1.This rough magic.
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ナターレの時期くらい家でゆっくりしてみたいものだわ、とヴィオレッタ・ピントはかじかむ手と手を擦り合わせた。
古着の安いコートは重いばかりでちっとも暖かくないし、家族の団らんを間近で目にするのも愉快とはいえない。
街の空き地に現れた移動式遊園地──そこが今晩の彼女たちの仕事場だった。
「ね。俺、そこがいいと思うんだけど。行ってみようよ」
発端として、言い出したのはジジだった。痩せこけていて、ぼんやりした記憶に残りにくい顔立ちだが、今日ばかりは年相応の目の輝きがあった。
「確かに遊園地だったら、皆浮かれてるしな。隙が多いかも」
同調したのはラニエリだ。髪を切るのが嫌いで、伸ばしっぱなしなのに、いつもどこに目がついているのか分からないくらいすいすい歩く。
「ただ行ってみたいだけじゃないでしょうね?」
ヴィオレッタは2人にそれぞれ釘を刺すようにして問いかけた。いつも現実的なことをいうのは彼女の役目だ。
ジジは慌てて「ち、違うよ!」と声を上げる。図星を指されたと言っているようなものだった。ラニエリが白い息を吐き出しながら付け足してくる。
「でもさ、広場へはヤニクたちが行ってるし、市場方面はガブリエラたちだし、ちょうどそっちは誰も行ってないはずじゃん」
リスクを分散させるために、ひとつの仕事場には2、3人といった少人数で行うことが多い。言われてみれば、他に競争相手が居なければ遊園地は妙案のようにも思えてきた。
「……ふぅん。まぁ、いいけど。じゃあ決まりね」
ヴィオレッタもそう同意した。それが20分くらい前のことだった。決して、行ってみたかったわけじゃなくて。
ジジとラニエリがそれぞれ目配せをして、ある男の財布からコートを抜き取っている。両親は回転木馬に夢中になっている子供にカメラを向けていて、気づく様子がない。
この時期は特に稼ぎ時なのだとマンマ・カルロッタは口を酸っぱくして言ってくる。逆らう気力も起きなかった。
ヴィオレッタは生まれてこの方まともな大人というものに関わったことがない。これまで出会ったどんな大人もそうだった。
親の顔は知りもしない。ピント病院に置き去りにした、母親か、父親かはそれきり行方が知れず、3歳の時に預けられた施設では、まるで囚人のような扱いを受けた。
自由を求めて脱走を図り、それからマンマ・カルロッタに拾われた──その先も落とし穴だったなんて思わなかったが。
彼女は孤児をひそかに集めては窃盗や非行に手を染めさせる、邪悪な鬼婆だった。ただし、料理だけはうまい。
この寒い中をうろうろした後、食事にありつけないのはつらい。だから、ヴィオレッタも気がないながらも、あたりに目を光らせ始めた。
宝石の耳飾りとかは落ちやすいものだし、平和ボケした観光客なんかはさらに狙い目だ。
こんな立場と状況でなければ、確かにここは美しかった。光に溢れ、笑い声とジングルが絶え間なく聞こえるし、お菓子の屋台の甘い匂いも漂ってくる。
船の形をした回転ブランコ、小ぶりな観覧車といった、いかにも安そうなアトラクションですらとっても楽しそうに見える。
だからその分つらいのだけど。
光るものが視界をかすめた。誰かの財布からこぼれ出た硬貨でも、イルミネーションでもない。それは夜風に乗ってふわふわと、人々の頭上を漂うように飛んでいる。
金色の蛾だった。金の中に青が散っている。あんなに目立つのに、誰も目に留める様子がない。
南米の蝶の標本は、状態によってはかなりいい値段になると聞く。しかも、今まで一度も見たことないような蛾だ。
ひょっとしたら、誰かの落とし物を拾い集めるより高く売れるんじゃないかしら。
なんて、虫なんか見つけても、マンマ・カルロッタは納得しないだろうけれど……。
ヴィオレッタの目の前で、蛾は吊り下げられた電球の一つに止まる。急に電球の明かりがチカチカと点滅し始め、それからシャボン玉が弾けるように破裂した。
割れる音と破片に、人々のどよめきが走る。異変はそれだけに留まらなかった。夜の空気を焦がす音がして、そこから火が吹き出た。
電線を伝って火花を散らし、炎は中央にあった、サーカスのテントに引火した。あっという間に、燃え上がる。
電気がショートし、アトラクションの灯りが一斉に立ち消え、夜の空に蝋燭のような炎が天高く伸びた。
非常用のブザーが鳴り響く。一連の流れを見ていたヴィオレッタは唖然として、場から動けずにいた。
気のせいでも見間違いでもない。蛾が電球を燃やした。
