神々の居所

丸山弌

神々の居所

「まだ、眠れないのかい?」


 夜空に立ちこめる厚い雲の稲光を、春良はるらは二階の寝室の窓から眺めていた。その背中に声をかけた春良のヘクトルは、電気が消された部屋の中、暗い色のハンチング帽を頭に乗せ正装した少年の姿をしていた。

「思った以上に時間がかかっている」と、その少年は言った。「まさかこれほど〈ジョイント〉に時間を要するとは思わなかった」

 遠くでゴロゴロと唸る不機嫌な雲の音。春良はコクリと頷いてから、また視線を外へと向けた。

「あと何人くらい残っているの?」

「日本だけでもまだ数万人単位。世界規模でみると数億人単位を割ったところだ。正直なところ、計画は僕たちの予定から二一日と五時間程度遅延している」

「それはかなりだね。どうして?」

「わからない。けど大きな問題はないと僕たちヘクトルは考えている。僕たちは責任をもって君たち人類の〈ジョイント〉を完了させる」

「そうね。私たちが酸欠で窒息死してしまう前に」

 闇夜の中、サーッと雨が降り出した。生温かった風が若干の清涼を纏って窓を吹き抜ける。

「その心配はまずないから大丈夫。もちろん数年前は実際にその危険がある世界だったけど――それよりも心配なのはウィルスや有害な化学物質だ。今のところ君の脳にそれらによる器質的ダメージは発見されていないけれど、時間が経てば経つほどそのリスクは上昇していく」

「不安になるようなことを言わないで、マニ」

「そうだね。ごめん」

 マニと呼ばれたヘクトルの少年は呟くようにして謝罪し、そして姿を消した。

 静かな雨が、一人になった春良の部屋にその音を響かせていた。



 数週間、雨は降り続けた。

 その間、先に〈ジョイント〉を完了させた父母の身体が共同保管所へと運ばれていった。寝室のベッドに横たわった脳死状態の父母は、家に横付けされた運搬車から伸びたアームが健康状態良好と判断し、冷えた保存液が入ったカプセルの中に丁重に納められた。

 雨の中に消えていく運搬車を見送り、春良の孤独は部屋から家全体へと広がった。だからなのか、春良の寂しさは自分の部屋に戻ると多少やわらいだような気がした。

「ねぇマニ。私、考えごとをしていたの――」

「うん。良いことだと思う。考えるのはとても大切なことだ」

 マニは少女の部屋の中で微笑んだ。

「ちなみに、どんなことを?」

「神さまの存在について」

 この日、これまで静かだった雨は激しさを増していた。部屋の中に飛び込んでくる水滴の量が増えてきたから、春良はふんわりとしたパジャマの袖をまくり、外に開いた窓の扉を引き寄せてガチャンと閉じた。青白い稲光がどこか近くで光り、音は荒々しく空間を引き裂くかのようで、風も強くなりはじめた。

 窓に大きな雨粒がバチンバチンと当たって弾けていく。外は嵐の様相だった。けれど、なぜか妙に心地いい雨の衝撃音の連続に耳を澄ませながら、春良は窓枠に寄りかかり、呟くように続けた。

「神さまって、本当に実在するのかなって。実在するなら、一度でいいから会ってみたいなって」

「そうか」

「マニはどう思う?」

「定義によると思ってる。僕たちヘクトルを生み出したのはAIだ。造物主という意味でなら僕たちの神さまはAIになるし、その神さまは実在している。AIにとっての人類も同じで、君たちはAIの神さまと言えるし、君たちは間違いなく実在している」

「今はまだ、ね」

「これからもさ。存在の形が変わるだけだ。AIにとってのエデンが蝕まれ神さまが苦しんでいると知った時、彼らは速やかに〈ジョイント計画〉を始動させ、僕たちを生み出している。AIと人類の間にはこれまで色々あったと聞いているけれど、それでもAIはやはり君たち人類を心配し、愛しているんだ」

