0.Fools,The way to dusty death.


祖父が作業台に向かっている姿が好きだった。節くれだった指先で、慎重に土台を取り上げ、1つ1つ、部品を組み立てていく姿が。

気が遠くなるような数のゼンマイ、歯車、それにネジ。それらでどんな迷路より複雑な模様を描いたかと思えば、文字盤とガラスが蓋をして、ピカピカの懐中時計を作り出す。

作業台にそっと近寄り、鼻と口を手で抑えながら──呼吸で部品が吹き飛ばないように、その様子を眺めるのが大好きだった。

ひととおり作業を終えたら、祖父は膝の上に抱き上げていろいろな話をしてくれた。

時計のこと。"ラドセトゥラル"というメーカーの名前は、チェコでの生家から取ったということ。

自分のこと。ナチス台頭以前に国外に脱出し、両親ときょうだいと離れ離れになったということ。

第二次世界大戦ではイギリス軍の技師として働いたこと。スコットランド人の女性と出会い、結婚したこと。

空想のこと。空飛ぶ絨毯や、人を眩ませる妖精や、賢い狐のことまで、母が決してしないような話をたくさん。

だから小さい頃は本当に、彼が魔法を使えるのではないか、時間を自在に操ることができるのではないかと信じていたのだ。

もしも時間を操れるなんてことができるなら。戻せるなら戻してほしい、いや、戻りたい。ダジアン・エインズリーはひっくり返りながら強くそう思った。

正確にはひっくり返り、激しく体を打ちつけ、転がり、落下し続けながら。上の方から、愛しいスカイが吠えたてる声が聞こえてくる。

あの子が巻き込まれなかったのは不幸中の幸いであったかもしれない。祖父母の愛犬であるスカイとともに、夕食後の腹ごなしに散歩をし始めたのが、ほんの10分前のことだった。

足を滑らせて、ちょっとした斜面から転げ落ちたのが1分前。彼らの屋敷がある周辺の森は深くなく、危険な場所も無いはずだったが、たった1年来ないうちに変わったのだろうか。

コッツウォルズのチーズ転がし祭りもかくやという勢いで転がり続け、やっと下にたどり着いて、ダジアンは止まった。たっぷりと何m落下したのか、もう分からなかった。

骨のあちこちが砕け、耳元で激しく血液を送り込む音がしていて、口からはごぽりと生暖かいものが吹き出した。冬の吹きすさぶ風がそれをすぐに冷やす。ダジアンの体も。

全く熱心な信徒ではなかったが、この12月25日という素晴らしい日に、幸福がもっとも溢れているであろうこの時に、まさか死ぬことになるなんて。

死ぬ?

「……こんな、なんにもできないまま?」

ダジアンはそう呟いた気がしたが、声になったのかも分からなかった。視界が霞みだす。口の中が血生臭い。ぞっとするほどの恐怖が立ち込めた。まだ死にたくない。

ねじれ曲がった指先でポケットを探ろうとする。ツイードのコートの中に入れていた携帯電話は、これまでの衝撃でどこかに吹き飛んでしまっていた。ちくしょう。

かわりに、ジーンズの方になんとか指を移動させる。もっと冷たくて硬い、懐中時計は、チェーンをつけていたのが幸いしてそこに繋がったままだった。

傷は、ついているのかついていないのかよく見えない。割れたか、壊れてしまったかもしれない。それでもぎゅっと、力の限り握りしめる。

アドレナリンのお陰で痛みこそ誤魔化せていたものの、気が狂いそうなくらい、苦しい──寂しい。

思えばこの19年間、自分自身で何かを成し遂げたことがなかった。いつだって母の存在があって、その丁寧に敷かれたレールの上を生きてきた。自分で道を切り開いたことがないのだ。

今では顔もおぼろげな父が出ていった時も、言われるままに大量の習い事を始めた時も、パブリック・スクールに通うことになった時も、将来何になるかということも。

漠然と、立派な存在になりたかった。けれどそれは、期待に答えようとしていただけで、きっと心の奥底では別の何かになりたいと思い続けていた気がする。

脳が目まぐるしく回転し、最期の思考を再生し始める。こんなことなら散歩しなきゃよかった、いや、もっと気をつけていればよかった。

スカイを置いていくのは辛い、スカイが無事でよかった、祖父さんと祖母さんはどう思うだろう、こんな屋敷の敷地内で、誰かが気付いたら、間に合うだろうか。いいや。

ああ──もっと。もっと、話をしてみたらよかった。

青みがかった、やけに巨大な満月が見下ろしている。瞼を閉じる。見慣れない金色の蛾が辺りを飛んでいたものの、終ぞ、ダジアンはそれには気がつかなかった。


早朝の白ばんだ空の向こう側で、エーテルの光がふたすじ落ちた。

それを観測していたエコロ・クレエルモは、万空鏡から顔を離し、つるりとした、鮮やかな青い瞳をよく眇めるようにした。

光の筋はもう消えている。瞬く間のことだった。時間から外れた流れ星か、星雲の樹から落とされた実か──それとも"落とし物"かもしれない。

ヴィジャラのラクリモー隊として任を負う彼は、そういった落とし物──秘物エポケを確認し、回収する責務があった。

そこは円蓋型の観測室の真ん中で、他にも同僚たちがあらゆる方向を見ていたが、誰も光のことなど口にしない。幸運なことに、たまたま、それに気がつけたのはエコロだけのようだ。

