2.Pursuing that that flies, and flying what pursues.


その夜は渡風の谷にしては珍しく、しとしととした雨が降っていた。

針を立てたような山々がそびえ、その山肌から下に街が広がっている。エーテル光の看板や水晶板の飾りが目に痛いほど眩しく、人々は時間を忘れて賑やかしく過ごしていた。

「そこのお姉ちゃん、うちのサイハアアル茸は品質がよくて安いよ。ちょっと聞いていかないかい」

「他所で聞いたからいいわ。あ、でもフィジア・アジトの新作の夢は見られる? そしたら考えてもいいけど」

「酒ェ、よりどりみどり。選び放題、飲み放題! 破格の朝まで2ゴルタ!」

「街ゆく人よ、風の声から耳を背けてはいけません。常に我らの心臓は……」

「しけた味してんなぁ、これ」

この街に棲む魔術師はだいたいが風の派閥の出身であり、共通して自由と清遊を愛しているのだった。

表面的な気質の話ではない。形と出自が違えども、魂で似通ったものが集うのは、元素が彼らを選ぶからだと言われている。元素にも意思があり、エーテルにも命があると。

風は自由と清遊を。土は常磐と育生を。水は茫洋と静寂を。星は神秘と探求を。そして、火は熱情と闘争を。

彼、外套を被り、蛇の頭を持つ長い首の人物は、慣れた様子で人波をかわし、縦横を入り組んだ街の裏路地に降りていく。

近所の料理店や香水店、また合法の茸の入り混じった強い匂いが立ち込めるその先には、扉がひとつあった。

木をばらばらに打ち付けたような、いかにも荒屋といった見た目だ。彼は奇妙な調子で下から上へとそれを叩いた。それから、シュッと息を吐き出す。

「……“ネグリン”に目通しを願う」 合言葉を唱えると、すぐに視界が切り替わる。

猥雑で粗末な印象を受ける外とは一変して、その中は主の美意識に従って整えられていた。

色とりどりの薄い織物を重ねた床、いかにも誂えのいい円形の長椅子。

女たちが舞い踊る天井画の中央からは、薄緑の宝石が露のように飾られて、高い柱には大翼の意匠が施されている。

向こうにはテラスが広がっており、緑の雲が浮かぶ薄紅色の空と、穏やかな風が吹き抜ける中で、1人の子供が佇んでいた。

垂れた長い耳は兎のもので、最高級のゆったりとしたローブを身に纏っている。彼が振り向くと、首と手首と問わず重ねられた宝飾品がちゃりちゃりと音を立てた。

「おやまぁ。そりゃまた似合わんの、マギ・フランメット」

「またお気に入りを変えたのか、マギ・クィトアー」

「変えたのではない。新しい風に吹かれただけ。ワシはワシの小鳥たちを、常に平等に愛しておるよ」

「我々の間で、愛に対する見解は今後も平行線を辿りそうだな」

「だろうとも」

風の派閥のマギ、エアドリック・クィトアーは苦笑して肩をすくめる。老獪な仕草だった。

彼が何歳であるのか、何者であるのか、ほとんどの者はよく知らない。ジョアーシアも、自分よりひとまわりもふたまわりも歳上だろうということしか把握していなかった。

ただ、合言葉にお気に入りの女の名前を設定する癖は、今の所変わってはいない。

ここは招かれた者しか辿り着けない城で、エアドリックは夢風宮と名付けていた。

歴代の風の派閥のマギによって受け継がれてきた呪いと祝福に護られており、また、その時の気分や状況によって入り口も、仕掛けも変わる。

気がつけば、まさしく夢のように立ち消える。内密の話をするという一点において、魔の国マゲイア・プロナゴスの中でも有数の安全地帯だった。

ジョアーシアは手を自らにかざし下ろして変装を解き、エアドリックの着席を待って腰掛けた。

表向き、風の派閥のマギは呪いによって臥せっているということになっている。彼は至文廷の議会にも、行うべき行事にも参加せず、自らの名を明かし、姿を現すこともしない。