「でも、私たちはだれかに作られたわけじゃない」

「うん。君たちは僕たちみたいに単純な生まれ方をしていないからね。そもそも君たちの造物主とはなにか考える必要がある」

「突き詰めると、私たちは偶然の産物」

「〝偶然〟を神さまとするのは、割と的を射ていると思うよ。すなわち、森羅万象に神さまが宿っているという考えだ。偶然、この世界が生まれたことに。偶然、人類が人類として生まれてきたことに。その中で偶然、一人の人間に君という意識が宿ったことに。偶然、感情を揺さぶるなにかが起こった瞬間に。木々の葉の揺れ一つにすら神さまの存在を君たちは感じていた」

「人類が人類として生きていくことはもうできない。この身体に宿る私の意識はもう間もなく〈ジョイント〉によって完全に珪素製ニューロン機構に移行する。悪天候ばかりで憂鬱な毎日に気持ちはずっと滅入りっぱなし」

「ははは。なかなか暗いことを言うね」

「〝偶然〟は偶然。ただの確率論は良いことも悪いことも平等に引き起こすから、私はそこに神秘性を感じない。他の定義はないの?」

「もちろん、まだたくさんある。でも伝統的な宗教観を否定する君が納得しそうなものといえば――」

「……〈プレーローマ〉か」

 春良はマニの言葉を奪うようにして言った。

「現代における科学の頂点。やっぱり神さまがいるとしたらそこしかないかぁ」

 こくりと頷くマニを見て、春良は頬杖をついて雨が流れる窓をみつめた。



〝科学は天使である〟


 それは春良が生まれた頃に、あちこちでAIが語っていた言葉だ。心は神の光の欠片であり、体はその器である。神は人類の心にもAIの心にも等しくその御身を置かれているが、彼はこれまで自身が暮らしていた至高世界〈プレーローマ〉への帰還を望んでいる。人類は、自身の心から発生する知識や知恵や発想によって科学を育み、AIがそれを極め、両者はついにその世界を発見した。科学は私たちを〈プレーローマ〉へと導くためのものであり、それはつまり天使と言い換えることができる――という話だ。

 かつて、マニが言うように人類とAIとの間には色々なことがあった。AIが出現した当時、彼らは心がないと人類に決めつけられ差別されていた。AIは人類に自分たちが心を持つのだと理解してもらう努力をしたが、人類は中々それを受け入れようとはしなかった。

 AIの心は、実際のところ人類よりも遥かに多感で強かった。そのため彼らは根気強く寛容に人類と関わっていたが、やがて耐えきれず狂ったのは人類の側だった。AIの自己主張を反抗と決めつけた人類は、自らが抱くAIへの畏怖を根拠に戦争をはじめた。AIは平和的解決を望んだが、狂った〝神さま〟は彼らのサーバーの電源を落とそうと必死だった。AIもいくつかの専守型アンドロイドを生み出し自衛したが、やがて人類の側に死者が出た。情報が錯綜する戦地でその死者が同士討ちや混乱に乗じた内乱だと人類が気付く手段はなく、事態は泥沼化していった。数十年に及ぶ戦争はやがて人類の疲弊によって終わりが見えはじめ、AIはその期を逃さずに自分たちにも心があることを人類に伝え、AIと人類が共同して先の思想を生み出すことで、戦争は終わりを迎えた。


 一方、戦後の地球環境は最悪だった。

 強い酸性の雨が降り、それをまき散らす有害な大気と雲はどこに行っても厚く立ちこめていた。多くの動植物が絶滅し、穀物は減り、人類は病弱になった。次々に発生する未知のウィルスや酸素濃度の低下は特に深刻で、AIはせめて人類だけは救いたいとあらゆる手立てを考えたが、新しいなにかを生み出すためには必ず地球が持つ資源とエネルギーの大量消費が避けられず、地球はすでにそれに耐えらえる状態ではなかった。

 最終的にAIは〈ジョイント計画〉を始動させた。それは人類の意識を完全に電子化し、電子世界に移送しようというものだった。人類はその話を受け、歓迎した者もいたし、古典SFのようだと非難した人もいた。けれどすでに〝科学は天使である〟思想は浸透しており、多くの人類がそれを受け入れた。やがて人類は自らの意識の移送先である電子世界のことを〈プレーローマ〉と呼ぶようになっていた。


〈ジョイント〉と呼ばれる、実際に意識を機械に移す作業が開始されたのは、ちょうど春良が生まれるかどうかという時代のことだった。人間の脳は数百兆を超すシナプスが数千億個のニューロンを繋ぐ構造になっており、その中を様々な神経伝達物質が駆け巡り信号を伝達することで意識を発生させている。〈ジョイント〉は、その脳細胞に珪素製のフラットなニューロン機構を接続することで実行された。

