めて視線を手元へ降ろすと、確かにそこには義忠の硬く握られた拳があった。


 どういうこと? と顔笑は顔を上げる。

 

 そこには先ほどまでの険しさがすっかり消え去り、穏やかな表情でうっすらと口元に微笑みを浮かべる義忠がいた。

 

(ええっ!? 一体どういうこと!? あんな笑顔にボクが負けるなんてありえないよー!)


 困惑する顔笑をよそに天子からすかさず「7本目! はい、ジャンケーンポン!」と合図がかかる。

 思わず顔笑が出した手は今度も雀拳。対して義忠の手は……。

 

「7本目。顔笑、雀拳。義忠、石拳。よってこの勝負も義忠の勝利である!」


 おおーっと芭蕉たちから歓声が上がり、顔笑はますます混乱に陥りそうになった。

 

(おおおおお落ち着け! 落ち着くんだ、ボク。今のは予想外な展開に動揺して笑顔が出来てなかっただけ。笑顔を意識して戦えばあんな奴、イチコロなんだから!)


 顔笑がニカッと満面の笑みを浮かべた。会心の笑顔である。負けるはずがない。

 

「8本目。顔笑、雀拳。義忠、石拳。義忠の勝利!」


 が、またまたまたしても義忠に後れを取り、ついに勝負は4対4のイーブンで最終戦へもつれ込んでしまった。


 顔笑としては信じられない、信じたくない、とても許容できない出来事が起きてしまっている。

 もはや笑顔も忘れて、必死にこの状況になった原因を探り始めた。

 やがて辿り着いた答えは。

 

「松尾芭蕉! またなんかやってるんでしょ!」


 理論的に言って『笑顔必勝』は、より笑っている方が勝つ。

 なのであんな義忠の薄ら笑いに自分が負けるはずがない。

 それでも負けてしまったということは、何か自分の能力を上回る特殊な力が働いているとしか考えられなかった。

 そしてそんな力を持っている者は天災――だが天災は一応味方であるし、裏切って義忠の肩を持つ理由がない――と、芭蕉以外にいない。

 

「これはボクと義忠殿のふたりきりの勝負タイマンだったはず! なのに陰で義忠へ手を貸すなんて明らかに反則だよっ! 天子様、この勝負、義忠殿の反則負けですよねっ!」

「ふむ。芭蕉よ、顔笑はそう申しておるが実際はどうなのじゃ?」

「俺は何もしてないぜ」

「ウソだねっ! だったら何故!」

「分かんねぇのか? お前のクソ汚ェ笑い顔より、義忠が浮かべる心からの笑顔の方が勝っているのさ!」

「な、なにを言って!?」

「顔笑よ、義忠の笑顔を見て何かを思い出さねぇか?」

「え?」

「よく見てみろよ。何かが見えて来るぜ」


 言われて顔笑はまじまじと義忠の顔を覗き込んだと思うと、突如、ハッとした表情になって思わずその場に尻餅をついた。

 

「こ、これは弥勒菩薩……まさかこの笑顔は!?」

「そうさ、これぞ半跏思惟の弥勒菩薩が浮かべている至上の微笑だ!」


 そう、まさしく義忠が浮かべるそれは一般的にアルカイックスマイルと呼ばれるものであった。

 瞑想の果てに思い出した父の教え・笑門来福。その教えがまさに義忠を仏の域にまで押し上げたのである!

 

「腹に一物抱えたてめぇと、無の境地・感謝の極みへと達した義忠の微笑。どっちが格上なんざ、いくらてめぇでも言わなくても分かんだろ!」

「そ、そんな……」

「さぁさぁ、どうするよ? そのままてめぇの力を発動しながら勝負をするかい? まぁ、その場合はやる前から勝敗は決まってるけどな」

「く……くそぉぉぉぉぉぉ!」


 腸が煮えくり返るような、かつてない屈辱に顔笑は吠えて、能力を解除した。

 もはや偽りの笑顔なんて必要ない。眼を剥き、歯をむき出しにした鬼の顔貌で、義忠を睨みつける。


「義忠ゥゥ! おまえなんかにこのボクが負けてたまるかァァァァァァ!!」


 威嚇する顔笑。しかし、義忠はまるで動じない。

 笑顔必勝が解除された今も変わらずアルカイックスマイルを浮かべている。

 

「ばーか! もう笑顔を続けても意味なんかないんだよゥゥゥゥゥゥゥ!!!」


 嘲笑する顔笑だったが、その内心では思考が錯乱していた。

 義忠の表情から次の手に繋がるヒントがまるで得られないからだ。


(ここまで義忠は石拳ばかり続けている……てことはやっぱり最後も石拳? でも待って、それこそが奴の思う壺。これまで石拳で勝てていたのは笑顔必勝のおかげだもん。ならば最後は手を変えて来る? 石拳か、両拳か、はたまた雀拳か……うわああああ、分かんないッッッッッ!!)

 

 疑心暗鬼の思考の迷路、これが賭博本来の姿である。

 笑っていればそれだけで勝てるなんてのは、賭け事などとは呼ばない。

 であるから顔笑はまさに今、生まれて初めて自分の魂を天秤に乗せる醍醐味を味わっていた。

 

「最終勝負、始めッ!」


 まだ手を決めかねているのに、無情にも天子から声がかかる。

 手を振り上げる両者。しかし顔笑は事ここに至ってもいまだに迷っていた。


 ただ、頼みがないわけではない。義忠に対して顔笑が圧倒的に勝っているもの、それは賭博の経験だ。

『笑顔必勝』で簡単に勝ちを拾ってきた経験ではあるが、対戦相手の思考パターンのデータを大量に有している。それらから照らし合わせて、ここはまずを導きだせばよい。


 かくして手を振り下ろすわずかな時間に脳をフル回転させ、顔笑が導き出したのは――。

 

「顔笑、雀拳」


 三連敗中の雀拳であるが、顔笑はこれで間違いないと確信していた。

 何故なら顔笑のデータによれば、最後の最後まで同じ手を繰り返す者なんていなかったからだ。

 故に義忠に許された手替わりは両拳か雀拳。ならば雀拳を出していれば負けることはない。


 だが、義忠の手は両拳でも雀拳でもなかった。 

 

「義忠、石拳! よってこの勝負、曽義忠の勝ちとする!!」


 天子の宣言が保和殿のテラスに響き渡る。

 魂の天秤は義忠の方に傾いたのであった。

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