第十二話:饕餮

 人は欲の深い生き物だ。

 なんせ果てがない。権力を持った者はさらなる権力を欲し、財を成した者はもっと増やそうと企み、名声を得た者はより大きな賞賛を求める。

 まるでどんなに食べても決して満たされない胃袋のようだ。救われない。一時的に幸せにはなれるであろうが、欲が深くなればなるほど苦しみは増していく。


 だからその苦しみから少しでも逃れるため、古来より人間は様々な方法で欲を抑制しようとした。

 道徳を重んじることによって欲に溺れることを戒めたり。

 また極端に走らず常にほどほどを心掛けようと解いたり。

 それらの教えは人間が人間らしく生きていくための社会を構築するのに重要な役割を果たした。

 

 もっとも時としてそのような考えを全く受け入れない者もいる。

 彼らは己の欲が向かうまま好き放題に振舞うが、もちろんそれ故に社会からは受け入れられない。欲に溺れた者の最後は得てして早く、そして悲惨なものである。

 

 しかし、それでもごく稀に己の欲を貫き通し、突き抜けた者もいた――。

 

 

 

饕餮とうてつ?」

「……そう……欲に支配された者は饕餮という名の化け物になる」


 クゥが芭蕉の頭を膝に抱えながら、天災のことをそのように称した。

 饕餮とは古来よりこの国に伝わる怪物の名前である。財産だろうが食べ物だろうが、なんでも強欲に貪りつくす化け物だ。

 そこから総じて凄まじく貪欲な人のことを饕餮と称するようになったのだが。

 

「……天災は人の身体を捨て、饕餮になった……」


 どうやらここで言う饕餮は本来の化け物の意のようである。

 

「人の身体を捨てて化け物になったって、そんなことが本当にありえるのか、空!?」

「……うん」

「どうしてそう言い切れる?」

「……だって……お祖父ちゃんがそう言ってた」


 確固たる証拠を期待していた義忠が、もたれていた美顔胡の体から思わずずるりと滑る。

 もっとも空の表情は真剣そのものだ。

 

「あのなぁ、空。そういうのじゃなくてもっと」

「まぁまぁ、いいじゃねぇか。それで空、祖父さんはどうして天災は饕餮になったかって言ってたか?」

「……お祖父ちゃんは……天災は昔、偉い学者さんだったって言ってた……」


 ぽつりぽつりと話す空の言葉を纏めるとこうなる。

 なんでも天災は遥か昔の時代に生きた学者だったらしい。それがありとあらゆる知識を追い続けた結果、死してなおその魂は知識を貪り続け、とうとう十年ほど前に饕餮として転生を果たした。

 

「……それでもただ知識を溜め込むだけの学者だったらよかった……でもあいつは」

「その知識を力に換えて人を殺すようになった。だからお前の祖父さんはあいつを殺ろうとしたんだな?」


 空がこくんと頷くのを膝元から見て、芭蕉はよいしょと上体を起こした。

 

「なるほどね。ありがとよ、空。おかげで色んなことが分かったぜ」

「おい、色々分かったって、あんな与太話を信じるのか、芭蕉?」

「与太話じゃないぜ、義忠。あいつは……天災は本当に知識を力に換えてやがる」

「どういうことだ?」

「お前だって見ただろう、剛毅のおっさんが押しつぶされるようにして肉玉になっちまったのをよ。あの時、剛毅のおっさんの周りに何か見えたか?」

「いいや、何も」

「ああ。俺も見えなかった。が、見えない何かが剛毅のおっさんを握りつぶした。それもそのはずさ、何故なら天災の野郎は知識っていう目に見えないものを力に変えることが出来るんだからよ」


