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初めて訪れた絆のマンションは、下町感の漂う門前仲町にあった。川沿いにひっそりと建つ煉瓦造りのそれは、ジブリに出て来そうなレトロな外観をしていた。1階が図書館になっていて、次の休日が待ち遠しくなりそうな物件だった。もっとも、休日らしい休日がない僕にとっては、持て余してしまうだろうけれど。
あまりにも珍しいタイプのマンションだったために、ここまで走って来た僕は肩で息をしながら立ち止まり、まじまじと観察してしまった。
モッズコートの裾から垂れた紐が片方だけが長く伸びてしまっていて、後少しで地面を引きずりそうだった。僕はそれには構わず、息を整えてから、再び急いだ。
図書館の横に備え付けられた真っ青なエレベーターを呼び、ドアが開ききる前に乗り込んで閉めるほうのボタンを連打した。どれだけ押したところで、ドアの動きが早くなるわけではないのだが。急いでいる人間に共通する行動だった。
絆の部屋は605号室だと知らされていた。エレベーター内部の階数の表示が1つずつ上がっていく。年季の入ったエレベーターは、ショッピングモールのそれよりゆっくりとした速度だった。もしもここがタワーマンションで絆が高層階に住んでいたら、きっと僕は絆に迫る危険に間に合わなかった。
エレベーターが6階に到着するなり、僕はまたドアが開ききる前に外廊下へ飛び出した。605号室はその階の突き当たりにあった。
とにかく僕は焦っていて、部屋の玄関扉の前に立ってドンドンとノックしたり、絆の名前を大声で呼んだりした。
いくら呼びかけても部屋の中から応答はない。
僕はいよいよ気が狂いそうになって、ドアノブが外れそうなくらい強く動かした。
すると、拍子抜けするくらい軽く回転し、玄関扉が外に向かって開いた。まず最初にドアノブへ手をかけなかった自分の冷静さに欠けた行動を目の当たりにし、ようやく頭が冷えてきた。
けれど、ドアノブを離した手が濡れていることに気付き、恐る恐る手のひらを見た瞬間、僕はまた体が震えた。
マンションの外に寂しく立っていた街灯の明かりがここまでわずかに届いていて、僕の手のひらに付着したそれを照らした。どす黒く、ぬらっと輝いている。鼻先に近づけると、あの夜と同じ鉄の臭いがした。間違いなくそれは血液だった。
僕はもつれる足を無理やり前に運んで、ふらふらと室内へ入った。中は真っ暗で、暗さに慣れないうちは何も見えなかった。壁にぶつかった拍子に体が跳ね返り、バランスを崩した僕は床に倒れた。
次第に暗闇に目が慣れてきたところで、僕は壁の感触を頼りに立ち上がる。窓から差し込む気持ちばかりの明かりの下に、うずくまっている絆の姿が浮かび上がって見えた。
僕は床に滑り込むような勢いで絆に駆け寄った。
「何があった、無事か」
うなだれている彼女の肩を掴んで揺さぶった。
「橋本くん」
僕の呼びかけに絆はこちらを振り返った。反応があったことにとりあえず安堵する。
「死んじゃったの」
僕は突然絆の口からこぼれたその言葉にどきりとする。大河原の話を聞いてからというもの、生死に関わる言葉を目にしたり耳にしたりすると、どうも過剰反応してしまうところがあった。それが絆に関わることなら尚更だった。
「この子、道端に倒れてて」
僕は気を確かに持ち、もう一度しっかりと絆の姿を目に写した。細い肩越しに見えたのは、長い腕に抱かれて丸まっている猫だった。
絆は抑えていた猫の片耳から手を離した。すると、付いているはずの耳がそこにはなかった。僕が正体不明の不安に取り憑かれていると、絆の唇が開く音がした。
「事故なのか、意図的に誰かにやられたのか、この子耳がなくなってて、血が、止まらなくて」
絶命した今となっては、絆が血を止めるために抑えていたのであろう手をどけても、血液は一滴もこぼれなかった。ドアノブに付着していた血液はこの猫のものだったのだ。
たったいま遭遇した猫に対して、僕は思い入れも何もないけれど、絆の悲痛な訴えを聞いていると胸が痛んだ。できることなら、彼女に降りかかる災難や悲しみを僕が身代わりになって受け止めてあげたかった。
「でも、猫には申し訳ないんだけど、僕は絆が無事でよかったって思ってるよ」
ここへ来て彼女の姿を見るまでは、生きている心地がしなかった。
「ごめん、いきなり呼び出して」
思い出したように絆は、こくんと頭を下げた。肩のところでまとまっていた長い髪がばらけて、猫と僕の間をカーテンのようにシャットアウトした。猫の後を追ってしまい兼ねない様子だった絆は、ようやく僕がいる空間へ戻ってきた気がした。
「いいよ、いつでも呼んでよ」
「ありがとう」
僕たちはそれから、猫を家のすぐ近くの川辺に埋めに行った。まったく風のない夜だった。寒くないのはいいけれど、そんなわずかな違和感すら、今はなぜかとても怖く思えた。それはたぶん絆が僕の手の届くところにいるからだ。どこで生きているか分からない頃よりも、距離が近くなればなるほど、失ったときのことを考える機会が多くなった。
部屋に戻ると、絆は大量に冷凍してあったホットケーキのうち数枚を温め直して、僕に出してくれた。手紙のやり取りをしていたときにこっそり想像していた味よりも、少し甘く感じた。
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PVC新宿 -死ぬほど好きだった人に「殺して」と頼まれた結果- 五味零 @tokyo_pvc
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