4.秋葉原に行くと歩くのが早くなる私

「お前って、アキバに来ると歩くのが早くなるよな?」


 そう、私に疑問形をぶつけてきたのは、音楽の師匠であるTだ。Tは、専門学校卒業後に暇を持て余していた私を都内に誘い出しては飲みに連れて行ってくれたりしていた。


 音楽の師匠だけあって、機材を見に秋葉原に行く事もあった。


 そう、私は駆け出しの作曲家であった。シンセサイザーを駆使する作風、よって機材を選びに頻繁に秋葉原に出入りしていた。


「そうですか? 歩く速度は新橋にいる時と変わりませんよ」

「いいや、早い。アキバにいる時は歩く速度が五割増しだ」


 自分の得意分野の事になると饒舌じょうぜつになる性質の私は、自分のホームグラウンドとも言えるこの街が好きだった。どこに何があるか、どの店にお気に入りのメーカーの機材が揃えられているか、どの店に好みのメイドがいるか、どこの店が安くて美味しいランチを提供してくれるか、そんな事は熟知していた。よって、店と店の間で迷わなかった。それが歩くスピード五割増しの要因になっているのだろう。この街で、私に迷いは無かった。


 そして、この街にいる時は、自分に飾りをする必要も無かった。メイクは地味に、服装も控えめで。十センチのヒールを履く事もなくスニーカーで。とにかく、この街はありのままの私を受け入れてくれた。


 この街は、いつも私の心を満足させてくれていた。歌舞伎町で感じた様な違和感や敗北感は無かった。しかし、ここに来ても歌舞伎町で感じた物足りなさの正体は分からなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る