第七話:夕陽の誓い
「ここにいたのか、芭蕉」
会試第一試練があったその日の夕方。
遥か西の地平線へと太陽が落ちていくのを、芭蕉は砦の外壁の上に登り、足をぶらぶらさせながら腰かけて見つめていた。
「そろそろ晩飯の時間だぞ。食欲はないかもしれんが、次の試験のことも考えたら食べておいた方がいい」
そう芭蕉の背中に話しかけつつも、かく言う義忠もあまり食欲はない。
当たり前だ。昼間にあんなものを見せつけられては、どんな食いしん坊であっても一晩ぐらいは飯を抜きたくなるだろう。
剛毅将軍は死んだ。
しかもただの死ではない。何かとんでもなく重いものに上下左右全ての方向から押しつぶされるようにして、最後はまるで肉の玉のようになって死んだ。
天災の噂は多くの者が耳にしていたが、実際に目の当たりにした狂気は想像を絶する。
芭蕉の俳句にも誰もが驚いたが、天災の異能は芭蕉以上だ。
それは「こんな狂人とはとてもじゃないが試験でやりあえない」と、既に受験生の何名かは砦から立ち去るほどのインパクトだった。
「…………」
そして天災は芭蕉にも衝撃を与えたようだった。
天災が剛毅を殺そうとするのを芭蕉は止めようとした。しかし、剛毅の処刑(あれはもはや処刑であった)が始まるやいなや、芭蕉は息を飲みこんで、その様子を呆然と見つめるしか出来なかった。
以降、まるで言葉を忘れたかのように無言となってしまった芭蕉。
受験生たちに武試験の中止が伝えられ、強制的に各々の部屋へ戻らされると、その数時間後、義忠が芭蕉の部屋を訪れたらもぬけの殻になっていた。
まさか芭蕉までも試験を辞退して国へ帰ったのかと思ったが、受験生たちが泊まる兵舎の壁に掲げられた受験生一覧にはまだ芭蕉の名前が残っている。
そこで義忠は砦中を探し回り、ようやく芭蕉の姿を見つけたのであった。
「剛毅将軍は……残念だった」
「…………」
「俺もあの場にいたんだから天災を止めるべきだった」
「…………」
「だが俺には出来なかった。動けなかった。俺は自分が情けない」
「…………」
「だから今後は同じ後悔をしないよう、今ここで誓おう。もし天災がお前に手を出してきてもその時はこの俺が――」
「なぁ、義忠」
それは数時間ぶりに聞く芭蕉の声。しかし、義忠には随分と久方ぶりに芭蕉の声を聞いたような気がした。
「俺の生まれた国は山が多くてさ。こんなまっ平な地平線に太陽が落ちる光景なんて俺、この国に来るまで見たことがなかったんだよ」
「は? 芭蕉、それは一体何の話だ?」
「世界って広いよなぁ。まだ見たことない光景、まだ聞いたことのない話、まだ食べたことがない飯がいっぱいあるんだろうなぁ」
「あ、ああ。それより芭蕉、俺は」
「いやぁ、やっぱり旅っていいなぁ。あんな訳の分からねぇ力を持っている奴がいるなんてよ」
「……芭蕉?」
「殺されちまった剛毅のおっさんには悪いけどよ、今のうちに天災がどういう奴か分かってよかったぜ」
よっと立ち上がると、芭蕉は義忠に向かって振り返り、無邪気な笑い顔を見せた。
「さぁ、飯だ飯! まだまだ試験は続くんだろう? だったらしっかり食べて体力をつけないとな!」
「それはそうだが……おい芭蕉、まさかお前、あの天災と戦うつもりじゃないだろうな!?」
「んー、戦えばまた死人が出るかもしれないだろ? だからしばらく戦いにはしたくねぇなぁ」
「……俺が
戦うのかという問いかけに、殺されるではなく、死人が出ると答えた芭蕉。
その意味は自分は大丈夫でも、自分以外――すなわち義忠は死ぬということだ。
義忠はその見立てに腹を立てた……と言うわけでもない。事実、芭蕉を守るつもりでいる義忠自身でさえ、その実、天災に勝てるかどうかはまるで分からなかった。
義忠とて郷試を勝ち抜いてきた強者である。これまでいくつもの死線を越えてきた。故に対峙する相手、目の前の困難が自分の力の及ぶところか、それとも及ばざるのかはある程度判別出来る。
にもかかわらず、天災にはまるでその判別が働かない。ただただ危険な男だとしか分からなかった。
「俺では奴には勝てない。その見立ての理由を訊いていいか、芭蕉?」
しかし芭蕉は、義忠には荷が重すぎると判断した。その理由を義忠は純粋に知りたかった。
「おいおい、義忠。誰もそんなことは言ってないぜ」