エアドリックが扱い、買い上げて、あたりにばらまくのは情報や秘密、そして信頼であるからだ。

自由であるということは何よりも責任を伴うもの。そのあたり、彼はよく理解している。そのためなら何でもするので、彼はジョアーシアの話を聞きたがった。

「さてさて。気の毒なマギ・ロシグは忙殺されておる。心臓が破裂した被呪者がおるらしくてな。今回は見送るとのことだった。

マギ・シャントリーは『エクシオヌが輝かぬ』そうだ。こちらはまぁ、いつもの読書病だろう」

「予想はしていた。後で伝えておく。マギ・シャントリーにも、書物にして渡しておこう」

「ああ。それからマギ・ブミ-デメターはとうに到着したのだが、腹が空いてしまったと。

配下の料理屋で飲み食いさせておるが、もう戻ってくる」

その言葉のあとに複雑な鈴の音が鳴り、場に少女が現れる。

「おかえり」

ジョアーシアが言うと、彼女は気恥ずかしげに頭頂部をこつんと叩き、見る見るうちに巨大な男性の姿に戻っていった。

浅黒い肌、鼻梁から突き出た立派な角には、彼の家に伝わる模様が刻まれている。どっしりとした体には黄土色の分厚いローブを纏っていた。

「マギ・フランメット。すみません、重要な話と聞いていたのに」

土の派閥のマギ、サンドル・ブミ-デメターは体を縮めて謝った。相変わらず愚直で腰が低い。他のマギたちの我が強い分、新鮮に思えるほどだった。

「こちらこそ、急に呼びつけてすまない。マギ・ブミ-デメター。こちらにどうぞ」

彼は言われたままに着席した。向こうから人数分のポクラが飛んできて、そこに実に芳しい、ディーネー酒が注がれた。

渡風の谷の奥地で生産されるものだ。いっとういい水と風が材料だと聞いている。

ジョアーシアはこの世の飲食物で最も酒を好んでいた。しかし分別をわきまえてもいるので、礼儀として1杯を飲むだけに留めた。

「色々と噂は聞いておるよ。異界とやらの来訪者、それを呼んだもの、ロズトゥラ局が苦労しておるらしいという話」

「その通りだ。どこから話したものか……マギ・ブミ-デメターは初耳だろうな」

ジョアーシアはかいつまんで3日前に起こったことについて説明した。魔術の根づかぬ星、地球からの来訪者。

ダジアン・エインズリーとヴィオレッタ・ピント。ともに面識はなく、現在は住居を用意し、こちらで保護していること。

「彼らを呼んだであろう背理者の方は、人形遣いと仮称した。自律する魔人形のうち、1体がその姿を記録していてな」

言いながら、ジョアーシアは自らの杖である金の杯をかざし、空間にその記録を再現した。

青い木々の蔓延る森の中。黒い外套を纏った影が揺らいだかと思えば、無機質な仮面をつけた顔が迫る。

その状態で停止させると、エアドリックは顎に手を当て、サンドルは首を動かし、ぐるりと1周するようにそれを見つめた。

「あ……? 何だこれ。生きとるのか、こいつ?」

「いかなる術を生み出したのか、この者はエーテルの痕跡、匂いを抹消している。

心臓が感じ取れぬのもそのせいだろう。我々は全力で調査を進めているが、行方を掴みきれていないのが現状だ」

「はぁ、なるほど。ナーレスの鼻が利かんわけだ、その場合」

「実に忌々しいことに、従来の方法では」

これまでは、どんな禁術を編み出し、秘物エポケを使用したとしても、必ず場にはエーテルの痕跡が残っていた。

全ての魔術師が扱うエーテルには、誰とも混じらぬその者特有の"匂い"がついているし、入門の際にヴィジャラのオプネルボー部によって記録されている。

のみならず、術が展開されている間は大気中のエーテルの濃度も変動する。こちらはラクリモー隊が常に観測しているため、大規模な術があればすぐに分かる。だがあの時はそのどちらも巧妙に隠され、消されていた。

