第ニ話:この鉄門を開け
『旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる』
これは有名な松尾芭蕉の俳句であるが、辞世の句だと勘違いしている人は多いだろう。
確かに病に倒れてこの句を詠んだ。しかしこれはそれより遥か昔、まさに松尾芭蕉が生まれた直後に詠んだ句でもあるのだ。!
そう、松尾芭蕉は産声を上げるよりも先にこの句を詠んだ。
となれば、この句の意味も自然と変わってくる。
通説では『旅の途中で病に倒れたけれど、夢で枯野を駆け巡っている』あたりとなる。確かに病床で詠んだ句はこの解釈で間違ってはいないであろう。
が、生まれたての頃に詠んだ意味はこうだ。
『俺は生まれもっての
『おくのほそ道』の冒頭で「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」と語るように旅を愛した芭蕉。その生涯はまさに旅の連続であり、数多くの紀行文を残している。
しかし、若かりし頃のは残していない。
何故か。面倒くさかったからである。
紀行文なんて書いている暇があったら旅をするぜ! と言わんばかりに血気盛んだった若き日の芭蕉。人知れず大陸に渡ったのもまた、そんな彼の冒険野郎な血が騒いでの事であろうことは想像に難くない。
「さて、会試会場に無事着いたのはいいんだが……」
ミノタウロスを倒して死の迷宮から脱出、見事郷試に合格した芭蕉。
科挙の地方予選である郷試の次は、いよいよ本選である会試である。さぁここからだと気合を入れ直したのだが。
「しかしなんでこんな面倒くさいことをさせやがるのかねぇ」
芭蕉が嘆くのも無理はなかった。
郷試の試験官から指定された街へ行ってみると、今度はどこそこへ行けと指示を受ける。
で、そっちへ行ってみると、今度は某という人物を訪ねよと来た。
それだったらまだいい方で、中にはとある飯屋にて弱火でじっくり焼いた焼肉定食を頼めなんてものもあり、ふざけてんのかと怒りたくもなる。
が、この時代の科挙はこれが当たり前であった。
かつて会試と言えば都でやるのが通例であったのだが、科挙合格者の権力が年々強まるにあたり、なんとしてでも合格すべく不正を行う者が後を絶たない。中には一族総出でカンニング行為に加担する者たちまで出てきた。
そこで受験生以外に会試会場が知れ渡らないよう、このような方法が採用されたのだ。
加えてこれは予備試験も兼ねている。
会場の秘匿性の為に赴くのは受験生本人だけ。お供は許されない。つまりは一人旅なわけで、道中には盗賊に襲われるなどの様々なアクシデントが待ち構えているであろう。
それらを乗り越えられなくて科挙に合格など出来るはずがない、というわけである。
かくして郷試が終わったのがそろそろ吹く風も冷たくなってきた頃合いだったのに、受験生たちが会試の会場に辿り着くのは逆に暖かい南風が心地よい季節となっているのであった。
「まぁこっちは色々と見て回れて楽しかったけれどよ、さすがに疲れたぜ。試験が始まるまでゆっくり休ませてもらおう。おーい、誰か開けてくれい!」
旅の末に辿り着いた大草原に建つ砦は、いずこかの時代に使われ、放置されたものなのであろう。
しかし今回の会試で使用するにあたって修復されたらしく、特に観音開きの門は巨大な鉄製のものに換えられていて到底ひとりで開けられるような代物ではない。
「おーい、俺は郷試合格者の松尾芭蕉だ! この門を開けろ!」
その門の前で芭蕉は二度、声を張り上げた。
が、待てど暮らせど一向に返事がない。もしや会場を間違えたかと思ったが、にしてはこんな古びた砦をかくも頑丈に修復する意味が分からない。これはどういうことだと芭蕉が頭を悩ませていると……。
「いくら大声で呼んだところで誰も開けてはくれないだろうな」
ふと背後から声をかけられた。
振り返ってみるといつの間にいたのか、そこには芭蕉よりも年齢も体格も一回り大きな偉丈夫が腕組みして立っていた。
「あ? 誰だてめぇ?」
「俺の名は
「俺は芭蕉、松尾芭蕉だ。お察しの通り、海を越えてやってきた」
「その若さ、しかも異国人で郷試に合格するとは大したものだな」
「はっ。どうってことねぇよ。それよりさっきのはどういう意味だ? 誰も開けてはくれねぇとは?」