それよりも──そんなことよりも、こんなに赤い、めらめらとした熱を感じておきながらどこか美しいと感じている。
その時、急に片手を掴まれて引っ張られる。振り向くとジジがそこに居た。青白い顔が照らされて浮かんでいるように見える。
「もうここはいいよ! 早く行こう!」
うん、と返事をしたのかも分からない。何か急な直感が、ジジの体を咄嗟に突き飛ばさせた。
その直後、燃えるテントの枠組みが、ヴィオレッタの頭上に降り注いだ。
2
それが、彼女が覚えている限りのことだった。それから再び目を開けた後、あの森に居たのだ──五体満足で。
夢とは思えなかった。自分は一度死んだような気がしていた。なにせ、燃え盛るテントが落ちてきた後の一瞬の、身を焼かれる途方もない苦痛も覚えている。
鮮明に。強く。考えていると自然と骨身が震えてきて、ヴィオレッタは深く息を吐き出し、それを打ち消した。
「スィコ茶を飲むといいよ」
「え?」
遠くて、つるりとした青い目と目が合う。目の前の少年、エコロがカップの一方をヴィオレッタに差し出してくる。
お茶はガラスのドームをすり抜けるようにして、彼女の手元に残った。赤紫色の、半透明の液体だった。ふくよかな甘い香りがしている。
「ありがとう……ああ、美味しいな。これ」
口をつけるか迷っている間に、同じように振る舞われたダジアンが先に飲み、そう感想を漏らす。
それで一口飲んでみると、スイカやザクロに似た、甘酸っぱい風味が広がった。清涼感があって、お茶というよりは温かいジュースみたいだ。
食道を通って胸のあたりに落ちていくと、不思議と気持ちも落ち着いてくる。そういえば、ずいぶんとものを飲んだり、食べていなかった気がする。
飲み終わった後のカップは、勝手に空中に浮かび上がり、小刻みに揺れた。身軽になった、とでも言うように。
エコロは自らの、振り分けた金の髪に触れながら、「それで」と呟く。
「自然の中に存在する元素は、エーテルによって形を変える。君たちの話を聞くに、もしかすると、それは門になり得るのかもしれない」
「エーテルとかいうものは何なの?」
「ここに来る時、あの大きな樹を見たでしょう。エーテルは大気中に存在する物質で、魔術の源になる。
あの星雲の樹から放出され、この世界を循環してるんだ。君たちのいた所にはエーテルはないと思うけれど、元素はあるはずだ。
土の中に転がる、火の中に巻き込まれる──死にかける。それが起点で呼ばれたのかも」
「……この、ポリュフィアに?」
ダジアンが、ガラスの向こう側で信じきれていない声を上げた。ヴィオレッタも同じ気持ちだった。
どうやら、ここは地球ですらない──星らしい。
このポリュフィアという星の、大陸の半分に位置する
その中心部にある白金の街、今は治癒院というところに居るらしい。
少なくともここは静かで、白に磨き上げられた一室の中で落ち着けたけれど、まだダジアンとヴィオレッタは、その街並みを実際に見てはいなかった。
ここに連れてこられる時、エコロとボテイニスの計らいで、2人は街の人々から存在を隠されたのだった。
ドームに入れられ、その上から厚手のするするとした布を被せられ、四隅をリボンで留められて。
外からの賑やかしい声や──火花の散るような、泡のような、不思議な楽器のような──そういった色々な音は聞こえてきたけれど。
そのためだろうか、未だに自分たちが別世界にいるなんて自覚は持てそうになかった。多分、数日経っても。数週間経ても。おかしな気持ちになるばかりかもしれない。
ジジやラニエリのことは気がかりだ。目の前で自分が居なくなって、どんな風に思っただろう。マンマ・カルロッタにどんな目に遭わされているだろう……。
「まだよく分かってないんだけどさ」とダジアンが前置いた。
「片道だけっていうのは妙だ。呼べるなら帰せるはずじゃないか? だって誰か……が俺たちを呼んだんだよね?」
エコロは一瞬、迷っているような顔をした。この子は仮面みたいな表情だけど、たまに人間らしいんだな、とヴィオレッタはひそかに思う。
「さあ。僕が把握している限りでは不可能。でも、君たちは実際にここにいる。可能だとして……いったいどれほどのエーテルと術者が必要になるのか、わからないな。
どんな禁術を編み出して、どんな
ダジアンは困ったような、まるで雨に打たれた犬のような顔をした。ヴィオレッタもそうだ。怒りよりも、困惑のほうが強かった。
今まで自分でどうにかしてきた自負がある分、自分で片付けられない問題は苦手だ。じゃあ、もっと、今間近なことで考えなければならないのは?