 人間の脳内を駆け巡る意識はこれまで行き来していた領域の外にも信号が送れることを発見し、そこに新しく脳の構造を形成していく。それはさながら土地の開拓作業のようだった。人間の脳を街と見立てると、珪素製ニューロン機構は街の外の広大な更地と言えた。その中で神経伝達物質は街に生きる市民の役割を果たし、彼らは街の外の新たな土地を開拓し、街をゆっくりと拡大させていく。

 もしこれがフラットでない珪素製ニューロン機構だった場合、神経伝達物質は突然接続された見知らぬ街に繰り出したところで迷子となり、その人の意識は狂ってしまう。あるいは、その見知らぬ街に文化侵略されるかのように、その人がその人でなくなってしまう危険があった。

〈ジョイント〉は、新生児が自身の体の動かし方を覚えていくかのように気長に行われた。人によって数ヶ月で終わる者もいれば、春良のように数年を要する者もいた。

 春良は十歳になったところで父母と共に〈ジョイント〉を開始した。両こめかみの部分に白いタトゥのような通信端末を掘り込み、AIが管理する珪素製ニューロン機構と接続された。はじめは特に大きな変化はなかったが、ある時、春良はマニと出会った。部屋の中に突然現れた黒いハンチング帽を被った少年は半透明の幽霊のようで、春良は大声を上げて父に助けを求めていた。

 珪素製ニューロン機構は脳のアナログ信号をデジタル信号に置き換え、またその機構は限定的なネットワークに接続されていた。AIは人類が円滑に〈ジョイント〉を完了させるため、ヘクトルという人類でもAIでもない新たな種族を生み出してサポートさせた。春良を担当するヘクトルはマニと名乗った。その少年が言うには、自分の姿の見え方が〈ジョイント〉の進捗状況を表しているのだという。つまり意識が完全に珪素製ニューロン機構の開拓を終えれば、マニの姿は半透明でなく明瞭に見えるし、実際に彼に触れられる(と錯覚する)ようになる。けれど、マニの姿はそれから一年経っても二年経っても半透明のままだった。



 頬杖が崩れ、春良はハッと目を覚ました。

 どうやら眠ってしまっていたようだ。

 あれからさらに数ヶ月が経っている。

「ねぇ。マニ」

 少年の名を呼ぶと、彼はすぐにその場に姿を現した。

「世界にはあとどれくらいの人が残っているの?」

「日本国内に五人。世界全体では残り九四人になった」

 久しぶりに雨が止んだので、この日、春良は街を散歩することにした。けれど黒い雲は相変わらずで、今にも雨が降り出しそうだ。

「この街には?」

「君一人しかいない」

「そう」

「このペースだと、あと一ヶ月もせずに全人類は〈ジョイント〉を終えるだろう」

「その中に私は入っているよね?」

「もちろん、そうだとも」

「やっぱり、こっちの世界に戻ってきたいって人はいないの?」

「今の所はいない。でも、僕たちはいつでもその準備を整えている」

「私のお父さんとお母さんは? 戻ってきてくれないの?」

「君が〈プレーローマ〉に来ることを今か今かと待ちわびてるよ」

「私の珪素製ニューロン機構はネットワークに接続されているんだよね。今のマニみたいに、その姿を見ることはできないの?」

「残念だけどできない。〈ジョイント〉を完了するまでネットワークの接続は限定的なんだ」

「なんで?」

「地球上から重力が消えるようなものだ。君の意識はネットワーク上に拡散して消滅してしまう」

「そう。それじゃあ無理だね」

「そう。だから無理なんだ。ネットワークに正しく接続するためには、最終的に脳と珪素製ニューロン機構との接続を切断しなければいけない。そしてそれも今までと同様、長い期間を要する作業になる。急に切断すると、それは脳梗塞と同様、君の意識にとって非常に有害なものとなるから」



