第十五話:俳句に不可能はない

 さて芭蕉が俳句で滝を作り出し、その結果が気になるところだが、その前にひとつ会試について述べようと思う。


 会試は五回の試験があると以前に話した。そのうちの四つは毎回試験が異なっている。

 これは単純に試験への対策を取られないためだ。

 予め試験内容が分かっていると、人は当然ながらそれに応じた対策を取る。

 その結果、ただただ準備に長けた凡人が合格する羽目に落ちかねない。それでは優れた人材を登用するという、科挙の目的にそぐわないのだ。

 

 であるから四つの試験は毎回異なる。が、第二試練の生試験だけは百年ほど前から同じ内容となっていた。

 理由はふたつある。

 ひとつは多くの受験生を振り落とすのに適しているからだ。

 

 実のところ、試験官の思惑は天災たちのそれとまるで同じであった。

 序盤は人間が飲める泉を巡ってのいざこざがあり、それが見つかってからの中盤以降は泉を奪い合っての激しい戦闘が繰り広げられる。


 その中で序盤に受験生の約半分が獣と化し、中盤以降でその数はさらに半分以下に絞られる。第一関門の合格者が毎回50名前後であるから、ここで10名前後に振り落とすことが出来るわけだ。

 

 これは毎回の最終合格者が2、3名であることを考えれば、第二関門の時点でこれぐらいに絞り込むのは極めて妥当と言えよう。

 

 そしてもうひとつが秘匿性である。

 なんせ落伍者は獣になるか、戦闘や脱水症などで死ぬかのふたつ。彼らから試験内容が外に漏れる心配はない。


 唯一の難点は生試験に合格しつつも以降で落第、しかし運よく生き残った者の処理であるが、これも官吏として召し抱えることで無理矢理解決させた。

 科挙合格者として上級官吏は無理でも、下級官吏となれば数人程度なら問題ない。

 

 かくして生試験は長く不変の第二関門として鎮座していたわけなのだが……。

 



「そ、そ、それではここにいる三十一名を生試験の合格者とする」


 生試験の試験官が、どうにも動揺を隠しきれないまま、渋々と宣言した。

 彼は科挙による官吏登用制度が確立されてからは稀有な、先祖代々に渡って役職を継承している人物である。


 理由は至極簡単。彼はこの峡谷の管理人なのだ。

 元はと言えば自分の土地だった渓谷をご先祖が天子に献上し、その見返りとして管理人と生試験の試験官という地位を得た。

 おかげで一族は本日まで栄えてきたのである。

 

 しかし、どうにも今回はマズいことになった。

 確かに今回は武試験の合格者が多かった。だから生試験の合格者も従来より多少は多くなるだろうと予想はしていた。

 だが、それもせいぜい15名ほど。なのにまさかその倍も合格するとは思ってもいなかったのだ。

 

 どうしよう。試験官の頭の中は今後のことでいっぱいである。

 いつもなら今後の落第者は下級官吏として採用し、生試験の内容が外に漏れ出るのを防ぐ。


 しかし、今回は約三十名だ。

 まぁ、残りの三つの試練で悉く死亡させてしまえば辻褄が合うものの、それは以降の試験官に負担を強いることに他ならない。


 科挙出身者でない彼を何かにつけて目の敵にする官吏は存外に多い。

 きっと今回の失態をここぞとばかりに糾弾してくるだろうなと思うと胃がきゅうと痛くなるうえに、天子の耳にも入って減俸もあり得ると思うともう気が気でなかった。

 

 それもこれも全てはあいつのせいだ――

 試験官は合格者の片隅に佇む異国の若者、芭蕉を恨めしそうに睨みつける。

 まさか滝を作って飲み水争奪戦を台無しにするなんて、一体誰が予想できたであろう。

 出来ることなら「あんなのは反則だ!」と声高々に訴えたいところである。


 そして彼以外にもうひとり、ここにもまだ芭蕉に一言物申したい男――義忠がいた。

 

「確かに無駄な争いをせずにすんだのはよかったと思う……」

 

 義忠が複雑な表情を浮かべては、美顔胡の背に乗る芭蕉を見上げた。

 何かにつけて破天荒な言動が目立つ芭蕉だが、今回もまた象になった美顔胡へ乗っての登場に試験官やその下働きたちを驚かせたものである。

 おまけに今はクゥに淹れさせた熱々の茶を悠々と飲んでいたりもする。本当に好き勝手やりたい放題だ。

 