「これも試験のひとつって事さ。まぁ見ていることだ」
そう言うと義忠は腕組みを解き、門の前に立つ。
と、芭蕉は眼前に立つ義忠の身体から湯気のようなものが揺らぎ出ているのを感じた。
「ほう。文官を目指すくせに闘気を纏うかよ。あんた、武官の方が似合っているんじゃねぇか」
「なぁに今の世、文官でもこれぐらいは出来んとな」
振り返ることなく義忠は門に両手を置く。両腕から発せられる闘気がいっそう激しく迸った。
「むんっ!」
気合の声とともに義忠が門を力の限り押す。
巨大な鉄門だ。本来なら人間ひとりの力で押し開けるようなものではない。
「おおっ!!」
それがジリジリと押し開かれていく様子を見て、芭蕉は思わず感嘆の声をあげた。
そう言えば聞いたことがある。こことはまた違う異国の地で、かような巨大な門を誇る権力者の家がある、と。
その一族の者はかの門を自ら押し開くことで日々の鍛錬としているそうだ。
「そんなクソ重そうな門をよくもまぁ。あんた、本当に人間か?」
「俺がバケモノに見えるんだったら、ここで諦めた方がいいな」
「あ?」
「ここから先は俺以上のバケモノだらけだぞ」
ちらりと後ろの芭蕉を振り返る義忠。
「おい、なんだその目は! 俺を弱者だと見下してやがるのかよっ!?」
「弱者ではないと言うのなら自らの手で証明することだな」
「ああ、言われなくてもやってやらぁ。おい、てめぇ、こっちに来やがれ!」
「……いや、少年がこっちに来るんだ」
身構える芭蕉に対して、義忠はするりと開いた門の隙間へと身を滑らせる。
芭蕉が「あ」と思った時にはもう遅かった。
どういう仕組みになっているのだろうか、重い筈の門がバネ仕掛けの扉のように一瞬で閉じた。
「おい、こら、待ちやがれ! 逃げるなんて卑怯だぞ!」
「逃げてなどいない。俺と戦いたいなら少年も門を開けて来ればいいだけだ」
義忠の言葉は全くもって正しい。戦いたいなら芭蕉もまた門を開けて来たらいいだけのことである。
しかし芭蕉にそれは不可能だと知っての自らの発言に、義忠はどこか後ろめたさを感じていた。
芭蕉とて郷試の難関を抜けてきたのだ。それなりに力はあるのであろう。
でもあの門を開けるには至らない。芭蕉を初めて見た時から義忠には分かっていた。
とは言ってもそれは芭蕉の小さな体躯のせいではない。門を前にして開けろと訴える姿勢、これこそが芭蕉が門を開けられぬ理由に他ならなかった。科挙を戦い抜くには他力本願などもってのほか、何事も自力で解決しようする心構えこそが大切なのである。
だが、それはそれとして自分と同じように芭蕉にも夢を託す人々が多くいたであろうことを考えると義忠の胸は痛んだ。
やろうと思えば義忠の開けた扉に芭蕉も招き入れられたであろう。そうしなかったのは芭蕉の粗野な言葉遣いもあるが、なによりライバルはひとりでも減らしておきたいと言う義忠自身の器量によるものである。
「許せよ、少年」
自分の器の小ささを恥じて心の中で詫びる義忠は、しかし、すぐに顔を上げて前を向く。
まだ始まってもいない本試験、このようなことにいちいち心を痛めて立ち止まっていては到底生き残れまい。
だからこの瞬間に義忠は芭蕉のことを忘れようと努めた。
が。
「……まだ門の近くにいるなら離れた方がいいぜ、義忠」
不意に門の向こうから芭蕉の声が聞こえた。
何事かと義忠が振り返ると、俄かに鉄門の中心が赫く染まり始める。
あろうことか重さ数十トン、厚さにして一メートルほどもあろう鉄門がドロドロに溶け始めていく……。
「くっ!」
義忠が慌ててその場から跳び去るのと、大爆発が起きたのはほぼ同時であった。
爆風に吹き飛ばされて崩れそうになる態勢を懸命に整えながら、義忠はなんとか無事に着陸すると驚愕の眼差しを門があった場所へと向ける。
予想通り、いや予想を超えて、巨大な鉄門は全てドロドロに溶けて爆散していた。
そしてチロチロと燃え上がる火の手、もうもうと立ち込める煙、猛烈な焦げた匂いが支配する向こうから小さな影がゆっくりと義忠の方へと近づいてくる。
「おら、来てやったぜ、義忠。ちょっと面貸せや」
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