第12話 浄化(二)

 喧騒を背にしてしばらく駆けると、次第に板張りを打つ自分の足音が大きくなってくる。火を灯した照明が点々と並ぶ廊下の左右には、客間や書斎があるばかりで、よくある富裕層の邸宅と変わらない。

 ——どこに消えた。

 広いとはいえ平屋だ。あの場から立ち去った女が逃げられる範囲は限られている。だがどの部屋にも人影はなく、気配すらしない。

 廊下が延びるまま右に折れ、左に折れたところで前方が行き止まりになった。外に出たか。

 引き返そうと足を緩める。すると突如として足裏の反発が軽くなり、それまでの硬い靴音に代わって筒を叩いた時のような空虚な響きが立った。もう一度靴底を当てると同じ音が繰り返される。

 カエルムは膝をつき、床板が継ぎ合わされている線をゆっくりとなぞった。すると一点で硬く細いものが指に引っかかる。

 ——ここか。

 床に刺さった針ほどの釘を摘み上げれば、木板が小さく軋んで空洞が現れた。すぐそこは暗闇だが、奥の空間には灯火が作り出すのと同じおぼろな光の弧が見える。

 すぐ横の燭台に拾った紙袋の中身を少量投げ入れ、ロスに与えた薬を口に含むと、カエルムは穴の内部へ飛び降りた。


 *


 冷たい石の上に着地すると、頭上で手を離した木板の閉じる音がする。降り立ったところは石壁に囲まれた空間だ。床には点々と盃状の深い器が置かれ、その中で蝋燭の炎がちらつく。

 足元から奥に目をやれば、間仕切りなく区画された内陣のような間があった。そこに数人の人影が固まり、一斉にカエルムの方を向いた。

「まさか、あの中を抜けてきたってわけ?」

 先の女の声と共に頭ひとつ低い影が動き、その隣にあった大柄な人影の後ろに半身を隠す。

「お前が下手に動くから尾けられたんじゃねえのか」

「だってうちのがあれだけいたら普通、敵うわけないじゃないの」

 目が暗闇に慣れてくる。立っているのは女を合わせて三人。だが死角になっている位置にも何かかある。この数とやりあえるかどうかは賭けだ。

 カエルムは上体だけわずかに動かし、握っていた小袋を足下で光る灯火の器に落とした。袋は蝋燭の真上に落ち、すぐに端が黒ずんで紙が炎に蝕まれていく。

 向こうはカエルムの動作には気づかなかったようだ。緊張感を漂わせるでもなく話を続けている。

「まあ落ち着けよ。ただの細っこい若造だ。それに始末する前に事情を聞いてみるってのが良策だと思うぜ。問題を残さず潰すならな」

 なぁ兄さん、と別の男がカエルムの方へ顎をしゃくった。その向こうで煙が揺れる。何かの上に座している男がもう一人、煙管を手にしてにやついていた。椅子代わりにしているのはいくつも積み上げられた木箱だ。明るい木目の面に薄墨を認め、カエルムは凛とした声で問うた。

「その鋼をどうするつもりだ」

「鋼? 何のことを言っている」

 座った一人がうそぶき、箱の上で足を組んだ。

「その箱はシューザリーンの業者のものだろう。鋼を大量購入していたのはあなたたちか」

 木箱の型と表面に書かれた文字は、王都にある親しい工房で見た。墨で描いた紅葉と水流の紋は王都北部の山々から産出される鋼材にしか用いられない。

 城で学ぶよりも前に、まだ子供だった自分に教えてくれたのは工房の主人だ。

「兄さん物知りだな。だがそれがどうした? 鋼の購入が禁止なんて聞いたこともないが。何が理由で嗅ぎ回ってる」

「興味本位ならそう執着することもないだろう。それとも役人かい? 上司の命令かな?」

 女の前にいた一人が口角をわざとらしく上げ、低い声を猫撫で声にする。

「役人ではない。だが、もしそれがシレアに害為すとするならば、聞いておかねばならない」

「シレアに害為すとは、例えば?」

「それはそちらの返答次第だろう。いずれにせよ偽名による市場取引の疑いと薬物の違法製造については然るべき部署の確認をもって問われる」

 冷えた返答が壁に跳ね返る。その反響が消えるまで動く者は無かった。だが揺れた空気が再び鎮まった時、先の大柄な男が「それじゃあ」と楽にしていた体を前傾させた。

「黙っていてもらわないとな」

「もう一人も上で始末されてるさ。兄さんがここで動かなくなっても起こされずに寝れるぜ」

 大男が幅の広い刃を自らの前に立てるや、小柄な方もそれに倣って半月刀を抜く。

 ——傷を負わせずに済めばと思ったが。

 こうなればもうやむを得ない。鞘から剣を抜き、肩の高さに掲げる。刀身が床と平行になって止まり、山吹色の灯火の色に染まった。鋭利な刃は上質なシューザリーンの鋼を用いた匠の技による。工房の主人がカエルムにと、通常以上の手間をかけて鋳造してくれた逸品である。

