第27話 その瞳に魅入られて



 あの日、ノアを召喚してから、早いものでもうすぐ約束の二年が経とうとしていた。


 今思い返してみると本当に様々な経験をした二年間だった。

 今住んでいるこの家にノアの魔法で転移したあの日、私は自分の着ている服さえ満足に脱ぎ着する事が出来なかった。

 脱ぎ着だけではなく、今でこそ当たり前に出来るようになった事が、あの当時の私には何一つする事が出来なかった。


 いつ思い返しても本当に恥ずかしいのだけれど、ボタンすら満足に止める事が出来なかった私は、その度に悔しくて涙が溢れた。でもノアは呆れる事も馬鹿にする事もなく、いつも側で優しく支えてくれた。


 今でこそ一人できちんと服を着る事が出来るけれど、あの頃の名残なのか、今でも私の服はノアが選んでくれている。今でもボタンが多くない服や頭から被って着る事が出来るワンピース等の複雑な作りではない服を用意してくれ、変わらず私を気遣ってくれるそのさりげない優しさに、私はどれだけ助けられ救われてきたんだろう。


 少しずつ身の回りの事が出来る様になった頃、私が一人で買い物に行けるように特訓もした。

 その時に行った可愛い雑貨屋で購入した二着のエプロンは未だに私の大切な宝物だ。

 「似合ってる」、そのたった一言でどれだけ胸が高鳴っただろう。

 そしてその日の帰り道、私はノアから真名と言う“特別”を教えてもらった。そのお返しとは言えないけれど、私も愛称で呼んでもらえる事になった。


 あれからもう何度も呼ばれているのに、ノアが私の愛称を口にする度、私の胸の鼓動は早くなる。その度に私は胸が苦しくて泣きたくなる程の幸福を味わった。


 料理をしてみたいと強請る私に、ノアは嫌な顔一つせず、初心者でも出来る料理を考え一緒に作ってくれた。

 あの日作ったサラダとチーズオムレツは今まで食べてきたどんな料理よりも輝いていて、涙が出るほど美味しかったのを覚えている。


 姿は隠していたけれど一緒に歩いた家までの道のり、一緒に見た様々な景色。

 どれをとっても私の大切な……かけがえのない宝物だ。


 そして、二人で王都で暮らす様になって一年が過ぎた頃、侍女を務めてくれていたノーラとも再会する事が出来た。

 正直ノーラの事はずっと心残りだった。

 でも手放した私が今更何か出来るわけもないと思っていたけれど、ノアは私とノーラをもう一度出会わせてくれた。

 ノーラの思いを聞けて、そしてずっと目を背けて来た事から向き合う事が出来たのは、私にとってとても意味のある事だったと思う。



 この二年、何度も自分の無知さに悔しくて心が折れそうになった。貴族令嬢として培ってきたマナーや教養は、平民として生きていく為に必要な一般常識とはあまりに違い、その殆どが役に立たなかった。

 その事実に悔しくて涙を流してる私に、ノアは何度も根気強く励まし慰めてくれて、私はその度に救われてきた。


 ――ノアが好き。


 想いを自覚してから幾度となく心の中で繰り返したノアへの恋心。

 でも私はこの想いをノアに伝えるつもりは最後までない。

 これからノアに魂を差し出す私が好きだと言ったら、きっと優しいノアを困らせてしまう。

 そうじゃなくてもこの二年、彼に何から何まで手伝ってもらっている私は、せめて最後の時くらいノアの手を煩わせたくはなかった。


 それに……最後は、私の魂を絶対ノアに回収してもらいたい。他の誰でもない、ノアじゃなきゃ嫌だもの。


 二年前の対価を支払うその時がもうすぐやって来る。

 最後は笑顔で今までの感謝を伝えたい。ノアがいてくれなかったら、きっと私は平民として生きる事すら出来ず、すぐに死んでいたと思う。

 それくらいあの頃は世間知らずで無知だった。


 (ノアが好き)


 でも自分の想いを押し付けるつもりはない。

 だって私はノアの幸せを心から願ってる。

 誰よりも何よりも幸せになって欲しい……。


 それに人間と悪魔では生きる時間も考え方も違う。

 これから消えていく私よりノアには同じ種族の人と幸せになってほしい。


「ぃ……おい、リア。聞いてんのか?」

 

