第十四話:滝の裏
「どうですか天災様、ご満足いただけましたかぁ?」
椀に掬い取った池の水を大仰に差し出しながら、少年のような背格好の男が深々と首を垂れて傅いた。
顔笑である。とっくに成人しているのだが、背は幼き頃に止まってしまった。加えて顔も童顔で、声もまるで少年みたいとあっては、もはや話し方もそのようにした方が自然であると考えたのか、恭しい言葉使いながらも端々に子供のような幼さが見える。
もっともそのような顔笑に対して、天災はまるで意にも介すことなく椀を受け取ると、逆に問いかけた。
「仲間、それに捉えた者も全て失い、さらには三日もかけたというのに私が満足したと貴方は思っているのですか、顔笑?」
「もちろんでございますよ!」
「ほう?」
「だって天災様にとって信頼のおける配下は僕ひとりで十分でしょう? 他の奴らなんていつ裏切るか分からないじゃないですか。だったらここで使い捨てちゃって、今後の憂いを断つのが最適ですよー。違いますか、天災様?」
「顔笑、つまりあなたは私を絶対に裏切らないと?」
「当然ですよ!」
頭を上げる顔笑の顔は、無邪気な笑顔を浮かべていた。
ただしそれは決して天災への忠誠心を示すものではない。この男はその名の如く、常に笑顔を絶やさないのだ。
何故なら顔笑は知っている。笑顔は最強であると。己の心情を覆い隠し、そのうえ相手の思考すらも意のままに操れることを。信頼を得ることも、猜疑心を与えることも思いのままである、と。
そう、顔笑は笑顔で人を騙し、笑顔を浮かべながら人を地獄へ叩き落す。
「……信頼しましょう。よくぞ意を汲んでくれましたね」
しかしこれもまた天災にとってはどうでもよかった。
事実として顔笑は求められることを実行してみせたのだ。
つまりはこの生試験で出来る限り多くの受験生を排除するというミッションを、顔笑は着実に汲み取った。先ほどは三日もかかったと煽った天災であったが、実際のところはその願いが叶うなら何日かかろうが構わなかった。
「それで顔笑、次はどうするおつもりです?」
もっとも顔笑があえて三日で水場を見つけてみせた事に天災は気が付いていた。
意味もなくそうしたとは考えにくい。
おそらく顔笑はまだまだ自分の心にに寄り添うつもりなのだろうと推測して、天災はさらに問いかけた。
「はい。僕たちが他の受験生たちを捕らえて池の水を試飲させていることが知れ渡り、皆から警戒されてしまいました。でも僕たちが水場を見つけたとなれば話は別。みんなは多少の危険を冒してでも、僕たちを狙ってくるでしょうね。ですから今度は逆に、こちらが襲い掛かって来る奴らを迎え撃つのです。いわば作戦の第二段階です。どうですか、天災様ぁ?」
「ほう。それはそれは」
「そろそろ喉の渇きが限界に近づく者もいることでしょう。周囲に罠を張ればイチコロですよ!」
「罠の種類は?」
「もはや生け捕りにする必要はないですから、
「数は?」
「周囲にずらりと。蟻の入り込む隙間もないぐらいに」
「それでもくぐり抜けてきた時は?」
「その時は天災様が好きにやっちゃってくださいー!」
「完璧ですよ、顔笑」
「感謝の極みでーす!」
変わらぬ笑顔で畏まる顔笑を、人間にしては優れた人物だと天災は見やる。
ただそれだけに気になることがひとつあった。
「顔笑、最後にもうひとつ尋ねましょう。どうして私に付いたのです?」
「どういう意味ですかぁ?」
「私ではなく松尾芭蕉に付く選択肢も貴方にはあったはずですが?」
「あ、それですか。それはですね天災様、あなた様の方があの芭蕉と言う小僧よりも強いからです!」
「ほう?」
「芭蕉も並々ならぬ力を持っているみたいですが、もし天災様が本気で戦えば一瞬で勝負はつきますよー」
「……なるほど。貴方は名のある勝負師だと聞きましたが、確かに人を見抜く目を持っているようですね」
「わーい、褒められた―!」
「しかし、一瞬で勝負がつくというのは、まだまだ貴方は私のことが分かってませんね」
「え? どういうことですか?」
「私はあの男との勝負を一瞬で終わらせるつもりなんてありません。骨の髄まで味わってから殺すつもりですよ。何故ならあの男は……」
その時だった。
突如として地面が唸りを上げ始めるとぐらぐら揺れ始めた。
地震かと思われたが、そうではない。力の波動は地面ではなく、空気を伝わって空から降り注いでくる。
そのことに一早く気が付いた天災たちは、峡谷中の鳥が一斉に飛び交う空の彼方へと目を細め――そして見た。
幾つもの屹立する峰のひとつの山頂から水が突如として湧きだし、地面へと流れ落ちる壮大な滝が形成される様を!