これは挑発であり、脅威だ。

もしこの背理者の力が広く伝播するようなことがあれば、全ての摂理が狂う。法と倫理は荒廃し、向かう先はこの国の破滅だ。

「まぁなんだ。雲の中から手が生え、欲しいものだけはこちらから見えている。それなら簡単な話じゃないか?」

「まさか、マギ・クィトアー。彼らを囮にしようってことじゃ」

サンドルが声を大きくした途端、それぞれの手元のポクラが割れた。

彼は口元をばちんと覆い、その下から「すみません」と呟く。エアドリックが杖──曲剣を取り出して、空間を軽く切り払うようにする。

小さな風が巻き起こったかと思えば、跡形もなく綺麗に片付けられ、向こうからお代わりが飛んできた。ジョアーシアはそれを受け取るが、酒の水面を黙って眺めた。

「難儀な力だの。2度目は勘弁してくれよな。それで?」

「その案も考えた。だが現実的ではない。目的が彼らにあるというのなら、とかく近付けさせたくはないしな」

あの2人に求めているものは何か。命、存在、知識、あるいはもっと得体の知れないものだろうか。きっと分かった時には全て遅い。

「恐らく人形遣いはどのような姿にもなれるだろう。しかし匂いを消すという細工ができるのなら、そここそが弱点でもある。

マギ・ブミ-デメター。あなたには"土の嬰児"を調達して欲しい。各地の路地だけでなく、屋根、家下、下水道に配備し、監視として割り当てたい」

「もちろんです。派閥内の工房で用意できる限りのものを集めます。小さいものだとして、命令の内容は?」

ジョアーシアは机の上に2つの小瓶を差し出した。先日、ダジアンとヴィオレッタから採取した血液だった。

「この血を親に。匂いを持たぬ者、感じぬ者、隠している者。心臓が見えぬ者、感じぬ者、隠している者。それらを全て見通し、報告すること。

それと出会った場合は自らを守り、逃げること。逃げることができぬ場合、自壊すること」

サンドルは頷き、自らの杖の石鼓を抱え、軽く叩いた。サイの形をした半透明の族霊アウテムが現れ、小瓶を咥えると空間をすり抜けていく。

「マギ・クィトアー。あなたには噂を流してほしい。新たな秘物エポケが掘り出された。腕のいい人形職人が居る。旧時代の書物が公開される──そういった類のものを。

おそらく、人形遣いは知識や欲望に対して貪欲な人物と考えられる。益になりそうであれば確かめようとするだろう」

「やってみるがの。となると、それらしい店やら秘物エポケやらの手配も行わねばならんなぁ。贋作師に仕事を与えてやるか」

「そうだな」

ジョアーシアはそこで言葉を切り、中央で固まっている記録の再現に目を向ける。人形遣いのその姿へと。微かに牙を食いしばり、豹の目を強めた。

「それから……最大限警戒してほしい。我々も思いつく限りの手を打つが、それでも充分とは思えない」

白黒つけられ、片方だけ燃やせば解決するような問題ばかりであれば、この世はより正しく運営されるだろうにと常々心の奥で感じている。

それが到底実現しないであろうことも分かっていた。


眠りから目が覚めて、エコロは身を起こした。その拍子に、書きつけた大量の紙が薄い音を立てる。

思考の整理のために使っているものだ。彼はあまり睡眠を優先しない。ゆっくりと休む時間を与えられた時は、考えを巡らせ、まとめてから眠るのが日課なのだった。

特殊な秘物エポケ──ダジアンとヴィオレッタのこと──に対する措置として、エコロには1ヶ月ほどの任務が与えられた。

内容は秘匿。極めて優先度の高い案件であるため、通常の観測・回収業務に当たらず、24時間体制で対応すること。

表向きはそうなっていて、事情を知らない同僚たちにしてみれば理不尽なものに思えたらしい。

「それは……クレエルモはまだ若い。長期ですし、負担も計り知れません。他の者では務まらないのですか?」

「我々の師匠、マギ・シャントリーからの依頼なんだ。なに、私もエコロの支援に回る。この件は任せてほしい」

司令を伝えに来たボテイニスはそう言って、同僚たちを納得させた。師匠からの課題としておけば、確かに怪しまれにくかった。

急に空白の期間ができたので、これまでは秘物エポケの考察が大半だったけれど、近頃は彼らについて考えていることが多い。

ダジアンは肉や野菜を挟み込んだパニスや、クーマターヤ茶が、ヴィオレッタは甘いものが全般──星蜜をかけたガストム、つまめるサイズの小さなセレ菓子が好き。

水晶板で流れる劇は好みが分かれるところ。運動や盤上遊戯も向き不向きがある。一方で2人とも読書は好きで、差し入れた本をよく読んでくれる。

図鑑や魔術機構の解説、はたまた辞書や恋愛詩……そういったものに幅広く興味を持っている。この国の言葉が分かるようにされていたのは、まだ幸いであったのかもしれない……。

