第五話:熊と猿
会試第一試練は、剛毅将軍による武試験となったが、ここでひとつ余談をしたい。
科挙と言えば頭の賢い人物たちによる選抜試験というのが一般的な認識だと思う。
が、それは当時では文科挙と呼ばれ、それとはまた別に優れた武力を持つ者を選抜する武科挙というものがあった。
本当だ。信じて欲しい。今までアレな話をしておいてなんだけど。
ただし、その武科挙というのは弓で矢をどれだけ正確に放てるか、あるいはどれだけ重い青龍刀をぶん回せるかなどが主な試験内容で、今作のようなバトル漫画みたいなものでは決してなかった。
また科挙と言えば文科挙が思い浮かぶように、武科挙は当時からして人気がなかったようだ。
実際、文科挙からは有名な文人や政治家が多数輩出されているが、武科挙からはそのように後世に名を遺した人物はいない。
それもそのはずで軍では武科挙あがりよりも兵卒からの叩き上げこそが重宝され、結局、武科挙あがりはしょぼい隊の隊長ぐらいしか任せられなかったからである。
以上どうでもいい雑学であった。
「武試験第一試合! 松尾芭蕉、
場所は引き続き砦東側の大広場である。
ただし、受験生たちは先ほどから回れ右して、後方に広がる空間を臨んでいた。
ここが武試験の試合場というわけである。
「武試験ねぇ。気が進まねぇなぁ」
ぶつくさ文句を言いながら受験生たちの群れから芭蕉が、いかにも不貞腐れた様子で前へ出てくる。
一方、もうひとり試合場へ進み出てきたのは、かつて夕餉の際にひとり貧相なご膳を囲んでいた乞食然とした人物であった。
この期に及んでもいまだ刺繍の施されたぼろ布を頭からすっぽり被って、どのような人物なのかまるで分からない。
「お前が空か?」
「……ん」
「なぜそのようなぼろ布を身に纏っておる? これは天子様が行う神聖なる科挙であるぞ。天子様に失礼であろう。ただちに脱げいッ!」
苛立たしげに剛毅が声を荒げた。
ただし、これは空の振る舞いが気にくわなかっただけではない。科挙は合格すれば富と名声が欲しいままになる絶好の機会である。故に何としてでも合格しようと悪事を企む者が後を絶たない。特に替え玉はその最たるものだ。
だから受験生たちは郷試の前に似顔絵の提出を義務付けられる。この似顔絵で受験生たちは度あるごとに顔を確認され、本人かどうかを確かめられるのだ。
なのにボロ布で頭まで隠していては、さては替え玉かと剛毅が疑うのも仕方のないことである。
「……ん」
剛毅に命じられて空が頭の布へと手を掛けるのを、芭蕉はまじまじと見つめていた。
間近で対面してもまだ芭蕉には空がどのような人物なのかがまるで掴めないでいた。あの夕餉の際に、天災はともかく空までも「只者ではない」と芭蕉が評したのは、まさにその掴みどころのなさが理由である。
乞食のような恰好をしているのは偽装に間違いない。それは分かる。が、その正体はなにかと言われると分からない。
敢えて言うならば乞食である。が、ただの乞食が科挙でここまで辿り着けれるわけがない。
しかもようやく声を聞くことが出来たと思えば、これまたボソボソとした小さな声で上手く聞き取れない。となればもうこれは実物を見て、さらには幾つかの攻防を交えてその正体を推し量るしかないと思っていたら……。
「なっ!? 女ァ!?」
驚いたことにボロ布の下から現れたのは、全体的に薄汚れてはいるものの、まごうことなき女の子であった。
歳の頃は芭蕉よりもさらにずっと下、おそらく13歳あたりであろうか。子は産める身体にはなっているかもしれないが、苛烈な科挙に身を投じるにはあまりにも若い。