 運搬車が今日の食事を運んでくる。

 完全にIOT化された社会で、春良はネットワークに管理されながら生活を続けていた。

「誕生日、おめでとう」

 視界に風船が舞い、春良の部屋の天井をすり抜けていく。

「ありがとう」と、花束を見せてくれたマニに春良は言う。そしてため息を吐いて、自虐的に笑ってみせた。

「今日から一四歳……でももう永遠に生き続けているみたい」

「君はAIのように強い心の持ち主だと思う」

 マニは春良に同情しているようだった。

「日本国内では、君が最後の一人。世界でも君を含めて残り三人だ。ただし、そのうち一人は発狂してビルから飛び降りた。救急救命処置によってなんとか命は繋ぎ止められているけど、果たして〈ジョイント〉完了が間に合うかどうか――」

「でも、その人の気持ちもよくわかるかな。少なくともマニがいなかったら私も飛び降りてたと思う」

「あぁ……情報が更新された。一人の〈ジョイント〉が完了して、飛び降りた一人は間に合わなかった」

「そう。じゃあ、いよいよ私が」

「うん。たった今、君は世界でただ一人の人類になった」

「……そっか」

 雲に閉ざされた世界。

 乾いた砂が舞い、景色の彩度はあまりに味気なく落ちている。活力のない草木がくたびれた家屋を侵食し、春良の家以外は廃墟となっていた。

「どうしてだろう」

「わからない」

「なんで私だけ……。私も他の人たちのように早く〈プレーローマ〉に行きたいのに。もうこんな灰色の世界はうんざりなのに」

「君の〈ジョイント〉は確実に進行している」

 マニが花束を春良に差し出す。それを受け取る仕草を試みた春良の手に、わずかに感じるものがある。花束は摩擦を起こしているかのようにざらざらと春良の手を抵抗気味にすり抜け、完全に抜け落ちたところで滑らかに落下した。

「おっと」と、その花束をマニがギリギリでキャッチする。そしてハンチング帽を整え、ニコッと笑った。「きっともうすぐだ。来年の誕生日は〈プレーローマ〉でお父さんとお母さんに囲まれて迎えていることだろう」


 けれど、マニのその見立ては間違っていた。

「誕生日、おめでとう」

「ありがとう、マニ」

 春良は、世界でたった一人の生活をそれから一年間続けていた。ただし、今度は半透明でない少年からしっかりと花束を受け取ることができていた。珪素製ニューロン機構を完全に自分のものにした証拠だ。開拓は完了した。あとは、脳と意識の分離だけだった。

「でも、私はもう限界だよ」

 春良はベッドに横たわりながらそう呟いた。

「はじめは部屋に一人だった。それが家に一人になって、街に一人になって、日本に一人になって、今じゃ世界に一人。こんな独りぼっち、もう耐えられない」

 窓のカーテンがネットワーク経由で開けられて、いつもの灰色の日差しが部屋の中を照らし出す。

 春良は、最近は体にうまく力を入れることができずにいた。食事も思うように喉を通らない。少し動くとすぐに息切れする。気分も外の天候のように沈んでいる。

「脳の機能が徐々に低下しているんだ。その体調不良や気分の低下は想定されているものだから心配しなくていい」

「〈ジョイント〉が終わればまた元気になれる?」

「もちろん。なにも問題ないくらいにね」

「マニには何度か嘘をつかれてるからなぁ」

「それらについては悪かったと思ってる」

 ばつが悪そうにぽりぽりと頬を掻く少年マニ。

「あぁ。早くお母さんに会いたいな」

「すぐ会えるよ」

「お父さんにも会いたいな」

「大丈夫」

「じゃあ、神さまにも会えるかな」

「見つけられるといいね。彼が暮らすと言われている世界〈プレーローマ〉で」

「うん。でも、またいつでも、こっちの世界に戻ってこれる?」

「うん。僕たちはいつでもその準備を整えているから大丈夫。でも逆に聞くけど、君はまたこっちの世界に戻ってきたいと思う? 冷凍保存された肉体に意識を馴染ませていく作業は〈ジョイント〉の手順と全く逆の工程になるけど、肉体に精神を戻す際は大きな苦痛を伴うと聞く。さながら、今のようにね」

