第六話:俳句、その脅威の世界
かつて詩人は戦況を決定付ける究極の戦力であった。
例えば唐の時代の有名な詩人に杜甫がいる。彼が詠んだ『国破れて山河あり』から始まる『春望』は最も有名な
この五言律詩は安史の乱の軍中に詠まれた。
敵は謀反人・安禄山率いる燕国の兵およそ30万人。安禄山は唐の副都とも言うべき洛陽を攻め落とし、その勢いのまま首都・長安へと迫る。唐軍はこれをなんとか押し返そうと奮闘するも、敵国の勢いたるやもはや怒涛の勢いで、落城は間近であった。
その時、戦場に杜甫の朗々とした声が響き渡る。
するとなんとしたことか、いきなり
しかも彼らの首都・洛陽は、たちまちたおやかな山と悠久の大河が織りなす大自然へと変貌した。
これが詩人による具現化能力である。
まさにたった一人で戦況を打開する力のある詩人は、長く大いに持て囃された。
「しかしな、それはあくまで詩人を守り抜ける強力な護衛がいてのこそだ!」
武試験開始を告げる銅鑼が打ち鳴らされるやいなや一気に距離を詰めた剛毅は、握りしめた青龍刀を正確に芭蕉の首めがけて振るった。
かつては圧倒的な火力を誇った詩人が衰退した理由はみっつ。
ひとつは単純に杜甫や李白のような優れた詩人は、なかなか出てこないこと。
もうひとつは遊牧民族である元軍が、まるで稲妻のような動きを可能にする馬術を駆使して敵の陣営を突破し、戦力の要である詩人を狙い撃ちすることに成功したこと。余談ではあるが、ライダーがキャスターの天敵なのはこれに由来する。
そして最後のひとつは――。
「五言絶句だの、七言律詩だの、強力な魔法の詠唱には時間がかかる! それは速さを尊ぶ現代戦術において、そしてこのような一対一での戦闘ではなおさら致命的なのを思い知るがいいッ!」
刹那、剛毅の青龍刀は芭蕉の首を見事刎ね飛ばした。
「ふっ。高い授業料になったな、小僧」
剛毅はどぅと倒れた芭蕉の死体を一瞥しながら青龍刀の血を振り落とすと、見ていた他の受験生たちへと振り返る。
「お前たちもこのようになりたくなければ謙虚に生き――」
と、そこで剛毅は言葉に詰まり、はてと首を傾げる。
見守る受験生たちとの距離はせいぜい三十メートルほどだったはず。それがいつの間にか随分と離れてしまっていた。
戦いに夢中になるあまり、自分でも気が付かないうちにそれまで移動してしまっていたのか。いや、それはない。剛毅は一直線に芭蕉へ襲い掛かった。そんな余計な移動はしていない。
ならばあまりに凄惨な結末に恐れおののいた受験生たちが思わず後ずさりしてしまったのか。しかしそれにしてもひとりやふたりはともかく、受験生全員が揃ってあんなに距離を置くなど……。
『……のあと』
不意に後ろから声が聞こえた。
慌てて剛毅が振り向くと、そこには倒れたはずの芭蕉の身体が、刎ね飛ばされた首を手にして立ち上がっている。
「むぅ! 貴様、妖怪の類であったかッ!」
あまりに不可思議な出来事ではあるが即座に青龍刀を再び操り、今度は胴を真っ二つに薙ぎ払う剛毅は、さすがと言わざるを得ない。
しかし。
『夏草や……』
にもかかわらず、芭蕉の死体はなにやら言葉を発し続けている。
「ええい、往生際の悪い奴よ! 詠唱をやめいッ!」
剛毅は地面に転がる芭蕉の頭をぐしゃりと叩き潰した。
『兵どもが……』
しかしどこからともなく詠唱が聞こえてくる。
「なんだと!? そうか、わかったぞッ! 心の臓を潰さぬ限りは再生してくる輩か!」
今度は青龍刀の尖端を、頭も腰も無残に切り離された芭蕉の胸へ深々と突き刺した。
『夢の跡……』
それでも詠唱は止まることなく、ここに来て剛毅将軍も動揺が隠せなくなった。
「なんと面妖な……ええい、お前たちも見ていないで手伝え!!」
背後で見ているはずの受験生たちへと檄を飛ばす剛毅。
「な、なにぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」
だが、そこにいたのは無数の芭蕉の姿であった。
『夏草や 兵どもが 夢の跡』
『夏草や 兵どもが 夢の跡』
『夏草や 兵どもが 夢の跡』
しかもその芭蕉の大群が揃って同じ
その光景はさすがの剛毅将軍であっても混乱に陥るには十分であった。
「……一体これはどういうことだ?」
全てを見ていた義忠は隣にいる芭蕉へ尋ねずにはいられなかった。
開始の合図とともに一息で芭蕉との距離を詰め、青龍刀を振るおうとした剛毅。
しかし、何故か突然あらぬ方向へ軌道を変え、その後も芭蕉を無視して何もない虚空をただひたすら斬りつけている。
その間に芭蕉は悠然と試合場を降り、義忠の隣でニマニマしながら剛毅の虚しい剣舞を見物していた。
「奴は今、夢の中よ。夢の中で幻覚と必死に戦ってやがるのさ」
「そんなのは見ればわかる! そうではなくて、一体どうやって将軍に術をかけたんだ!?」