「は? だってお前、今、死人が出るって」
「だからそれがお前とは誰も言ってねぇだろ。そうだ、いい機会だからこちらも訊いておこうか。なぁ義忠、お前がこの科挙を受ける理由はなんだ?」
なのに質問をはぐらかされたばかりか、芭蕉はあからさまに話の流れを変えてくる。
「おい、芭蕉。話をはぐらかすな」
「別にはぐらかしちゃいねぇよ。ちゃんとお前の聞きたがってることは分かっている。でもその為にはお前の目的を知らなきゃダメなんだよ。あ、ちなみに俺は今日も言ったように単なる力試しだ。俺は世界中の面白いものを見て、体感したいと思っているからな。で、お前は? あ、先に言っておくが天子様にお仕えしたいからとか、そんな上っ面の答えは勘弁しろよ」
「…………俺は、親父の名誉を回復させるためだ」
しばしの沈黙の後、義忠は声を振り絞るようにして言った。
「俺の親父も科挙に合格した優れた官僚だった。が、横領の罪で地位を剥奪され、獄中で無念の死を迎えた」
「…………」
「親父は清廉潔白な人物だった。横領なんてするわけがない。他人の犯した罪を親父は擦り付けられたんだ」
「証拠はあるのか?」
「……今はない。だが誰が犯人かは分かっている。親父の上司にあたる男だ。俺の親父はこいつを横領の犯人だと訴えた。なのにそいつは無罪となり、何故か逆に俺の親父が横領をしたことにさせられたのだ。だから俺は科挙に合格して官僚となり、その男の過去を徹底的に洗いあげる」
「だが、仮にちゃんとした証拠が見つかったとして、一度出た判決がそう簡単に覆されるものか? それだけの大事件なんだ、裁いたのは天子様(皇帝)だろう。それに異議を申し立てるんだ、下手したらお前も不敬罰で捕まっちまうぞ」
「そうだな。それにもしかしたら天子様も買収されていたのかもしれぬ」
「おいおい、それじゃあますますダメじゃねぇか」
「だが、その天子様も一年前にお亡くなりになられてな。後を継がれた今の天子様はまだお若いが、物事の道理を知る賢明なお方だと聞いている。この方の下で働き、結果を出して信頼を得られればあるいは――」
随分と遠大な計画である。
が、それぐらいしか父親の冤罪を晴らす術が義忠にはなかった。
「なるほどな。そいつを調べるには自分も同じ官僚にならない限り無理ってわけか」
出会って間もないとは言え、これまでのやり取りから義忠が名前の通り義に厚い正義漢なのを芭蕉は知っていた。それはまさに生まれ持った素質に加えて、親の躾の賜物だ。
そんな義忠を育てた人物が横領をするとは考えにくい。おそらくは義忠の言うように、彼の父はハメられたのであろう。
それでも事件から時が経った今、義忠が官僚になれたとしても真実を解き明かすのは難しい。出来れば芭蕉も手伝ってやりたかったが、この試験が終われば再び旅へ出るのでそれも無理な話だ。
ならば今、芭蕉に出来ることと言えば、友を守ることであった。
「だったらなおさらだな。義忠、お前は天災とは関わるな」
「何故だ!? 俺の目的とそれとは何の関係もないではないかっ!」
「そう、何の関係もない。だからだよ。お前はどうしても科挙に受からなければならない。だったらこんな関係のないことに首を突っ込む暇なんてない。そうだろう?」
「それはそうだが……しかし」
「それにだ。人ってのはな、本当に命を賭けるものにのみ、力が発揮できるもんなのさ。そうさな、もし天災がお前の親父をハメた犯人なら、お前は奴にも勝てるだろう。だが、そうじゃないよな?」
「…………」
「もちろん、友である俺の力になりたいってお前の気持ちは嬉しいぜ。だけどな俺は友として、お前にはお前の本分を全うさせてやりたいんだ。余計なことに巻き込んで、その邪魔をしたくはないんだよ。そこんところを分かってくれ」
「芭蕉……」
「それにさっきも言ったが、天災と戦って死ぬかもしれないのはお前じゃない」
「え?」
「まぁ、そのうち分かるさ。さ、そろそろ今日もタダ飯を食いに行こうぜ。腹減っちまったよ」
芭蕉は義忠の肩をポンポンと叩くと、一足早く外壁の階段を降りていく。
夕日は既に西の彼方へと落ち、夕闇が東の空から少しずつ幕を下ろし始めていた。
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