第十話:その声はまさか
生試験開始から一時間後。
受験生たちの中で一番最後に出発した芭蕉たちは、深い森の中を進んでいた。
「いやー、やっぱ『くのいち』が仲間になると助かるよなぁ」
「くのいち?」
「ああ、俺の国では女の忍者……つまり女の暗殺者をくのいちって言うんだ」
芭蕉と義忠より十数メートル前を行く
おかげで出発時からリラックスモードだった芭蕉はおろか、最初はそれでも空が罠を見落とすかもしれない、何者かによる奇襲があるかもしれないと警戒して身構えていた義忠も、今はかなり警戒を解いていた。
「ところで空が天災に勝つ見込みだが、本当のところあるのか?」
だからだろう、義忠はずっと気になっていたことを早々に切り出した。
芭蕉は色々と食えない人物ではあるが、一時しのぎな嘘をつくような性格でもないことも知っている。
が、それでもあの天災に勝つというのは簡単なことではない。義忠自身は芭蕉に言われたこともあって天災と事を交えるつもりはないが、何か手があるのなら後学の為にもご教授願いたいところだった。
「んー、まぁ空次第だよ」
「そりゃそうだろうが、何か具体的な策をあるのか?」
「策ってのはな、然るべき時に自然と見えてくるもんなんだぜ、義忠。そうじゃない時に思い浮かぶ策なんてのは単に『こうなったらいいな』って願望でしかねぇ」
「然るべき時、か。だったらその然るべき時ってのはどう見計らうんだ?」
「こちらの準備が完全に整った時がそれだよ。例えばジャンケンをする時、準備はどの部分にあたると思う?」
「難しいな。何を出すか頭の中で決める時か?」
「違うね。ジャンケンにおける準備とは、勝てる見込みのあるジャンケンという勝負に持ち込んだ時のことだ」
「えーと、つまり勝てる見込みのない勝負ではなく、運次第では勝てる可能性のあるジャンケンで雌雄を決することそのものが準備だ、と?」
「そうさ。で、策とはそのジャンケンでいかに勝てる状況へ持っていくかって事だよ」
「なるほど。つまり今の空はまだ準備そのものが出来ていないという事か」
なにやら複雑な話になってしまったが、結局のところは今の空では勝ち目がないと言っているのに等しい。
自然、義忠の眉間に皺が深くなる。
と、そこへ物音ひとつ立てずに空が二人のもとへ帰ってきた。
「……この先に池があった」
「お、ちょうど喉も乾いてきた頃合いだ。まさに然るべき時って奴だな」
「……でも様子がおかしい」
空が端的に説明するには、まず先行しているはずの受験生が周りにいないこと、そして池の周りに見たこともない大きな獣の足跡が残っているらしい。
「水の確保は生試験を勝ち残る一番の重要項目だぞ。なのに人がいないってのは池に毒を入れて他の受験生たちを陥れるか、あるいは謎の足跡に恐れを抱いて回避したか」
「その両方ってのもあるなァ。まぁちょっとその足跡ってのを見てみようや。空、案内してくれよ」
空に先導されてしばらく歩くと、それまで深い木々に覆われていた視界が突然ぽっかりと開けて、半径数メートルの小さな池が現れた。
どうやら雨水が溜まって出来たものではなく、地下からの湧き水であるらしい。
が、それよりも一行が注目したのは池そのものではなく、その周りの足跡であった。
「おおっ! 確かにでっけぇな、こいつは! 牛や馬のとは比べもんになんねぇぞ。なぁ義忠、この国にはこんなでっけぇ獣がいるのか?」
「いや、俺も知らん。空は何か分かるか?」
「……分かんない」
「そうか。でもこれは決まりだな。こんな巨大なのに襲われでもしたら怪我ではすまんぞ。俺たちも早くこの場を立ち去ろう」
池をぐるりと回って回避しようする義忠。その手を不意に握るものがいた。
「……何の真似だ、芭蕉?」
「なぁ義忠、ちょっと頼みがあるんだが」
「却下だ。先を急ぐぞ」
「そう言わずにさぁ。なぁ、こんなでけぇ獣がいるのなら一目見てみてぇと思わねぇか?」
「思わない。空は?」
「……これっぽっちも」
「よし、多数決で回避に決まりだ」
「勝手に決めんな! よーし、こうなったら梃でも動かんからな、俺は」
そう言って芭蕉はその場に座り込むと、すかさず『閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声』と一句詠んで、なんと岩になってしまった。
なお蝉は一匹も鳴いてなければ、我が儘を言う芭蕉の声で静かでもなんでもない。
そもそもこの句は自分の詠唱を蝉の声に見立てて予め小石に閉じ込め、沈黙の異常状態でも俳句を発動させるためのものである。
それを解釈違いで全く別の効果を得てしまうとは。
なんでもありか、松尾芭蕉!!