 そんな事を考えていると、目の前にいたノアとの話が話半分になっていたようで、ずいっと顔を近づかれようやく意識が戻ってきた。

 

「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていて。……それで何の話だったかしら」

「だーかーらー。いつにする?てかもういいだろ、俺十分待ったし。約束の期間は後数日残ってるけど問題ないよな?」


 そう言われ、心臓がドクンと嫌な音を立てた。私は呼吸が乱れそうになるのを必死で整え、無理矢理笑顔を貼り付けゆっくり頷いた。


「……そうね。もう十分だわ。私本当に幸せだったもの。ノアありがとう、願いを叶えてくれて。……遅くなってしまったけど、約束だもの。いいわ、ノアの好きにして」


 そう言って固く目を閉じた。

 本当は今ここで好きだと叫んでしまいたい。


 貴方を愛してる‼︎

 何処へも行かないで!ずっと側にいて!

 お願い一人にしないで!!


 でもノアの幸せを願ってるからこそ、私には出来ない。

 きつく目を瞑っていると不意に唇に何かが当たる感触がした。

 驚いて目を開くと、そこにはノアの顔が視界いっぱいに広がっていた。

 

「……え」

「なんだよ」

「……わ、私の事、食べるんじゃないの?」

「……だから今してんだけど」

「えっと?」

「はっ……嘘だろ……?」


 ここへ来てようやく、お互いの考えている事に食い違いが生じていると気付いた。

 その後直ぐにノアと話し合うと、とんでもなく恥ずかしい事実が明らかになった。


「あの日、リアが俺のものになるってプロポーズしてきたんだろ?」

「プ、プロポーズ!?私そんなはしたない事してないわ!」

「んだよ、嘘だったのかよ」


 もの凄い機嫌が悪くなったノアに、私は別の意味で心臓がドクドクと音を立てていた。

 あの日私の言った『貴方のものになる』を、あの時からプロポーズとして受け取っていたというの?


「……ノアは、私の事好きなの?」

「当たり前だろ、だから二年間ずっとリアを見守ってきた。てか好きじゃなきゃここまでしない」


 ノアが真っ直ぐこちらを見て伝えてくれるものだから、私は酷く動揺してしまった。こんなに真っ直ぐに想いを伝えてもらった事は今まで一度だってなかった。

 だから私も自分の気持ちに素直になってノアに想いを伝える事にした。


「わ、私もノアの事大好きでっ、」


 言い終わる前に気付けば私はノアの腕の中にいた。


「……リアさぁ、意味分かってる?俺と一緒にいるって事は、“人間としての自分”を捨てるって事だぞ?もっとちゃんと考えろよ」

「私とノアじゃ生きる時間も考え方も違うのは分かってるわ。でも私、ノアといたい。ずっと一緒にいたいの」

「……人間の自分を捨てても?」

「人間の自分を捨てても」

「例え、二度と自由になれなくても?」

「自由になれなくても。ノアがいればそれでいいの」


 抱き締められているノアの手が、僅かに震えているのが分かる。でも私はノアにきちんと伝えなければならない。


「ねぇ、ノア。私貴方を召喚する時に全部捨ててきたのよ。それで手に入れたのがノア、貴方なの」

「……」

「ノア」

「……嘘じゃねーよな?まぁ、もう撤回なんかさせねーけど」

「ずっと側にいてくれてありがとう。大好き」

「リア愛してる。一緒にいよう。永遠に」


 気付けば私達は自然と口づけを交わしていた。

 初めて交わす愛する人との口付けは、こんなにも心を満たし、苦しい程胸が締め付けられるだなんてあの頃の私は知らなかった。

 ノアに抱きしめられながら彼を召喚した日を振り返る。



 あの日。ノアを召喚した時から、きっと私はこの悪魔の赤い瞳に自分が映りたいと願っていたのかもしれない。

 私は全てを捨てたけど、不思議と後悔はない。だって……、


 ノアがいい。ノアがいればいいの。

 私の本当の願いは、ようやく叶ったのだから。



 この時の私は、ようやくノアと想いが通じ合った事に酷く舞い上がっていた。

 だからこそ気が付かなかった。私を愛していると抱きしめてくれたノアの瞳が、普段よりも更に濃い赤色に変わり怪しく輝いた事も、彼の口元が歪に歪んだ笑みを浮かべていた事も。

 幸せな私は何一つ気付かなかった——。

 

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