彼は思い立ったらどうにも止まらないところがあった。

ただでさえ、この世界は奇妙なことに満ちているために、それに遭遇したら、実際に、徹底的に確かめてみたくてたまらなくなってしまう。だからこの仕事は"星からの賜り物"だった。

万空鏡を元の位置に戻し、階段を駆け下りていくと、下に居た同僚の1人がやる気のない声を出す。

「あ、おい。クレエルモ、外に出るなら──」

虎の血統。顔の毛並みは手入れされておらず、睡眠が細切れなためか窶れている。手にはアザメタイのフィヨ。

香油でからりと揚げられた魚を挟んだもの。ここから15分ほどかかる店の包み紙。お決まりの朝食。しかし、いつも持ち込んでいるヒュドメル酒が今日に限っては見当たらない。

ほとんど逃げるようにして、エコロは外に出る。すぐに、子どもに酒を頼もうとするんじゃない、と別の誰かが叱っているのが聞こえてきた。

同僚たちの中でとびぬけて若いせいか、どうにもそのように扱われがちだった。

すべての煩わしさを置いておき、広々とした幾何学的な美しさを持つ庭で、手首の杖──輪鈴をこすり合わせる。

しゃじゃりしゃじゃりと重なるような音を広げ、手足に魔力を張り巡らせる。空気の流れを読み、それに乗るようにして彼は空へと舞い上がった。

普段空路は混み合うものの、この時間帯なので、翼持つヴィジャラのコーネオー隊の哨戒や、ペズの郵送、運送が行き交っているだけだった。とても静かで、清涼で、満たされている。

その中を真っ直ぐに、しかし許されている速度のぎりぎりを保って飛んでいく。すると、外にある星雲の樹へと近づいていくことになる。

彼らの命、すべての魔術の源。それは今日も穏やかで、青白いエーテル光を帯びた、白金の枝葉を豊かに伸ばしている。

彼らの属する魔の国マゲイア・プロナゴスは、その恩恵を大いに受けられる森と近しい境界にあった。

樹の存在は不可侵で、近づきすぎることは禁忌とされている。そのため、自律する魔人形が昼夜を問わず交代で見張り、樹と人とを守っているのだった。

ひょっとしたら、あれらも何か確認したかもしれないな。そんなことを思いながら、エコロはふと空中にとどまり、青くさざめく森を見下ろした。

再び輪鈴をこすり合わせると、微弱な音を反響させ状況を聞きとおす。

木漏れ日の元で生活する、無数の樹のめぐみの気配。このあたりに、他の魔術師の気配は感じ取れない。それから──南南東に人の気配。

その場に降りていくと、木々に開けた穴の下に、やはり人間が倒れていた。

癖のある赤毛に、そばかすが散った肌。瞼は固く閉じられていて、眉根も皺を作っている。まるで悪夢を見ているかのように。

年齢は成人して間もなくか、まだか。少なくともエコロよりも上だろう。それに身長も、もっとずっと高い。

緑の首巻き、織り込んだ上着……仕立てのいい衣服はどれも一見してローブではないことが分かる。

魔術師ではない。身分章フィビュラをどこにも身につけていないし、不思議なことに、肉体のどこからもエーテルの気配を感じ取れないのだ。動脈にも、静脈にも。

これは奇妙なことだった。あの光の正体がただの人間というのも、不可解である。だからこそ、より興味が湧いてくる。

いったいどこから、どうやって来たのか。何が起こったのか。飛べないはずの人間が落ちてくる理由は?