「やれ」

 奥に座した頭領格の者の一言を合図に、男たちが床を蹴る。なるべくこちらから仕掛けるのは避けたい。剣の軌跡を頭に描き迎撃の構えを取る。だがその次の瞬間にはもう、巨体が目の前に迫っていた。

 ——速い。

 ガキン、と金属が鳴ると同時に柄を握る手から腕に凄まじい圧がかかる。押し返す抵抗をバネに後ろへ飛ぶと、小男の半月刀が視界の横に入った。即座に身を屈めて躱すが、そこにすぐもう一人の攻撃が来る。

 上階に居たのは格下か。二人だけを相手にしてこの状態なら、もう一人に動かれると勝ち目は無い。

 ——あと少し、時間が稼げれば……

 ここに降り立ってから三分は経った。斬りかかる剣を打ち返し、カエルムは足下の灯火に目をやる。溶けて滴る蝋が薄い橙色を帯びる。そろそろのはずだ。

 剣を返された大男が大勢を立て直す間に、カエルムは柄を前方に剣を握り直し、真横に来ていた小男の脇腹を突いた。呻き声と床を打つ音が響き渡り、続けて男の体が転がる。それを見た残りの男たちが顔に驚愕を浮かべた、その時である。

 部屋の最奥でただこちらを見守っていた女が、何の前触れもなくその場に崩れた。

「おい、どうした」

 効いてきたか——乾燥した月華草の種が燃えれば、空気中に毒が充満し、咽頭や皮膚を通して作用を及ぼす。内服時の即効性はないが、体に行き渡れば症状はより重大だ。煙が広がるまで持ち堪えられればいい。時計台が鳴るまでの間があれば十分だ。

 座していた男の呼びかけは、大男には聞こえなかったようだ。仲間が倒れた衝撃か、勢いを増してカエルムに撃ちかかる。だが回を追うごとに狙いがずれてきたのも確かだ。

「目障りに……ちょこまかと……」

 憎悪の捨て台詞ももう弱い。大男は闇雲に振り下ろした長剣を軽く払われ、そのまま身を返すこともなく床に倒れる。

「貴様、何をした? それにその剣技は……」

「説明する義理はない。あなたはどうする。私としても一戦交えることがないならその方が有難いのだが」

 毒の影響が体に現れる時間は、元々の体力や薬物への耐性などに左右される。体格で言えば女子供や小柄な人間ほど毒の回りは早い。初めに倒れた男はもう意識を失っている。動かず座っていた男は呼吸が他の者より少ない分だけ効果の発現が遅いのだろうが、ここまで来れば時間の問題だ。

 空気に混じり始めた澱みに気づかないのか、男はのそりと立ち上がると、値踏みするようにカエルムの頭から足先まで眺め回した。

「兄さんほどの腕が巷に転がってるたぁ、知らなかったねぇ。どうだい、組まないか。国のためになりたいようだし、願いが叶うぜ」

「どういう意味だ」

 ねっとりと這いつくような言葉回しだ。込み上げる不快感を吐き出すように、自ずとカエルムの返事は短くなる。

「今のシレアは軟弱だと思わないか。テハイザという強国がありながら潰すこともせず、手を組むこともしない。女を玉座に据えてさらに弱小化するかもしれないぞ。そんな弱い国で我慢できるか? やりようがあるじゃないか。強い奴が集まれば」

 カエルムが黙っているのを迷いと取ったのか、肯定と取ったのか、男は流暢に続ける。

「それなら王より先手を打って強い国にしてやろうと思わないか。もとよりシレアは王と並んで司祭領も有力だ。それと隣国との関係をうまく利用すれば、世界で覇権を握れるかもしれない。兄さんや俺たちのような実力者が一旗揚げて」

「聞く価値もない」

 理想に酔った男の語りを、空気を切るような鋭い声音が遮った。

「上に立つ者が賢君か否かは性別を問わない。現に先王亡き後の王妃は正しく国を導いている。それに本当の強さとは、武力による強さにあるのではないと思うが」

 静かに燃える炎と似たカエルムの蘇芳色の瞳に、凍てついた氷を思わせる冷え切った感情が浮かぶ。

「武力や軍事力で他を圧する国は、シレアではない」

「青いねぇ」

 自らを捉えたカエルムの視線から逃げるように顔を背けてなお、男は冷笑を絶やさず煙管を置くと、木箱の上から何かを取り上げた。異様に幅広く長い大剣が鞘から抜かれ、切っ先がカエルムの顔の高さで止まる。

 踏み込みは両者同時だった。

 向こうの大剣が空を斬る。連続で振られるごとに刃鳴りが鼓膜に響き、身すれすれを刃が横切る。これまで動かなかったのはこのせいか。射程が広すぎ、一歩間を詰めれば刃の餌食になる可能性が数段上がる。仲間を切らずに振り回すのは難儀だろう。

「逃げるばかりでいいのか?」

 相手にはまだ変わらぬ余裕が見える。できれば反撃したくないが、さもなければ早晩切られる。大剣をけて降り立ったところでカエルムは剣を構えた。当たる一点を定めようと相手との間隔を測る。

 だがその一瞬、カエルムの視界がぼやけ、刃の向こうにある男の姿が揺れた。

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