「……そろそろ、ここから出てもいい? 瓶詰めのジャムみたいなんだもの」
「今、ボテイニスが呪医を呼んでる。君たちの状況を確認したらね……ああ……噂をすれば」
四角い両開きの扉が開き、ぞろぞろと人が入ってきた。ボテイニスという人、金色の制服を着た人が4人。
それから、とても背の高い女性が後から1人。彼女の姿を認めると、エコロは向き直って礼をした。
「楽にして構わないよ、クレエルモ。何から何までご苦労だったな」
「いいえ、マギ・フランメット。ご足労いただき、ありがとうございます」
そう呼ばれた彼女は、炎が燻るように赤い、豹のような目を僅かに細めた。
まとめ上げた灰味がかった白髪にも、顔にもそれらしい斑点模様が見受けられる、頭の上には耳まである。
礼装らしい、深紅の長いコートを着こなした様からは、大昔の奇術師を思わせるような風格があった。
「ドームの中は窮屈でしょう。少々お待ちくださいね」
そう言って近づいてきたのは、金の制服を着た人々だった。彼らが呪医、らしい。
ハイエナのような耳と斑をもった人と、泡を頭にくっつけた……クラゲのような髪の人。
2人ずつ、両隣に立つと、大きな、丸いタコのようなものを取り出してドームのてっぺんにくっつける。
1人が足をいじって角度を調整したりして、もう1人はそれを、重たそうな片眼鏡をつけて眺めた。ダジアンの方にも、同じように他の2人が作業した。
「な、なになになに、何なの。俺あんまりタコは……」
「あなたがたの体内のエーテルに対する耐性を調べています。目を閉じていてもいいですよ、体に触れはしないので」
馬に似た顔の呪医がそう説明し、ダジアンは真っ青な顔で、ぎゅっと瞼を閉じた。ヴィオレッタは裏側からタコの吸盤を見上げていた……円形じゃなくて、菱形だ。
そうしている時間は長くはなかった。数分後、タコは「キュウ」と鳴いて取り外され、片眼鏡の方が筒状のものを取り出す。
金のボタンがついていて、それを押すと平らな紙面が現れた。透けそうなくらい薄いのに、書きつけていく文字はにじんでいない。4人はそれぞれ集まり、紙面を確認しあった。
「うん、どちらも正常値です。これならば、外で過ごしてエーテル不耐症に陥ることはないでしょう」
「よかったな! 今、出してあげよう」
ボテイニスが銀の鎚を空中に軽く振ると、ドームの前面が溶けるようにほどけていく。
ダジアンは足先で探りながら、ヴィオレッタは両手を突き出し、何もないことを確認してから部屋に出た。すると、事態を見ていた女性が前に出てくる。
「改めて。エインズリー君、ピント君。私はジョアーシア・フランメット。
火の派閥のマギで、
差し出された手は人の形をしていて、絹らしい手袋がはめてある。握ると、整えられた滑らかな毛並み、ふっくらした肉球の感覚があった。
それぞれに握手をかわしている間、動揺を顔に出さないようにした。
「あの森での事件は現在調査中だが、君たちは禁術に巻き込まれた可能性が極めて高い。
何者かが君たちを呼び、言語野を弄くり、こちらの言葉を話問できるようにした上、森に放逐し……更に、命を狙った」
考えてみれば、ここが全くの別世界だというのなら、言葉が通じることはおかしい。ヴィオレッタは頷いた。
「理解が出来ませんね。過程も、目的も」と、ボテイニス。
「ああ。まるでばらばらだな……そこで身の安全を確保するため、勝手ながら、君たちの住まいをこちらで手配させてもらった」
ヴィオレッタとダジアンは、顔を見合わせあった。お金を持っているか、という無言のやり取りだった。私は持ってないわ。俺も。
「いや……俺、財布とか吹っ飛んじゃって。持っているのは時計くらいで」