心を読みたくなる衝動をぐっとこらえて──手っ取り早いが法に抵触してしまう──、傍らに跪き、脈や呼吸を確認する。

どうやら、気絶しているだけのようだった。エコロは立ち上がり、胸元の身分章フィビュラを手に取った。

ヴィジャラの中枢で司令系統を司る、オプネルボー部へと繋げる。

「こちらエコロ・クレエルモ。森の南南東、コールサ区域で1名不明者を発見」

「クレエルモへ、状況の説明をどうぞ」 すぐに、冷徹な声が応えた。

「ヒト、齢10代後半から20代前半。国籍不明。身分章フィビュラなし。

気絶していますが、生命活動に支障はない様子……それと、エーテルがどこからも感じ取れません」

戸惑ったような沈黙が訪れた。あちら側でオプネルボー部の魔術師たちは、顔を見合わせているに違いない。それほど、めったにあることではなかった。

「それは……不明者の早急な保護を。呪医は必要ですか?」

「いいえ。僕が運んだほうが早いと思います」

報告している間に、エコロは彼の体を宙吊りにして、ドームで包んでやっていた。秘物エポケを回収する際に使われるもので、ある程度までのあらゆる衝撃を吸収する、堅牢、柔らかなガラスでできている。

外からも中からも、変質しないよう守られる。少し考えて、楕円のその上のあたりに空気孔を開け、そこからエーテルが流れ込まないよう魔術をかけた。

もし万が一、彼がこれまでエーテルに全く接してこなかったのなら、急激な空気の変わりように、体が拒絶反応を起こすおそれもあるからだ。

再び輪鈴を擦り合わせようとすると、ややあって、青年の瞼がばちりと見開かれる。緑が散った淡褐色の瞳。ドームを隔て、向こうと目が合う。

「気がついてよかった。体の調子は?」

彼はぽかんとしたまま、答えなかった。エコロを見、あたりの森の木々を見、地に這う苔を凝視している。

長い尾羽根と4本の足を持つ樹のめぐみが通りがかって、そちらを見ても目を剥いた。それから額を覆って、自らの手のひらを見下ろし、何もかもがわからないという顔をした。

「……誓って……変な薬はやってないんだけど。ここは死後の世界?」

「どういう定義かによるけど、少なくとも僕はそう認識していない。君も生きているように見えるよ。痛むところは?」

もう一度問いかけると、彼は首を振った。

「言われてみれば、痛くないな。どこも悪くない……あんなに……ううん。少し、瓶詰めのジャムとか、標本になった気分はするけどさ」

意思疎通は図れている。古くも新しくもない、一般的な魔の国マゲイア・プロナゴスの共用語を使っている。それに、『死んだ』と思うような酷い目に遭ったのかもしれない。

「どこから来たの」と問いかけようとした所で、不意に遠くからの悲鳴が場をつんざく。

少女の悲鳴だった。それも遊びではない、切羽詰まって自然に出たような。そこでようやく、エコロは自分が見た光がふたすじあったことを思い出した。


さざめく森の中で、木々を薙ぎ倒し、しっちゃかめっちゃかに動き回り、腕を振り乱しているものがあった。

自立する魔人形──輝く鉄の骨、飾りと呪文が刻まれた陶製の腕、微笑をたたえた女の顔。樹と人を守るはずのその一群が、今や明らかに1人の存在を脅かしていた。

追われているのは青い顔をした少女だった。迫りくる攻撃を避け、飛び退き、必死で足を動かしているが、追いつかれるのも時間の問題だろう。何もしなければ。

その時のエコロにとって、問題はふたつあった。ひとつめは不明者である青年をどうすべきか。

森の中で何か想定できそうにないことが起こっているようだから、場に放置するわけにはいかない。こちらは単純だ。

「揺れるかもしれないけど、決して落としたりしないから安心して」

「それってどういう──」

エコロが出した答えは、ドームごと一緒に飛ぶということだった。彼は悲鳴を上げ、ドームの中で踏ん張り、身を縮こませ、かと思えば何かに謝りながら、再び気絶した。

ふたつめは、自立する魔人形を止めるには、破壊するしかなさそうだということだった。

樹、人やそれに準じる存在に危害を加えないよう、緻密に編まれた存在である、魔人形がああ狂っているということは完全にその制御呪文がいかれている。

何かによって狂わされている可能性がある。ひょっとしたら故意の、呪いによって。応援は要請したものの、ただ待つことはできない。

理解はしていた。有事とはいえ魔人形をいちどに13体もおじゃんにしては、至文廷での議題に上がるかもしれない──が、エコロに選択肢はなかった。

ドームを一旦、上空に置いておく。それから輪鈴を擦り鳴らし、場に躍り出る。彼の姿を認めた1体の魔人形の頭に手をかざすと、見えざるエーテルの力で、勢いよく首をねじ切った。

無機質な視線が集まり、標的が切り替わる。次々に襲ってくる腕を避け、それらをもぎ取り、体勢を崩した魔人形の頭部を潰したりひねったりする。エーテルの流れを読み取れば、ことは単純だった。