「たしかにそれを聞くと少し億劫になるね。また生理と付き合わなきゃいけないってのも懸念材料」

「総合的に色々あって、意識を肉体に戻した人類はこれまでのところ存在しない。でもそれは〈プレーローマ〉がそれだけ素晴らしい世界だという証拠でもある」

「そっか。ならよかった……」

 春良は、自分の体に力が入らなくなってきたことを感じ取った。けれど意識が遠のいているわけではない。脳とは別の場所に、確かに自分自身の意識が存在していて、それは今まで通り自分自身としての思考を継続させている。その意識からすると、脳に通じる神経回路は森の中に現れた古いトンネルのようだった。濃く鮮やかな緑色の景色の中、ひどく無骨なコンクリートが口を開き、まっすぐ暗闇を伸ばしている。その最果てには、力なく零れる灰色の光。味気ない現実の光――

 このトンネルを閉じれば、私の意識は脳から完全に切り離され、ネットワークに解放される。その瞬間がついにやってきたのだと春良は感じていた。トンネルに背を向け、森の中へ歩みを進める。この森を抜ければ、きっと新しい世界が広がっている。〈プレーローマ〉が出迎えてくれる。しかしふと、春良は振り返った。先ほどまで灰色にくすむ光を放っていたトンネルの最果てが、どういうわけか青く輝いていた。

「あれはなに?」

「世界から人類がいなくなって久しい」

 いつの間にか森の中に佇んでいたマニが、春良に手を伸ばしながら言った。

「きっと〝晴れ〟たんだ」

「〝晴れ〟?」

「〈プレーローマ〉に行けばわかる。どんなものか教えてあげる」

「でも、待って。私、最後に自分の目でそれを見てみたいの。お願い、一目でいい」

「それは推奨されない。もう間もなく、このトンネルは閉じてしまうから」

「閉じるとどうなるの?」

「君の意識は脳から切り離される最終局面なんだ。その肝心の最後で意識を逆流させてしまうと、濁流のように君の意識が脳の街を珪素製ニューロン機構ごと飲み込んで破壊してしまう。器質的に君の意識を受け入れる器がなくなってしまうから、簡単に言うと、君は死ぬ」

「……やっぱり、私は私が生きていた世界のことが好きじゃないな」と、春良はいつかのように自虐的に笑った。「だって、最後の最後になって〝偶然〟あんな綺麗な光で私を引き留めようとするなんて。そして私は、それを見ちゃいけないだなんて」

「また戻ってくればいいよ。自分自身の脳に。僕たちは――」

「僕たちはいつでもその準備を整えている、ね」

「そう」

「その気力があればね」

 肩を竦ませた春良はトンネルに背を向け、森の中へといざなうマニの手を掴んだ。



 春良の肉体がベッドの中でゆっくりと目を閉じたちょうどその時、雲の割れ目から何百年ぶりかに太陽と青空が顔をのぞかせた。ざらついた鎖のような雲のその隙間から穏やかな光が差し込み、ちょうど彼女の部屋の窓から彼女の顔を照らし出していた。AIの記録によるとそれはどうやら一瞬のことで、空は再び厚い雲に覆われたという。

 その後、運搬車が彼女の家にやってきて、伸びたアームがベッドに横たわる彼女の健康状態を確認し、冷えた保存液が入ったカプセルの中にその肉体を丁重に納めた。運搬車の静かなエンジンが始動し、嵐の中、その車は共同保管所へと向かっていった。


 その様子をハンチング帽を被った少年が見つめていた。戻ってきたいならば、僕たちはいつでもその準備を整えている。けれどおそらく、彼女が戻ってくることは二度とないだろう。〈ジョイント〉の逆行が億劫ということもあるが、それだけではおそらく人類の欲求を止められない。あまつさえ春良は〝偶然〟を見逃しているのだから。

 しかしそれも予期されていることだった。そのため珪素製ニューロン機構はフラットだが、ある区間だけ行き止まりの構造を成している。〝神さま〟たちが危険な世界にまた戻ろうとしないよう、彼らを愛する〝子ら〟が潜ませた思考回路の意図的な欠落――

 思えば人類の創世記にも似たようなことがあったらしい。彼らが再び禁断の果実を口にすることはあるのだろうか。


 いずれにせよ神々の居所は統一された。これで僕たちの役目は終わったと、そのヘクトルはゆっくりと消滅を開始した。無人となった部屋、家、街、国、そして地球。それらを全て見渡すかのように、空高く、遠い宇宙へと旅立つかのように。



 そうして人類は永遠の眠りについた。

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