「まさか。徴収しようとは思っていないよ。言うなれば、君たちは客人だ。安心して……というのも難しかろうが、当面はそこで休んでほしい」
ジョアーシアはそう言い、その長い指先を閃かせるようにした。すると2人の目の前に、金でできた紐が現れる。
編み込まれていて、端には印が刻まれていた。恐る恐る、取り上げようとすると、それは手首に独りでに巻き付いた。
マンマ・カルロッタなら喉から手が出るほど欲しがりそう。
「それは暫定的な
そうそう壊れるものではないので、遠慮なく使ってくれ。クレエルモ、案内を頼めるか?」
「もちろんです」
「では、よろしく。私とトニトーロは現場に戻る。何かあれば、直接私に連絡を」
「はい。いと高き火が栄えんことを」
「いと遠き星が輝かんことを」
妙なやり取りだった。挨拶の一種だろうか? ジョアーシアはそのまま踵を返し、ボテイニスは大きな手を軽く振り、その後に続いた。2人の姿が見えなくなると、4人の呪医たちは言葉をかわしあった。
「ああ、マギ・フランメットの隣は緊張するなぁ、やっぱり」
「それじゃ何か後ろめたいことでもあるみたいじゃない、ツフトゥー」
「2人とも、口を慎むように。エインズリーさん、ピントさん。細かい傷があるようなので治癒をさせて下さいね」
「あ、はい」
彼らの治癒は変な感じだった。白っぽい虹色の、太い包帯を服の上から巻かれたかと思えば、5分くらいして、光って暖かくなる。そして、とても痒くなる。しかしその痒みはすぐに収まって、包帯を取り外されるとすっかり元気になったのだった。
「クレエルモ、そういやあんたの方は?」
ずっと黙り込んでいた、羊の角が生えた呪医が問いかけると、エコロは首を振った。
「ああ……いや、もう治りました」
3
「あたし、今回ばかりは愛想が尽きたわ。だってキャバリーノってばひどいの」
「うん」
「私が丹精込めて作った薬を飲んじゃったんだもの。飲んじゃダメって言ったのに。
結果悪酔いしちゃって、大暴れ。部屋はボロボロ。あたりそこら中にゲロとか……あ、ごめんなさいね。食事中に」
「いや、うん。続けて」
ダジアンは、しゅわしゅわとした穀物入りのスープ、ミケコヌの皿をちょっと押しやった。
目の前の、女の子は店員のウーシュラというらしい。熊のような縮れ毛に、愛嬌のある顔立ち。
空いている椅子に腰掛けて、身を乗り出して恋人の話をしてくるのだった。
白金の街は金銀で飾られた不規則な曲線を描く街並みで、風変わりな人々が大勢住んでいた。
箒に乗って空を飛ぶ人々。往来に上がるカラフルな火花。糸を取り上げて服を仕立てる人。嗅いだことのない、料理のいい香りがあたりそこら中に漂っている。
市場は賑やかで、お祭りもかくやという混みように、ダジアンはちょっと気が遠くなるような感覚がした。
そこで他の2人が買い物を済ませている間に、エコロの行きつけの店のテラスで、ゆっくりご飯を食べながら待っていることになった。
店主も店員もいい感じだった。比較的静かな店だし……料理も美味しい。今のところ頭から手が生えたりとか、歯が翼になったりとかもない。
スィコ茶に続いて、クーマターヤ茶というものを飲んだ。よく冷やしたマスカットのような、爽やかな風味がした。
肉の串焼きだけは、何の肉かわからなくて、手が出せなかったが。ウーシュラに聞いてみればいいのだが、質問を挟む暇もない。
「彼のことは大好き。でも前々から、洗濯物を台無しにしたり、やってっていうことを手伝ってくれなかったり、ちょっとおかしいなってところはあったのよねぇ。あたしがうまく彼を制御できないのがいけないのかしら?
