比翼の鳥
kou
比翼の鳥
日差しが暖かく感じる空だった。
病院の敷地内にあるベンチに一人の女性が居た。
20代半ば、ショートヘアに日に焼けた健康的な肌をしていた。
細くそれでいて引き締まった体つきはまるで陸上競泳選手そのもの。走る野生を身に纏っていた。
名前を福井絵美と言った。
美絵は病院の敷地内にあるベンチに腰掛けていた。
患者衣の上から、絵美は左股上を触る。
そこにある固い感触を確かめると、美絵は静かに目を閉じた。
閉じた目から涙が一筋流れた。
泣かないために、きつく目を閉じた筈なのに涙は崩壊したダムのように溢れ出すが、涙の跡はその前からあった。
病室の窓から見える景色が嫌いだった。
あの窓辺からの風景だけが自分が見れる景色だと、見せつけられているように感じた。
手術後2日目だというのに、松葉杖を使って病室を抜け出し、あの窓から見える世界ではない所へ出たのだ。
だからせめて、あの窓からではない世界を見ていようと思った。
ふと、二羽の鳥が目の前を通り過ぎた。
目尻で姿をはっきり分からなかったが、寄り添うように飛んでいたようにも思う。見れば目の前にある木の枝に止まって休んでいた。
小さな鳥だ。
何という種類の鳥か分からないが、その姿を見た時、羨ましく思った。
自由に空を飛び回る姿が、あまりにも美しく思えたからだ。二羽の鳥は仲が良いらしく、時折互いに嘴を寄せ合いじゃれ合っていた。
そんな姿を見ている内に、絵美は泣き顔のまま自然と頬が緩んだ。
その笑顔には、もう悲壮感など無かった。
自由に飛び回れないなら、せめて自分の両足で地面を踏みしめていようと決めた。
絵美の顔から笑みは無くなっていた
松葉杖をベンチに置いたまま立ち上がる、そして空を見上げた。
青空が眩しかった。
重心が定まって居ないのか絵美は身体が左右に揺れる。
それでも左脚を前に出し歩き出した。
おぼつかない脚。
それでも左脚を前に踏み出していた。
空を自由に飛ぶことは出来なくても、地を這うことは出来る。
そう思いながら、絵美はゆっくりと歩みを進めた。
一歩目を歩く。
二歩目に右脚を出す。
できた。
これを繰り返すだけなのだ。
こんなことは子供だってできる。
それくらい簡単なことなんだと自分に言い聞かせて、徐々にでも確実に前に進む事を繰り返そうとした。
左脚を前にし体重を預け過ぎると、左膝が折れた。
身体全体が崩壊したように崩れ、絵美はその場に倒れた。
地に身体を打ち付けた。
立ち上がらないと。
絵美は立ち上がろうとするが、左脚は動かない。
当たり前だと絵美は理解すると、右脚に力を入れる。右脚一本で全体重を支え、立ち上がろうとしたが、支えきれずにまた倒れる。
悔しくて涙を流した。
もう一度と立ち上がりかけた所で、誰かの声を聞いた気がした。
気になって声の方を振り向くと、そこには一人の男性が立っていた。
年の頃は20代前半だろうか。
背は高くなく小柄で細身だが、しっかりと筋肉が付いた体つきをしていた。
短く刈った髪に精力的な印象を受ける男性だ。
男性は心配そうな表情を浮かべると、絵美の元に駆け寄ってきた。
絵美は慌てて立ち上がると、左足を引き摺りながらも、その場から離れようとした。
しかし、男性の方は逆に近づいてくる。
やがて、彼は絵美の前で止まると声を掛けてきた。
「福井さん」
聞き覚えのある声で名前を呼ばれたので、絵美は思わず振り向いてしまった。
「石田君」
絵美は男性・石田翼の名を呼んだ。
それは彼女が所属していた実業団のマネージャーの名前だった。
何故彼がここに居るのだろう。
疑問に思ったが、それよりも彼に今の自分の姿を見せたくなかった。
絵美は顔を背けると、翼に対してこう言った。
「私は大丈夫よ」
そんな言葉とは裏腹に、翼は絵美の右に座ると肩を貸した。
翼の手を借り、絵美は再びベンチに腰掛ける事になった。