彼らがこの地に現れて、もう7日が経とうとしている。

エコロはただ、彼らと共に毎日を過ごしていた。望んだものを差し入れ、たまに出かけ、交流をして……それから人形遣いのことは伏せていた。

自分たちが命を狙われているということを知ったら、彼らは動揺するだろう。できるだけ、精神的な負担になりそうなことは取り除いておきたい。

エコロ自身も、微かな不安を感じている。得体の知れない背理者。ロズトゥラ局ですら手を焼く存在。こんな事態は多分初めてのことだ。

けれどそれ以上に不安なのは、自らの内で煌めいている、知りたいという欲求でもある。彼らのことをもっと知りたい、人形遣いのことも、地球のことも。どういう道理であるのか。

頭を振る。寝間着のまま輪鈴をこすり合わせ、その膨大な思考の山をひとまとめにする。ベッドを整えて、一瞬でローブに着替えると、胸元の身分章フィビュラの位置を調整した。

支度を終え、そろそろと部屋を出る。クレエルモ邸は、いつも耳が痛くなるくらいに静まり返っていて、この静寂は嫌いではなかった。

今の時間は、台所に行っても料理は用意されていないはずだ。外で何か買おうかと階段を降りていくと、吹き抜けになった広間に、人が居るのを認めた。

当主のクレッシウス・クレエルモが、長椅子に腰かけてぼんやりとしている。

エコロは一層背筋を伸ばした。それから近寄っていくと、あちらから彼に気づいた。

整えられた長い金髪。淡く青い瞳は思慮深く、口元にはつらそうな笑みが浮かんだ。眠れなかったのか、寝間着ではなくゆったりとした、正式なローブを身に纏っている。

「……ああ、エコロ。もう出かけるのかい?」

「はい。お父様。こんなところではお体に差し障ります」

クレッシウスは偉大な人物だが、肉体は強靭ではなかった。心機能乖離症候群というのが、呪医の見立てだった。

エーテルを心臓に取り込む、魔術師にとって致命的ともいえる病だ。うまく術式を組み立られないばかりか、不意に発作を起こし、多大な苦痛をもたらすという。

誰かに呪われた訳ではない。クレエルモ家の獣の血統は人の形をしていて、同時にひ弱なところがある。

クレッシウスは若い頃に発症し、そのために星の派閥のマギを辞めざるを得なかった。

「心配はいらない。眠れはしなかったが、今朝は調子がいいんだ」

エコロは黙って頷いた。彼が言うなら、そうなのだろう。そして、こんな時、もし自分が本当に血の繋がりがある子どもであったなら、もっと気の利いたことが言えたのだろうかとも思った。

「朝食は済ませたかい?」

「いえ、外で食べようかと」

そう、とクレッシウスは言い、ゆっくりと立ち上がった。それから振り向いてきて、手振りで促す。

「家のものも起きる頃だろう。作ってもらおう。実は少し、私もお腹が空いたんだ」

また、エコロは黙って頷くしかなかった。


「ドロップ・スコーンズもどき……別名パンケーキの到着」

「ありがとう」

円卓の上に運ぶと、ヴィオレッタはファーカとクルトを取り上げ、それを一口に切り分けて食べた。文化が違っても、食器の形はあまり変わらない。ここでの食事の作法も、もうだいぶ慣れたものだった。

もぐもぐと咀嚼し、口の中を探るように視線を宙に向かわせる。それから、飲み込んだ。

「おいしい。けど、パンケーキっていうより……血の繋がらない親戚って感じ?」

「それじゃやっぱり別人か。焼いてる間は似てたんだけどなぁ」

ダジアンも椅子に座り込み、自らも取り分けて食べてみる。うん、たしかに片鱗だけはあったものの、これではそれそのものとは言えなかった。

粉の風味が大きいのだろう。この穀物は、おがくずを美味しくしたような独特の風味がある。見た目や粉質が小麦粉に似ているというだけでは駄目らしい。

あとは卵の問題か……ジャムが似た風味のものがあれば、あと一歩くらいは近づくかも。そう考えながら食べていると、向こう側から扉が生え、ややあって開かれる。

この家には外に通じる扉や、玄関がない。かわりに十分にプライベートが確保された部屋がいくつかあって、居間の部分でくっついていた。ちょうどふたつの家をひとつに合体させたように。