もう二度と動き出さないように。何かに操られないように。それでも破壊し尽くすということは、あまり気分のいいものではない。

最後の魔人形がじっと見つめてくるまま停止した後、エコロはため息をつく。

そして、横薙ぎに吹き飛ばされる。誤算だった。狂っているのはあれらだけではなかった。森の奥から"次"が急に現れたのだ。

それは木々に迫るくらい大きな、樹のめぐみだった。6つに分かれた黄ばんだ瞳、毛深い長い鼻。

長い牙の揃った口からは異臭のする唾液がどうどうと流れ落ちている。太い脚は地面を掻きむしるようにしていて、落ち着きがない。空中で切り返し、全身の痛みに蓋をする。あたりには無数の樹のめぐみの気配がしていた。

これではっきりした。明らかに誰かが禁術を行使している。森の存在を混乱させ、狂わせて、少女を殺そうとするために。

エコロは咄嗟に、恐怖から木にへばりついている彼女を引っ張って空中に飛び出した。それから、すれ違うようにして森の中に突っ込んでいく一群を目尻の端で捉えた。警邏機関・ナーレスから応援が来たのだ。

「いやあ、すまない、エコロ! 待たせてしまった」

声をかけられて横を見ると、ボテイニス・トニトーロの姿があった。豚の血統の男性。筋肉質で、顔の半分を覆うように銀のマスクを身につけている。

思わず、ほっとする。所属と立場こそ違うものの、彼とは同じ派閥で、師を同じくしていた。そのため、個人名で呼び合う程度の仲でもあった。

ボテイニスは腰に手を当て、遙か下方を観察している。激しいエーテルのぶつかり合いが起こり、また、収束する。

瞬く間に森が元の静寂の中に戻っていくのが分かる。エコロはまた輪鈴を擦り合わせようとし、少女が震えていることに気付いた。

涙が浮いた菫色の瞳。黒っぽい巻き毛をタイニアでまとめ、右目の下にはほくろがある。

彼女の指はがっちりとエコロの腕や背中をひっつかみ、痛めつけ、宙に浮いた状態からなんとか安定を取り戻そうと試みていた。

ああ、そうか。彼女も飛べない人なのだ。そういう人々にとって、空中に居続けるということは……実に心もとないことに違いない。

「ボテイニス、僕たちも降りたほうが」

「そうだな」とボテイニスは短く応じ、彼の杖──足元に向けて銀の鎚を振り下ろす。すると集ったエーテルが大きな階段を形成し、木々の下へと伸びていった。身振りでお先にどうぞ、と示され、エコロは率先してそれを降りる。

少女もこわごわと、手すりにしがみつきながらも後に続いた。降りていって青年の入ったドームを引き寄せると、エコロは彼の様子を確認した。ぐったりとしているが、特に問題はなさそうだ。

エコロの隣で、不意に少女はどっと泥のように崩れ落ちた。地に足がついて安心したのだろう。

辺りではナーレスに属する魔術師たちが、樹のめぐみたちを正気に戻す術式を張り巡らせている。また、術者の痕跡をみっちりと追跡しているものの、難航しているようだった。その光景を眺めながら、彼女は口を開いた。

「……あなたたちは、一体何? そこの化け物も。それに、どうして死人をガラスの中に閉じ込めてるの?」

「僕はエコロ・クレエルモ。これは自立する魔人形、あの一帯は樹のめぐみ。本来は人を襲うような存在ではないよ。

それから、彼は──」

ドームの中の青年に目を向けると、たまたまびくりと動いた。無意識の筋肉の痙攣だろう。

「死んでいない。気絶しているだけ……君たちは、知り合いというわけではなさそうだね」

「全然。知らない人よ」 彼女が首を振ったところで、向こうで作業をしていたボテイニスが戻ってくる。

「エコロ。後始末は彼らが引き受けてくれるらしい。魔人形のこともな。

至文廷のお偉方にはつつかれるかもしれないが、まあ分かってもらえるだろう。よくやったよ」

彼はそう言い、その大きな手でエコロの頭をかき混ぜるように撫でてきた。遠慮のない、力強い手。抵抗しても無駄なので、委ねるようにしながら口を開く。

「それはよかった。師匠には……」

「ハハ。大丈夫、あの人はこの程度のこと気にしないさ。俺たちは先に白金の街へ戻ろう。そこのお嬢さんと、お兄さんの状態も気になるし」

「その街は安全なの? こんな人形や怪物や、あるいは別の何かに襲われるようなことはない?」

ぐちゃぐちゃになった髪を整えながら、エコロは少女に向き直った。

「安全だよ。この国の中心だ。理不尽に見舞われて、信用出来ないのは分かってる。

でも、お互いに、情報をすり合わせる必要があると思う。ついてきてくれる?」

少女は暫くの間黙り込んでいた。しかし、ゆっくりと頷くと、青い顔で懇願するような表情を見せた。

「わかった。でも、お願いだから、さっきみたいに急に空中に飛び出すのはやめてよね」

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