「……石化した」
「ああ。地団駄どころか岩になるとは、イヤイヤ期の子供より質が悪い」
「……これ、生きてるの?」
「多分な。おそらくは巨大生物を見たら解けるようになってるんじゃないか」
「……困った人」
「うむ」
「……でも面白い人」
芭蕉のサボタージュに呆れつつも仕方ないと諦めて、足跡の主が現れるのを待とうと草むらへと身を隠す空。
その無表情な顔がかすかに綻びるのを、義忠はちょっとした驚きでもって見送った。
どれくらい待ったであろうか。
かすかに地面が揺れたのを義忠は感じた。
地震かと思ったが、どうやらそうではないらしい。
どしーん、どしーんと振動は徐々に大きく、そして近づいてくる。
どうやら芭蕉お待ちかねの奴がやってきたようだと、義忠は空と同じくそれまで以上に地面に低く這いつくばって草むらに身を隠しながら何が現れるのかと目を凝らした。
ぱおーん!
しかして水場に現れたのは巨大な一頭の象であった。
木々の間を器用に抜け、背の高い草をかき分けて池に近づくと、長い鼻を水中へと伸ばし、吸い上げて口元へ持っていき水を飲み始めた。
「すげぇ! ホンモノの象だ!」
その様子にいつのまに石化が解けたのか、芭蕉が大声をあげてはしゃぎ始める。
「太閤様や将軍様に貢げられたことがあるとは聞いてたけどよ、マジででけぇ! 鼻長ぇ!」
「象? これが象なのか?」
「おっ、義忠も知ってるのか?」
「『三国志演義』で読んだことがある。しかし象はともっと南の方に生息する獣のはずだがどうしてこんなところに?」
「そんなの俺が知るか! とにかく象が目の前にいるんだ。こいつは乗ってみてぇ!」
芭蕉がまるで大木のような足元にへばりついて登り始めるも、象も尻尾で応戦してなかなかうまくいかない。
「……ねぇ、あんなことして大丈夫なの?」
「分からん。が、凶暴ならとっくに芭蕉に襲いかかってるだろう。多分、温和な性格なんじゃないか」
「……あんなに大きいのに?」
象を全く知らなかった空は、目を大きく見開いた。
単純に今まで見たこともない大きな生き物に、そしてそれに飛び乗ろうとしている芭蕉の無謀さに、純粋に驚いていた。
「それにあの大きさだ。奴からしたらきっと俺たちなんて蟻みたいなもので――」
ぱおーん! ぱおーん!
ところが温和だったと思っていた象が突然前足を上げて立ち上がると、大声で鳴いて芭蕉を振り飛ばした。
「なっ!? おい芭蕉、大丈夫か!?」
「ああ、なんてことねぇ」
「一体お前、象になにをしたんだ?」
「別に。ただ尻尾があまりに邪魔だから引っこ抜いてやろうかと」
「馬鹿! なんてことしやがる! そんなことしたら象が怒って当たり前だろ!」
ぱおーん! ぱおーん! ぱおーん!
怒り狂った象が長い鼻をまるで鞭のようにしならせて、芭蕉めがけて振り上げる。
鼻と言っても人間の足よりも遥かに太い筋肉の塊だ。もし直撃でも喰らうものなら、ただではすまない。
ぱおーん! ぱおーん!
「やべぇ! 逃げるぞ、ふたりとも!」
さすがの芭蕉もこれには退散の一手しかなかった。
「……最悪」
「ぶうたれてる場合かよっ、空!」
「……水、飲みたかった」
「だったら空、おめぇがなんとかしろよ、あれ!」
「……無理。あれは無理」
「じゃあ逃げるしかねぇだろっ!」
未練たらしくその場から立ち去らない空の手を取って、一目散に芭蕉は逃げようとする。
その横を義忠が通り過ぎた。
ただし、芭蕉たちとは真逆、荒れ狂う象に立ち向かうようにして。
「おい、義忠! さすがにお前の武でも奴には立ち向かえん! ここは逃げろ、義忠!」
堅実派の義忠の思わぬ行動に、芭蕉は驚いてその名を叫んだ。
しかし義忠は芭蕉の声が耳に入らないのか、ただ茫然と象の前に立って語りかける。
「その声……まさか我が友、
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