とにかく、そういう仕組みなので外に出入りする時は、扉を骨墨というもので描いて、身分章フィビュラを鍵にしなきゃいけないらしい。

いつも扉を描くのはエコロの役目なので、ダジアンはやったことがなかった。

「何を作ったの?」

「ドロップ・スコーンズもどき。あっちの料理を再現してみたかったんだ。食べる?」

エコロは皿に盛られたもどきの山に目を向け、頷いた。指を振って1枚を口に運ぶ。見えない手があれこれしてくれるように見えて、便利だなぁ、といつも思う。

「ちょっと思ってたんだけど。私たちって魔術を扱えるようにはならないの?」

「確かに……確かに。俺たち、ここの飲み物も食べ物もいっぱい飲み食いしてるし。エーテルってやつが体に蓄積されてきたんじゃ」

「いや、自然にはならない」

もどきを飲み込んだエコロがそう言って、ダジアンは乗り出していた身をまた椅子に沈めた。

「これは君たちだけじゃなくて、全ての人がそう。出身や家柄に関係なくね。

だから皆、初めに卵の円蓋オヴン・ドムスという教育機関に入門して、魔術を修めるんだ。興味があるの?」

ダジアンはヴィオレッタと顔を見合わせて、それから何度も頷いた。ないわけがない。

小さい頃、スカイと会話をすることや、魔法を使って空を飛ぶことに憧れていた。

祖父母の家に預けられるのは楽しかったが、自由にアイスクリーム屋とか、おもちゃ屋とか、父の元に向かうにはそれしか方法がないと思っていたからだ。

今は、すべての事情が変わってきたけれど、魔術が当たり前にある場所にいる。触れてみたいと思うのは当然のことだった。

「そう……それなら、ちょっと待ってて」

そう言って、彼は声の届かない廊下に出ていく。ちょっとというには、少し時間がかかった。4枚目のもどきに香辛料をかけて食べているうちに、エコロは戻ってきた。

「急に魔術を扱うのは無理だけど、見学するのはかまわないって。僕の予備のローブを出すから、ひとまずそれに着替えてほしい」

2人は歓声を上げた。ワクワクした気持ちで食事を終えると、残ったもどきを保存して、エコロが取り出したローブに着替える。

魔術師は、特製のローブを何着も持っているものらしい。彼が着ているような黄色で、裾を伸ばしたり、逆に短くしたりして、サイズを調整してくれた。

更にその上から、すっぽり頭を覆うようなフードを被せられる。

「後は……そうだな。説明がややこしくなるから、秘物エポケであるということは隠そう」


卵の円蓋オヴン・ドムスは白金の街の中心にある、巨大な3つの立像がそびえた広場が入り口となっていた。

三教者トリマニアという、古代に活躍した魔術師たちの像らしい。近づいていけばいくほど、その大きさに圧倒される。

堂々たる翼を手にした大柄な男性。まっすぐとした角を持つ髪を編み込んだ女性。瞳が……8つもある無性別の人物。彼らが組んだ腕の下が三角形に輝いていて、ダジアンたちは思わずぼんやりと見入っていた。エコロは2人の手を軽く引っ張り、その中に引き込んだ。