それでも長い髪は複雑な文様が刺繍されたターバンで纏め上げられており、各種急所は北方民族特有の見事な彫刻が施された装具でカバー、下半身はふんわりとした袴姿なものの脚絆で足元を締め上げて動きやすくしているなど、只者ではないのはその装いからも見て取れる。
特に紺碧の瞳は感情が全く読み取れないほど、どこまでも果てしなく深かった。
「お、おい、義忠! 科挙ってのは確か女はダメだったんじゃなかったか!?」
「それは旧制度の科挙だ。今の新制度では女は勿論、妓楼の主、囚人、それに北方の異民族にだって受験が許されている!」
「マジか! 天子様の器、めっちゃでけぇな!」
そんな空を前にしてまずその正体に驚いたかと思えば、次には天子の懐の深さに感嘆していたりする芭蕉。
そのコロコロと落ち着きのない心持ちを傍で見るに、剛毅はやはり芭蕉は科挙合格者には相応しくないと不快に感じた。
天子の傍に侍る者、常に冷静沈着であるべし。
剛毅の好きな言葉である。
「うむ、空に間違いない。ではお互いに見合い給え」
だからと言って、そんな個人的な感情で受験生を落とす剛毅ではない。
確かに言動は不快ではあるし、さらに言えば受験生を振り落とす為に作った鉄門をあっさりと壊された恨みもある。出来ることならば自らの手でこの場から叩き出してやりたいところではある。
「それでは武試験第一試合」
だが、そんな思いを断ち切って剛毅は試合開始の号令をかけようと口を大きく開く。
「あ、ごめん。俺、やっぱやめとくわ」
なのに芭蕉がいきなりリタイアを申し出てきて、剛毅はものの見事にずっこけた。
「おおいッ! 貴様! 今、なんと?」
「だからやめとくって。耳悪いんか、おっさん」
「ぐぐっ、またしてもおっさん呼ばわりとは……ええい、それよりも貴様、分かっているのか? ここで棄権するということはもうこれ以上試験を受けられぬということなのだぞ?」
「ああ、分かってる。でも女と子供には手を出さねぇってのが俺の信条なんでね」
「そうか、分かってるならばよい! おい、誰かこいつを即刻砦から追い出して――」
「だから悪ィけど相手を代えてくんない?」
義忠、並びにその他の受験生たちは、果たして今日何度目の驚愕であろうか。
そしてついに剛毅までも、この申し出に一瞬言葉を失った。
遠くは東の小さな島国から来た田舎者である。多少の無礼、非常識はここまでまぁ大目に見てきた。
しかし、しかしだ。
分が悪いから相手を代えてくれなどとそのような厚顔無恥な嘆願を、かくも気軽に申し出てくるなどとはもはや非常識を通り越して阿呆の一言しかない。
科挙の試験内容は元王朝時代から武力の要素が強まったとはいえ、それでもかつて同様、凡人ならぬ知力も求められる高貴な国家試験である。
その科挙の、しかも予選ではなく本選にかくも脳にクソがつまったかのような阿呆が参加してこようとは、剛毅も夢にも思っていなかった。
「貴様、一体どこまでワシを馬鹿にすれば気が済むのだ?」
「馬鹿になんかしちゃいねぇって剛毅のおっさん」
「貴様ァァァァァァ!!」
「それに何も弱っちぃ奴とやらせろとは言ってねぇぜ。なぁ天災よ、いっちょ俺とやってみねぇか?」
その名を聞いて剛毅の顔が一瞬引き攣り、受験生たちもざわざわとざわめいた。
義忠が天災のことを知っていたように、芭蕉を除くここにいる者全員もまた、天災のことを知っている。
そして受験生のほとんどが武試験の内容を聞いて「天災とだけは立ち会いたくない」と願っていた。
「ほう。私と
受験生の集団のほぼ中央から声が上がると同時に、ささっとその周囲にいた者たちが我先にと後ずさった。
たちまち天災の前に道が出来上がる。