お兄さんもそういうことある? 大好きなのに、だからこそ許せないとか」
恋愛経験なんてないんだから聞かないでくれ。内心そう思ったものの、その後で、不思議と脳裏に浮かんだのは母のことだった。
大好きか、そんな風に考えられたらよかったんだけど。
「どうして分かってくれないんだろうとか、そういう苛立ちはあるんじゃないかな。
どんなに言葉を重ねても通じてる感じがしないとか。恋愛に関しては、ちょっと知らないけど」
「あら」 ウーシュラはちょっとびっくりしたような顔をした。「キャバリーノは使い魔よ」
「あ、あー……使い魔……。へえ、使い魔ね。勘違いしちゃったな」
使い魔がペット……家族と同じような感覚なのか、そうじゃないのか分からない。ダジアンは黙り込んだ。今頃、スカイはどうしているだろう。
「そういえばお兄さん、どうやってクレエルモちゃんと知り合ったの?
あの子が友達を連れてきたのって初めてだから、びっくりしちゃった。
どこかの派閥に所属してる魔術師じゃなさそうだし……無所属ってのも珍しいわよねぇ」
「ええと」 更に答えに窮する。魔術師だと嘘をつくのもよくなさそうだ。かといって正直に言えそうにもない。
この国で魔術師でない人がどれほどいるのか、とても珍しいことだとしてどんな扱いになるのか。ここでのタブーに関することなども、何も知らない。
「彼は魔術師じゃないよ」
声がして振り返ると、エコロとヴィオレッタが戻ってきていた。買い物に出かけたはずなのに、荷物をちっとも持っていない。
「おかえり。気に入ったものが見つからなかった?」
「買い物はしたわ。荷物はエコロがしまってくれたの。後で見せてあげる」
ヴィオレッタはそう言いながら隣に座り、エコロも正面に腰掛ける。ウーシュラは「魔術師じゃないって?」とオウム返しにした。
「この人達は、
「あ、いや。すごく美味しいよ」 ダジアンは再び食器を取り上げて、スープを口に運んだ。時間が経ったのに、全く冷めていなかった。
ウーシュラは危惧していたほどのショックを見せなかった。むしろ、つぶらな瞳をきらきらさせて、更に笑みを深める。
「へー、人の形をした
居るものなのねぇ。あ、クレエルモちゃん、何か追加で食べる?」
「ううん、十分かな。また後で呼ぶかもしれない」
「はぁい、ごゆっくり」 彼女はぱちんとウィンクして、階段を降りていった。
その姿を見送ったあと、エコロは卓上の串焼きに手を伸ばす。それから、行儀よくゆっくりと噛み取り、頬張った。
「遠慮しないで食べて。君たちの生活費はマギ・フランメットが保証してくれているんだから。フランメット家は火の派閥随一の名家で、資産家なんだ」
「こういう質問が不躾になったら申し訳ないんだけどさ。何の肉か気になって……」
「ああ。樹の
「意思を持つ樹って、少し妙な感じ」
ダジアンは差し出された新しい串を受け取って、恐る恐る、一口かじってみた。
茸と牛肉が結婚して生まれた子のような味がした。それに、複雑なスパイスの香りがそれに華を添えている。ここの料理は、どれも外れがなかった。
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「ウーシュラ、おつかれ。ちょっと早いけど、もう上がっていいよ」
「はぁい。お先に失礼します。あら、これは?」
おかみさんは、編み込みと飾りが可愛らしい小袋を差し出してきて、苦笑した。
「あんたのキャバリーノに。栄養食だよ。まだ酔いが抜けきってないんだろ?」
「わぁ、ありがとう!」
袋越しにも香ばしい、いい匂いがした。しっかりと両手で受け取って、空間の鞄の中にしまい込む。
おかみさんの料理を前にして、しっぽをちぎれんばかりに振るキャバリーノの姿が目に浮かぶ。