一瞬の光が目を覆った後、3人は広々とした庭にいた。ここも空間の鞄などと同じように、ひとつの空間として独立しているらしい。

向こう側には卵型のドームを重ねたような建物が、どこから見てもまったく対称になって連なっている。

庭には丸い花や植物がたくさん咲き乱れていて、それらも完璧に整えられていた。その下には等間隔で、バーチ・ディ・ダーマを縦にしたようなものが並べられている。

お菓子ではないみたいだ。土でできていて、つぶらな目がふたつ。ヴィオレッタがじっとそのうちのひとつを見ていると、それらもじっと見つめ返してくるのだった。

「これってなにかの飾り?」

「いえいえ。土の嬰児といいます。小さいですが働き者で、健気な子たちなんですよ」

いつの間にか、すぐ近くに男性が立っていた。ヴィオレッタと目線が合うくらいに小柄だ。三角形の片眼鏡に空色のローブという装いだった。

まつげが長く、茶色い耳が頭部から突き出ている、恐らく驢馬の血統じゃないかしら。エコロが礼をして、2人に向き直る。

「お久しぶりです。2人とも、この方はデミ・グロンダン・ギロミトリー。

卵の円蓋オヴン・ドムスの教長を勤めていらっしゃるんだ。急なお話ですみません」

「魔術の門戸はいつどんな時にも開かれています。君にも、誰にもね。探究のために学び直すというのもまた、素晴らしいことです。

さてさて。そちらのお2人はクレエルモ家の筋で、少々特殊な身の上だとか?」

「はい、ダムと申します」

「シザーリです」

と、2人はそれぞれに、事前に決めておいた偽名を名乗った。デミ・ギロミトリーは暖かな笑みを浮かべる。

「彼らは先天的な病を患っていて、実技としては、あまり魔術に触れることができないんです。でも、最近見学してみたくなったということでしたから」

すらすらと嘘をついている間にも、エコロの顔色は変わらない。そのためか、不審には思われなかったようだった。

「なるほど……それはご苦労様でした。本日は隅から隅まで案内致しましょう。ぜひぜひ、愉しんで下さいね」

「有り難うございます!」

とても感じの良い人だ。デミ・ギロミトリーは金の4つ脚がついた乗り物、箒を出してくれて、皆それに乗り込んだ。

足がついていても、いなくても、乗り物は箒というのだとこの間水晶板の劇で学んだのだ。

卵の円蓋オヴン・ドムス、通称オヴでは流動的な仕組みを取り入れています。

平均7種類の基礎科目、11種類の応用科目……さらに踏み入った授業でも、出入りは常に自由です。

教堂でしかできないこと、庭でしかできないこと、その時にしかできないこと……得手不得手も多々ありますからね」

その言葉通り、辺りは街中ほどではないにしろ、賑やかだった。

1対1で手ほどきを受けるもの。奇妙な楽器を奏でるもの。箒に乗っているもの。それから大きな魔法円を地面に書いているものなど、様々な人々が、様々な方法で学んでいる。

年齢に関しても、子供や若者だけではなく、老若男女問わず幅広い世代が見受けられる。

ヴィオレッタは学校らしい学校に通ったことがなかったが、ここはとてものびのびとしているのだろうと感じられた。

それらを横目に箒は、白いまっすぐな道を辿っていき、すぐに丸い入り口へと辿り着く。中に入って、ヴィオレッタは唖然とした。

たっぷりとした金色が目に飛び込んできたからだった。そこは長い階段を備えた広間だった。壁から床、調度品にいたるまで、様々な金を繋ぎ合わせ、重ね、塗りたくったようだ。

壁をほんの少し削るだけでも、莫大な値がつくに違いない……そこまで考えて、ハッとする。これじゃあ本当にこそ泥みたいだ。

デミ・ギロミトリーがそれらに向かって手を広げる。

三教者トリマニアの1人、"言霊のクァスール"が遠方の竜を討伐したことに遡りますが、これらの黄金はその血から作られたといわれています」

「へ……え……血? これが全部?」と、ダジアン。

「ええ、ええ。竜は背徳の他、循環を表す生き物です。魔術社会の循環、そして繁栄。

オヴの設立にあたって、竜の卵を象徴に据えることで、意味合いを強めようとしたのでしょうね。

どれだけ長い時を経ても劣化せず、腐食もしない。竜にとっては迷惑な話だったでしょうけれど、彼らの発想には驚かされるばかりです」

ダジアンとヴィオレッタはこわごわと頷いた。愛想笑いをしたらいいのか、どうなのかわからないところだった。

「……エコロ、竜って……まだ居るの?」

「ああ、いや……大昔の話だ。もうこの世界には生きていないと思う。大丈夫だよ、シザーリ」

ヴィオレッタはほっとした。よかった。それなら呪いだとか、竜の生き残りが襲ってくるなんてことはないのだろう。

「こちらの廊下を行けば基礎科目の教堂です。まずはそれらから見ていきましょう。

はてさて、降霊術の授業は特におすすめですよ」

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ポリュフィアの孤独な星 のびらみちとし @novimichi8

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