「だがな、やはり俺は納得してないぞ、芭蕉」


 しかしそれも芭蕉の実力と功績を考えたら許される範囲ではあろう。

 それだけに義忠はどうにも感情が整理出来ずにいた。

 

「納得してないって何がだよ、義忠?」

「芭蕉よ、お前ほどの男ならもっと上手くやれたのではないか?」

「何言ってやがる、蟲毒みたいな試験バトルロイヤルをこれだけ穏便に終わらせたんだぞ? これ以上何を望むんだよ?」

「最初の三日間でかなりの数の脱落者が出た。だが、試験開始直後に滝を出していたら彼らを救うことだって出来たはずだ」

「それはねぇよ、義忠。そんなことしたら間違いなく天災が俺たちを襲っていた。あいつらが俺のもとへ下るとは思えねぇからな。となればこちらにも被害が出る」


 芭蕉がちらりと空へ視線を送る。

 もし天災が芭蕉を襲ってくるとなれば、奴の命を狙う空も黙って見ているわけがない。


 そして空は殺される。

 今の彼女ではまだ返り討ちにあうのを芭蕉は見抜いていた。


「それになんとか撃退できればいいが、もし滝を奪われたらどうなる? 言っとくがいくら俺でもあんな大規模の俳句を次から次へとぽんぽん捻り出すなんて出来ないからな。奪われたらもっと酷い争奪戦が繰り広げられたはずだぞ」


 つまるところ芭蕉の言い分としては滝を作り出すにしてもタイミングが重要で、間違えれば無駄な争いが起き、下手したら最悪な状況に陥りかねなかったと言うわけである。


 それは義忠も分かる。分かっている。

 しかしだ、やはり正義感の厚いこの男はどうにもやりきれない思いがあった。

 

「だがしかし、それでも犠牲者は出た。芭蕉、お前は否定しなかったな? 天災の外道で受験生がひとりでも多く減ればいいと思っていることを」

「それは獣に変わって科挙から脱落するって意味か? だったらそうだ」

「そしてお前はこうも言った。『ひとりでも犠牲者が出る時点でその策はダメなんだ』と。明らかに矛盾しているではないか。確かに俺たちに犠牲者は出なかった。しかし、その裏で多くの犠牲者が出ている! 結局、お前が言う犠牲者とは俺や空と言った限られた人間でしかない。それはかつての堕落した貴族たちと同じ考えだ。自分たちさえ無事であればいいという実に自分勝手な――」

「おいおいおい、ちょっと落ち着けって義忠」


 どんどんひとりで興奮の度合いを強めていく義忠に、芭蕉がしょうがねぇなと美顔胡から降りてきた。

 

「そんなに熱くなるなよ。別に誰かが死んだわけでもあるまいし」

「死んではいないが、しかし獣となってしまってはもはや」

「死んだも同じってか? そんなこと言ったら美顔胡が怒るぞ? なぁ、美顔胡?」


 芭蕉がその鼻を撫でると美顔胡はぱおーんとひと鳴きした。

 それが「まぁまぁふたりとも落ち着けよ」という意味なのは義忠は勿論、この一週間を共に過ごした芭蕉にも分かる。

 なのに芭蕉は「ほら見ろ、美顔胡もカンカンに怒ってるぞ」とわざと誤った解釈をしてみせた。

 

「そもそもお前は多くの受験者が犠牲になったって言うけどよ、俺は全然少ないと思っているぜ? 出来ることならばもっと天災たちには頑張ってほしかった」

「なんだとっ!?」

「だってよ天災は人を殺すのを何とも思わない奴なんだぜ? なのに獣にされただけで終わるんだ。ラッキーじゃねぇか。確かに不合格になるのは残念だけどよ、科挙は何も今回だけじゃねぇ。次で頑張ればいいだけだろ?」

「獣に次もなにもあるわけが」

「だからそう熱くなるなって! 熱いのはそう、このお茶だけで十分」


 そう言うと芭蕉はおもむろに一句詠い出した。


『駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ』


 浪曲で有名な『旅ゆけば 駿河の国に 茶のかおり』の下地となった句である。意味は駿河の国では香りの強いタチバナの花さえも茶の匂いには敵わない、といったところか。


 しかし、ここは駿河どころか日本ひのもとですらない、遠き唐土もろこしの地。さらには突然、茶の香りがタチバナよりも強いとか言われても、義忠としては何が何やらである。


 おまけにそんな義忠の様子なんか知らんぷりして、さらに芭蕉は手にしていた茶碗を高く掲げると、あろうことか美顔胡の頭に中身をぶっかけた!