「はぁ? そんなの、お前たちにも聞こえたろ? 奴が襲い掛かって来る瞬間に俺が一句ひねった奴がよ」
「確かに『夏草や 兵どもが 夢の跡』って言葉だけが聞こえはしたが……」
「そう! それだよ、それ! いやー、我ながらいい出来だぜ」
「いい出来だって? まるで詩になっていないじゃないか! 五言絶句、七言律詩、いや四言詩にすらなっていない!」
「でもよ、お前たちの頭の中にも浮かんだはずだぜ。夏草が生い茂る戦場で戦う兵士の幻想がよ」
「それはそうだが……」
「だったらこれも詩だろ? 言葉で世界を構築したんだからよ!」
詩人の持つ稀有な
しかし、それほどの巨大な力には当然厳しい制約がつきまとう。五言、七言、絶句、律詩、押韻、平仄、対句などなど。それらを駆使して
なのに今、芭蕉はそれらをまるで踏まえずしてかくも強力な幻覚に剛毅を陥らせてしまった。それが義忠にはとても信じられない……。
「ふふふ。この私も俄かには信じられませんが……」
と、いつの間にいたのか、義忠を挟んで芭蕉の対面に立っていた天災がさも楽しそうな微笑を浮かべる。
「しかし、事実は事実。認めなければなりません。あなた、その詩はなんと呼ばれているのです?」
「こいつは俳句っつーんだ。ちなみにお前たちにはどう聞こえてるのか分かんねぇけど、こいつは文字数に縛りはねぇ。代わりに17音で完成させるんだ、俺の国の発音でな」
芭蕉のこの言葉にはさしもの天災も、その涼しげな頬につつーと一筋の汗が流れ落ちた。
説明しよう。実は芭蕉も義忠たちもそれぞれの国の言葉を話している。が、芭蕉の俳人スキルにより、芭蕉の発した言葉は義忠たちには中国語に聞こえ、逆に天災たちの言葉は日本語として芭蕉には聞こえるのだ。
故に義忠たちには17音に聞こえていない場合もあるのだが、それは置いといて天災とて驚きを禁じ得なかったのにはわけがある。
例えば先に紹介した『春望』の冒頭「国破れて山河あり」の場合、中国語で発音すると「
さらに春望は五言律詩だから文字そのものは全部で40文字程度なのだが、音にすると100音ほどになり、これを全部詠み終わらないと術式は発動しない。
であるから俳句がいかに驚異的な短時間で発動する術式であるか、賢明なる読者の方々にはご理解いただけたであろう。
「……俳句ですか。覚えておきましょう。ところであの哀れな男をこれからどうするおつもりです?」
天災の視線の先ではまだ剛毅が懸命に青龍刀を振るっていた。
しかしもはやその剣筋はめちゃくちゃで、やたらめったら懸命に振り回しまくっている。その様は滑稽さをこえて、哀れみを感じさせるものであった。
「ああ、そろそろ悪夢から解放してやるか」
ぱちんと芭蕉は柏手をひとつ打つ。
するとたちまち剛毅にだけ見えていた無数の芭蕉の姿が煙のように消え去り、彼の精神はこの世に戻ってきた。
「どうでい、おっさん。ちったぁ俺の力を分かってくれたかい?」
「はぁはぁ……くっ、こんのクソガキが、舐めた真似をしよってッ!!」
「あれ? まだ懲りてねぇのか? タフだなぁ、おっさん」
「ほざけッ! ワシはまだ認めんぞッ! 言ったであろう、この武試験は相手に参ったと言わせるか、あるいは死に至らしめるかでのみ勝敗が決する、と!」
それは芭蕉が気に入らないという個人的な感情より、将軍としての意地であっただろう。
肩で息をし、足元が覚束ぬ有様であっても、たかが科挙の受験生に一太刀も浴びせぬままでは終わらせられぬという剛毅の意地が、かくも頑なに敗北を拒絶した。
「さぁ、小僧! 今一度ワシの前に来い! そしてもう一度戦えッ!!」
わずかに残った気力を振り絞り、剛毅が青龍刀を天高くかざして気合を注入する。
それはまさに武に生きる剛毅将軍の生きざまそのものであり、芭蕉はもう一度再戦することにはうんざりしたものの、その武骨な精神には痛く感動を覚えるほどであった。
「醜い……」
しかし、天災は違った。
「既に勝負は決していますよ、剛毅将軍。それが分からぬようなら――」
ちらりと天災が横目で芭蕉を見やる。
それだけで芭蕉の全身は、まるで何か得体のしれぬ化け物に睨まれたかのように鳥肌が立った。
「天災! てめぇ、何をするつもりだ!?」
「なに、先ほどの俳句を見せていただいたお礼ですよ。私の力もお見せしましょう」
「やめろ! そんなもの、俺は見たく――」
天災には何の動きもなかった。
何か言葉を発するわけでもなければ手を掲げるわけでもない。
ただいつものように微笑を携えているだけだった。
ボキッ!
ボキボキッ!
「なんだ……これは?」
それなのに突如として剛毅の身体がぐにゃりと折れ曲がり、ボキッ、ボキボキッと次々に骨が砕かれる音を辺りに響かせて、その熊のような体躯がまるで折り紙かのように折り畳まれていった。
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