「ええっ!? どういうことですか、これぇ!?」
さすがの顔笑もこれにはお得意の笑顔も影を潜め、驚愕の色合いを深める。
しかしその横で天災はえも言えぬ笑いを浮かべながら、
「さすがは芭蕉。さすがは俳句です。素晴らしい」
心底嬉しそうに呟くのだった。
「嘘だろう……」
それは芭蕉が詠む俳句の力を誰よりも知る義忠ですら、信じられない光景だった。
『しばらくは 滝にこもるや 夏の初め』
外へ出て振り返り、目の前に聳え立つ峰の山頂を見上げた芭蕉がそう詠んだ途端、大地がごごごごと地鳴りを上げて揺れ、大気が震えた。
そして何が起きるのかと見守っていると、ぱらぱらと水が空から降ってくる。
雨かと思って見上げた義忠は堪らず目を見開いた。
目の前の山頂から水がまるで滝のように、いや、まさしく瀑布となって降り注いできたのだ!
「……すごい」
「だろう? 我ながら良い出来だ」
「良い出来ってお前、こんなことまで俳句は出来てしまうのか!?」
「ああ。俳句に限界はない」
もっとも天才俳人である俺様だからこそ成し得る技だがなと芭蕉は豪快に笑った。
事実、芭蕉はこの俳句とは別に裏でもうひとつ『五月雨を あつめて早し 最上川』も同時に詠んでいる。
これは裏句と呼ばれるもので表句の効果を引き出したり、その威力を倍増させる二重詠唱だ。今回で言えば裏句で豊かな水源を確保し、表句でそれを滝として顕現させているわけである。
こんなことが出来るのは松尾芭蕉を除いて他にいない。
「……でも芭蕉、この滝、地面に落ちる直前で消えてる」
「ああ。でもちゃんと実体があるから心配するな。溜まっちまうと洞窟が水没しちまうだろ? だから地面に落ちる時だけ、その直前で消えるようにしたんだ」
「なんだってまたそんなことを?」
「まぁそれは洞窟の中へ入れば分かるさ。おー、冷てぇ! 気持ちいい!!」
意図が理解出来ないふたりを残して、芭蕉が降り落ちる滝をかいくぐって洞窟の中へと入っていく。
義忠たちは顔を見合わせるも、ここに残っていても埒が明かないとばかりにふたりして後に続いた。
滝の水はひんやりと身体に心地よく、口に含めばたちまち喉の渇きは癒されることだろう。
「ふぅ。さぁ、中に入ったぞ。どういうことか教えてもらおうか、芭蕉」
「おう。だがその前に何か感じないか、義忠?」
「何かって……いや、別に?」
「あー、まぁお前は基本的に疲れ知らずだから無理か。空はどうだ?」
「……ちょっと気持ちいい感じがする」
「お、さすがは空。鈍い義忠と違って感覚が鋭いな」
「俺は別に鈍くはない。というか、一体どういうことなんだ、そろそろ教えてくれ」
「滝の裏ってのはヒンヤリ気持ちよくて体力回復に最適なんだ」
いわゆるマイナスイオンである。
勿論この時代にそのような言葉はない。が、芭蕉はその効果を知っていた。
「……確かに体力が回復していく感じがする」
「そうか? 俺にはよく分からん。それに生試験が始まってからこの方、ずっとこの洞窟に閉じこもっていたからな。回復しなくちゃならんほど体力は減ってないぞ。やっぱりこれは意味がないのではないか、芭蕉よ?」
「ああ、俺たちにはあんまり意味がないな。だけどよ、この三日間ろくに水も飲めず、いつ天災たちに襲われるかと夜も眠れずに警戒し、彷徨っていた連中ならどうよ?」
「あ!」
「ちなみに俺が詠んだ俳句だけどよ、こいつには『しばらく滝裏の洞窟で過ごして清冽な気を浴びていると、夏籠りする僧侶のように改めて科挙試験を頑張ろうって気持ちが湧いてくるぞ』って意味があるんだぜ」
そう言うと芭蕉はにんまり微笑んでふたりと一頭を見渡す。
「さぁ、生き残った受験生たちを助けに行こうじゃねぇか。みんなで生試験を合格しようぜ!」
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