どうしてこんな事になっているのだろうと絵美は不思議に思った。
絵美はベンチに座り、翼は隣に座っていた。
二人とも何も喋らなかった。
静寂な時間だけが過ぎていった。
「コーチから聞きました。福井さん実業団を辞めたって本当ですか」
最初に口を開いたのは翼だった。
その問い掛けに絵美は何も答えず、ただ俯いていた。
沈黙は肯定を意味していた。
「どうして?」
翼は静かに問う。
それに対し絵美は小さな声で答える。
「走れないからよ」
そんな絵美の言葉を聞いて、翼は納得できないというように首を横に振った。
「聞きました脚を手術したって。でも、まだ諦めるのは早いと思います。手術後のリハビリをしっかり行えば、きっと以前の様に走れる筈ですよ。だから……」
そこまで言って、翼は言葉を詰まらせた。
絵美は涙を堪えながらも、涙が流れていたから。彼女は、左膝を患者衣を掴むと左足首を翼に見せた。
金属のフレームとネジが見えた。
義足だった。
「こんな脚で走れると思う?」
絵美が告げたのは残酷すぎる現実であった。
絵美の左脚の膝には悪性肉腫が出来ており、切除するしか手立てが無かったのだ。切らなければ生存は望めないという医師の判断により、左膝と共に除去されたのだ。
つまり彼女の左脚はもう無い。
走る為の機能を失った。
そんな彼女に翼はかける言葉を見つけられなかった。
「リハビリの邪魔よ。だから帰って」
絵美は素っ気なく言うと、翼は素直に立った。絵美の右横から左に移動すると、絵美の左腕を自分の首にかけて絵美を立たせる。
「ちょっと」
戸惑う絵美を無視して、翼は彼女を立ち上がらせる。
そしてそのまま、ゆっくりと歩き始めた。
まるで介護をするかのように、優しく歩き始める。
そしてベンチから離れると、再び歩き出した。
絵美も抵抗せずにされるがままになっていた。
「僕が支えます」
そう言いながら、翼は絵美を支えながら歩く。
絵美は小さく溜息をつくと、翼に身体を任せることにした。
翼に支えられて歩く道程は、絵美にとって不思議なものだった。
自分が一人で歩いている時は、とても長く感じられた道なのに、こうして翼に寄り添いながら歩くと短く感じる。
それは多分、翼の歩幅が自分の歩調に合わせ歩くからだけでなく、自分の意識とのズレがまったく無いからだと思った。
負荷のない自分のペースで歩いている。
翼は絵美の歩幅に合わせて歩いてくれている。
それが分かった途端、今まで無愛想だった絵美の表情が柔らかくなった。
絵美の顔が笑顔になる。
それを見て、翼もまた笑みを浮かべた。
絵美は鳥が飛び立つのを見た。
先程の二羽の鳥の姿だった。
二羽とも木から飛び立ち、仲良くピッタリとひっついたまま飛んでいた。二羽なのに翼が一対しか無い。
比翼の鳥。
それは、1つの翼と1つの眼しか持たないため、雄鳥と雌鳥が隣り合い、互いに飛行を支援しなければ飛ぶことができないという古代中国の伝説の鳥。
美絵は思った。
こんな風に私も誰かを支えてあげたい。支えられてばかりじゃなくて、今度は私が支えてあげる番なんじゃないか?
暖かくて、あなたを想った。
こんなにも愛しいと思える人に出会えたのは奇跡だね。
ずっとそばで笑っていて欲しいよ。
たとえ何があっても離さないから。
この先も一緒に歩いて行こう。
これからもよろしくね。
二人でいればどんな事も乗り越えられる。
絵美と翼が歩く道には桜の木があり、風に吹かれて花びらが舞っていた。
二人の頭上に舞い落ちる。
その光景はとても美しく、二人は思わず見惚れてしまった。
まるで結婚式の演出にあるフラワーシャワーのように、祝福しているかのようだった。
比翼の鳥 kou @ms06fz0080
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