 知識とは力である、とはよく言われるフレーズであるが、それは身に付けた知識でもって様々なことを成し遂げることが出来るという暗喩に過ぎない。

 しかし天災は知識を長年に渡って貪ることよって、純粋な力そのものへと換えられるようになった。

 つまりは鍛錬によって鍛え上げた筋力が拳で岩を砕き、脚で大木をなぎ倒し、肉体はいかなる刃も通さないように、蓄えられた知識による知力でもってそれと同じ芸当が出来るようになったのだ。


 しかも「目に見えない」という知識本来の性質はそのままに、筋力どころか己の肉体に全く頼らない――即ち心に思っただけで近くはおろか遠く離れた対象物にまで作用するという、筋力を遥かに越えた圧倒的な優位性をもって。

 

「俺の俳句とはまた違った異能だな。そりゃあ人の身を捨てて化け物になったと言われても大納得って奴さ」

「おい、それを言えばお前も化け物ってことになるんだが?」

「俺は生まれもっての天才なの。そんじょそこらの奴らとは最初から器が違うの」

「……妖怪ふともも大好きせくはらおじさん」

「誰がおじさんだ! 俺はまだ18だぞ! てか、『せくはら』ってどこの国の言葉だよ!」

「……だったら妖怪ふともも大好きエロ小僧」

「エロ小僧でもないってーの! いいか空、俺ぐらいの年頃の男はな、みんな、女の子のふとももが大好きなんだよ! なぁ、義忠?」

「俺に振られても困るんだが」

「あ、てめぇズルいぞ。ひとりだけ格好つけやがって。空、気を付けろよ。ああいう奴に限って頭の中ではとんでもなくどエロいことを考えているもんだ」

「あのなぁ、俺をお前と一緒にするな。そうだ芭蕉、いい話を教えてやろう。異国から来たお前は知らない話だ」


 そう言うと義忠は過去の科挙で起きたとされる噂を話し始めた。

 曰く、過去に女性をむりやり手籠めにした受験生のもとへ、その女性が亡霊となって科挙の試験場に現れ、男を呪い殺したとかなんとか。

 

「だから空、お前も芭蕉を呪い殺す権利があるぞ」

「……分かった」

「分からなくていい! てか、さっそく恨めしい目で俺を見るのをやめろ、空!」

「…………(じー)」

「だからやめろって! それよりお前が殺さなきゃならんのは俺じゃなくて天災の方だろうが! 祖父さんの敵討ち、なんだろ?」


 その言葉に無表情で芭蕉を見つめる空の瞳に、幽かながらも強い光が灯る。

 

「……うん」

「でも祖父さんが殺されるところを直接は見ていない、違うか?」

「……当たってる。でも多分、あいつに殺された」


 空は祖父と呼ぶが、実際は血縁の関係はない。空がまだ物事の分別も付かぬ子どもの頃に拾われて(或いは攫われて)、暗殺術を身に付けさせられた。

 そして大きくなってからは祖父と一緒に仕事をしていた空だったが、何故か頑なに天災の一件には関わらせてもらえなかったという。


「……天災を殺しに出かけたその日から、お祖父ちゃんは家に帰ってこない……だから多分、あいつに殺された」

「まぁ、そういうことだろうな。で、お前は天災に復讐しようとしたわけだが、あいつの未知の力に驚いて手をこまねているというところだろ?」

「……うん。あの力は厄介……」

「ああ。確かに厄介だ。しかし、なんとかしないとこのままでは次々と受験生たちが獣に変わってしまうぞ。どうするつもりだ、芭蕉?」


 元はと言えば天災をどうするかという話だった。。

 随分と寄り道してしまったが、ようやく本線へと戻れたとばかりに、義忠が再び問いかける。

 空がその紺碧の瞳に、確かな期待感を滲ませて芭蕉を見つめた。

 芭蕉ならなにか行動を起こす。

 芭蕉なら何かいい策を与えてくれる。

 そんなふたりの視線に出した芭蕉の答えは――。

 

「んー、とりあえず静観しようじゃねぇか」


 およそふたりの期待に応える内容のものではなかった。

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