 

「ぱ、ぱおーん! いきなり何しますねん!? 熱いやないか!」

「すまんすまん」

「すまんで済む話とちゃいまっせ! 火傷したらどうするつもりなんですん!?」

「火傷しなかったからいいじゃんよ。それより美顔胡、お前ってそんな顔だったんだな」

「今更何を言うてますん? ワテの顔なんて今まで嫌と言うほど見て……ん? んんっ!?」


 鼻で顔を拭おうとした美顔胡は、ようやくそこで我が身に起きた異変に気が付いた。

 鼻がない。

 いや、実際にはあるんだろうが、あの長くて器用な鼻が煙のように消失している!!

 

「鼻がない……そやのに顔を拭えとる。こ、これは、まさかワテの手!? てかワテ、人間に戻っとるやないかーっ!!!」


 うっひゃーと驚き、ぱおーんと喜びの声を上げる美顔胡。

 さすがに三年間も象をやっていたとあっては、なかなか癖が戻るものではない。

 

「こ、これは一体どういうことだ、芭蕉!?」


 喜びのあまり踊り始める美顔胡を横目にしながら、義忠は驚きのあまり、たまらず芭蕉へ問い尋ねた。

 

「簡単なことよ。茶の力はタチバナよりも強いって事さ」

「いや意味が分からん!」

「仕方ねぇなぁ。だったらタチバナを呪いに変えたらどうだい?」

「呪いだと?」

「ああ、池の水を飲んだら獣になる、これが呪いでなくて何が呪いだって言うんだ? だったらよ、その呪いを解いたらいいだけの話じゃねぇか。呪いを上回る聖なる力って奴でよ」

「そんなことが可能なのか!?」

「俺の俳句に不可能の三文字はねぇんだよ」


 まさに恐るべしは俳句、そしてそれを駆使する松尾芭蕉である。

 

「てなわけで天災たちによって獣にされた連中も茶をぶっかければたちまち元に戻る。ほらな、これで犠牲者なんて誰もいなくなっただろ?」

「おおっ! 芭蕉、なんて奴なんだお前は!!」

「ちなみに水をかければまた獣になる」


 おもむろに芭蕉は腰に巻き付けた竹筒の栓を抜くと、中身の水を小躍りしている美顔胡にぶっかけた。

 たちまち再び象に変身してしまった美顔胡は「ぱおん?」と疑問符を頭に掲げてひと鳴きする。

 

「美顔胡、悪いがもう一仕事してくれよ。茶をかけたら人間に戻れるって獣になったみんなに知らせてほしいんだ」

「ぱおーーーーん!」


 心得たという合図なのだろう。大きな鳴き声をあげると美顔胡は森の中へ猛然と入っていく。

 

 その姿を満足げに見送る芭蕉。今回も彼の見事な俳句と底知れぬ叡智によって、このデスゲームをひとりの犠牲者も出さずに乗り切って……あ、いや、犠牲者ならひとりだけいた。


 先祖代々この峡谷を受け継ぎ、官吏の職を得てきた試験官である。


 彼がその役職に就けるのは、ひとえに生試験会場であるこの峡谷の秘密が守られてのことだ。

 しかしそれが今、芭蕉の手によって脆くも崩壊した。

 獣となった受験生たちが過去の分もまとめて人間に戻るとなると、とてもじゃないが彼らの口に封など出来るものではない。世に知れ渡ったこの峡谷はもはや生試験に使えるわけもなく、職を解かれるのも時間の問題であろう。


(お、終わった……かくなる上はこの峡谷を一大観光地に仕立て上げるしかない!)


 我が身に訪れる悲劇を嘆き、よよよと倒れこんだ試験官であったが、官吏という者は得てして損得勘定に優れているものである。

 早くも官吏を首になった時の身の振り方の算段をつけはじめた。

 

 かくしてこの男はかの地を頑張って開拓し、『伝説の修行場』という触れ込みで観光地化に成功。

 呪いの池も飲まずに溺れるだけで変身し、その解除方法も茶ではなくお湯だけでオッケーというお手軽さに改善した。


 そしてこれよりずっと後に日本からふたりの親子が修行にやって来て、娘になる泉とかパンダになる泉とかに落ちたエピソードがあるとかないとか。

 

 まぁ、それはまたマジで別の話である。

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