その道を一片の汚れもない純白な、まるで貴族が纏うような衣に身を包んだ天災が静かに進み、指輪の玉を嘗め回すように触りながら芭蕉の前に立った。
「……ふむ、遠くから見ていて思っていたのですが、改めてこう近くで見るとますます疑問が湧いてきますね。どうして科挙に猿が混ざっているのです?」
「ははっ。てめぇこそ死装束を着て受験に挑むとは気が利いてるぜ」
「これは死装束ではありませんよ、お猿さん」
「そうなのか? そんな動きにくそうな格好で出てくるもんだからてっきり死ぬつもりだと思っていたぜ」
「確かにあまり運動には適しない格好ですね。しかしそれは関係ありません。何故なら私は動かなくとも、あなたたちを簡単に殺してしまうことが出来るからです」
「言うねぇ。じゃあちょっと俺と運動していけよ」
芭蕉が天災の胸へ拳を伸ばす。
しかし、その拳が届く前に腕を握り止める者がいた。
「…………」
空である。
「…………」
「おい、いきなり横から出てきてだんまりってなんだよ? なんか言えよ、お前」
「……相手が違う」
「は?」
「……私が相手」
その言葉にはっと我に返ったのは剛毅であった。
「そ、そうだ。芭蕉の相手はその空である! 勝手に対戦相手を替えるなッ!」
「うっせぇなぁ。だから女と子供は相手にしねぇ主義だって言ってんじゃねぇか」
「だからと言ってワシが決めた対戦相手を拒否するとは言語道断ッッッ!」
「もう、だからうっせぇって! だったら将軍様よ、それなら自分で試してみねえか、俺様の力をよ」
「なにっ!?」
「つまりはあんたが俺の相手になってくれってことよ」
怒髪天を衝く勢いで怒りを表していた剛毅が、ピクリとその熊のような眉を動かした。
切れた堪忍袋の緒。煮えくり返る腸。この場でもって芭蕉を不届き者として退場させるのは容易いが、それだけでは剛毅の気が済まないところまで来ていた。
そこへその芭蕉から、これまた人を小馬鹿にしたような提案である。思い上がりも甚だしい。
が、それはそれ、剛毅としてもこの提案は自らの手で生意気な小僧を痛い目に遭わせる絶好の機会であった。
「いいのか、
「ああ、もちろん。それより万が一あんたが負けたら、たかだか科挙の受験生如きに将軍様が遅れをとったことになるんだ。そんなことにならないよう、全力を尽くすのをオススメするね」
「ほざけ。貴様こそ頭と身体が切り離されんようくれぐれも注意することだ」
剛毅は天災と空に下がるよう命じると、部下の兵卒から青龍刀を手渡されて芭蕉と対峙した。
改めて見るにこんな小さな、まだ二十歳にも満たぬ若造が鉄門を吹き飛ばしたとはとても信じられない。
しかし現実に鉄門は見るも無残に融解して飛び散っている。
となればやはり信じがたいことではあるが、芭蕉はかの盛唐に活躍した李白や杜甫にも負けぬ詩人なのであろう。
詩人……それは紡いだ歌を具現化する魔法使いである。
その力はあまりに巨大であり、かつては大いに持て囃された。
が、宋が元王朝に破れて以降、魔法使いは急速に廃れていく……。
(ふっ。所詮は極東の島国から来た田舎者よ。もう詩人の世ではないのを知らぬと見える)
芭蕉と十メートルほどの間合いを置いて対峙する剛毅は、その事実をこの生意気な若造にきつく教えてやろうと大地を強く踏みしめる。
「それでは、始めッ!」
開始の声と同時に銅鑼が高らかに鳴り響く。
その瞬間、剛毅の熊のような体躯は俄かに豹の動きへと変貌し、一気に間合いを詰めて芭蕉へと斬りかかった。
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