「これできっとよくなるわね。それじゃあまた明日! いと早き風が吹かんことを」
「ああ、いと柔き土が育たんことを」
お決まりの挨拶をして店を出ると、すでに星がきらめき始める時間帯だった。
光の灯る町並みに、昼型の人々の市場は閉められて、逆に夜型の人々が集い、陽気な笑い声がこだましている。
ウーシュラは昼とはまたがらりと変わるこの街の景色が好きだった。朝と夜の区別がないという、風の派閥の本拠地の、渡風の谷も気になってはいるけれど。
自然と、弾むような足取りになる。今日は本当にびっくりすることばかりだった。
キャバリーノの悪酔いが霞んでしまうほどに。あのクレエルモちゃんが友達を連れてきたと思ったら、まさか
どこそこでこういう危険なものが見つかったとか、どういった影響があるとか。
そんな彼らがすぐ近くにいる。ダジアンと、ヴィオレッタという聞き慣れない名前。興味は尽きなかった。
また店に来てくれるかな。もっと彼らの話を聞いてみたい。出身地とか、何ができるのかとか、好きなものは何かとか。
どれもこれも美味しそうに食べてくれたから、彼らの好きそうな料理も出してあげたい。ウーシュラが一番得意なのは甘い料理だ。
星蜜をたっぷりかけたガストムなどは、きっと2人も気に入ってくれるはず。
「うふふ」
まぁ、まずは家に帰って、キャバリーノに栄養食をあげて、残っている食材で適当に夕食を作って……ゆっくりお風呂に浸かって……そういえば、前に頼んでおいた家族からの荷物は届いたかしら。
ふと、ウーシュラは足を止めた。秤の店と、花の種を売っている店の間、細い路地の前だった。
そこは行き止まりになっていて、壁に書きつけられた誰かの落書きがあるだけだった。いつもは。壁の前に黒い何かがうずくまっている。
人だ。
ウーシュラはあたりを見回して、ひとりで飲んでいる、知らない人に声をかけた。
「ねぇ、ちょっといい? あそこに誰か居るみたいなの。一緒に見てくれない?」
「あぁ? どれどれ」
彼は難なく立ち上がって、路地の向こうを覗き込む。まだ黒いものはその場にあって、微動だにしなかった。
「そこの人! 具合が悪いの? オプネルボー部に連絡してあげ……」
急に、それは跳ね起きた。あまりに突然であったので、ウーシュラと男性はびっくりして短い悲鳴を上げた。
とんでもなく細長い。黒い羽根を織り込んだ外套、四肢を突き刺すように飛び出た棘。人の顔があるべきところには木の仮面があり、穿たれた2つの黒い穴が、じっとこちらを見つめている。
目が仮面の向こうから読み取れないのに、そう思った。どこまでも黒い。底なしの渦のような深い穴がそこにある。
ウーシュラは子供のしつけのための脅し文句を思い出した。幼い頃、繰り返し母から言われたことだ。
わがままな根性悪は、仮面をつけた亡霊にさらわれてしまうよ。
体をばらばらにされて、すっかり骨を抜いて、跡形もなく食べられてしまうんだから。
「あ……あ」
うまく言葉にならない。何もされていないのに、全身の毛が総毛立つ。存在自体にずれを感じる。いったい、これは何?
男性も隣で震えていた。しかし、どうにか
するとその黒い影は、一言も発さないまま、足の力だけで跳ね上がって壁の向こう側へと消えていく。
居なくなった。少なくとも目の前からは、消え去って、どこかに行ってしまった。その事実を噛み締め、理解するのに相当な時間がかかった。
「お2人さん、なんかあったの。大丈夫かい?」
じっとしているのを不審に思ったのだろう。酒場の店員や、他の客たちが声をかけてくる。ウーシュラは汗にまみれた額を拭って、首を振った。
もしかすると今晩は……キャバリーノを抱きしめても眠れないかもしれなかった。
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