第17話 未来へ馳せる思い
「あの、ここは……どこなのでしょうか?」
「あー……王都の平民街だ。アリアは平民の生活を知らないって言ってたから、いきなり王都から出る生活はキツイだろ?……嫌だったか?」
何故だろう。一瞬ノアの頭の上に垂れ下がった犬の耳が付いているように見えた気がしたが、気のせいだと思う事にした。
「いえ。気遣っていただいて本当に感謝しています。ノア、改めて本当にありがとうございます。あの、でも一つお聞きしたい事があるのですが……」
「なんだ?やっぱり部屋が狭いのか?」
「い、いえ!そうではなくて。そうではなく、むしろその逆で……あの王都の皆さんはこんなに立派なお家に住まわれているのでしょうか?」
私はこの部屋に来てからずっと疑問だった事をノアに聞いてみる事にした。何故なら今いるこの部屋は、私の住んでいた侯爵邸の自室より広くて豪華絢爛だったからだ。
ここが王族の部屋だと、そう説明されても普通に納得してしまうような広さと豪華さがあった。
いくら私が世間知らずだと言っても、これは流石におかしいと分かる。
「そうか?みんなこんな感じのところに住んでるけどな。アリアの情報が間違ってるんじゃないのか?」
ノアは至極真面目な表情で言うものだから、もしかして本当に私の知識が間違っているのかもしれない。
だって彼は私より王都の暮らしを知っているみたいだったから、きっと私の知識が間違っているのだとなんだか恥ずかしくなってしまった。
「じゃ、今日からアリアは平民って事で。生活のサポートは俺がするから、何かあったら隠さず言えよな」
「っ!はい、これから二年間どうぞよろしくお願いしますね」
「おー。平民の生活は大変だと思うけど、まぁ頑張れよ」
そう言って何故かノアは私の手を取り手の甲にそっとキスを落とした。
「っ!?」
突然の事態に私は慌てて手を引こうとした。でも逆に引き寄せられ、彼は妖艶に微笑んだ。
「……おまじない。平民として、きちんと暮らせるように」
「あっ、そ、そうですわね」
一体何がそうなのか。この時酷く動揺していた私は、今自分が何を言っているのかすらよく分からないまま、ただ頷く事しか出来なかった。
「あ、それといつまでも敬語だとやりづらいから普通に話してくれ。俺は初めからずっとこんな感じで話してるし」
「そうですよ……ではなくて、わかったわ。これからよろしくね、ノア」
たった数刻で世界がガラリと変わってしまった。ほんの少し前まで貴族だった私は、今から平民として自分で生きていかないといけない。
しかも横には禁忌とされる召喚された悪魔と共に。
他の人だったら、この状況に不安になったり今後の自分の未来に悲観したりするのかもしれない。
でも何故だろう。今の私はこれからの生活に心を弾ませていた。
“平民として生きていく”
それは貴族だった私が想像しているより、ずっとずっと過酷なのだと思う。
今はまだ漠然とした事しか分からないし、平民になったと言っても家に到着しただけだ。
この先決して楽しい事、幸せな事ばかりではないのは世間知らずの私でも分かる。でもそれは貴族の時も同じ事。
例えこの先の未来が私が想像するより過酷な日々だったとしても、今の私は駒として使われる貴族令嬢でも、ましてやお飾りの婚約者でもない。
“自分の意志で決め、自分の力で生きていく”
生まれて初めて自分の意思で願ったこの現状に、私は初めて心からの喜びを感じていた。
目の前にいるノアに向き合い視線を合わせる。
私のこの思いが少しでも届くように。
「……ノア」
「ん?どうした」
「ありがとう。本当にありがとう」
私は今伝えられる精一杯の感謝をノアに伝えた。
そして私達が王都へ移動したのは明け方近かったので、この日はこのまま休む事にした。
悪魔召喚で決して少なくない量を流血させた私は、自分でも気付かないうちに相当疲労していたみたいだった。
部屋の使い方の説明を一通り受け、ノアが部屋から出てすぐにベッドに横になった。そこからの記憶が正直なかった。
本当に深く寝てしまっていたようで、次に目が覚めた時はやけに外が明るかった。
慌てて飛び起き慣れない服を着るという作業に苦戦しながらなんとか身支度を済ませ、私は早足で事前に教えてもらっていたノアの自室へ向かった。ノックをしてから扉を開けると、優雅にソファーに腰掛けお茶を飲む彼がいた。
その姿を見て本当に一瞬、ノアに見惚れてしまった私は、すぐに現実に戻り慌てて彼に声をかけた。
「ノア、おはようございます」
「おはようアリア。ゆっくり休めたみたいだな」
「はい、お陰様でこんなにぐっすり眠ったのは久しぶりです」
「アリア」
ノアに手招きで呼ばれた私は素直に彼の座るソファーの側まで向かう。そのままどうしていいか分からず立っていると、ノアは突然面白そうに笑い出した。
「ははっ、ボタン掛け違えてるぞ」
「っ!?」
ノアに指摘され、初めてその事に気付いた私は慌てて自分の服装を確認した。
指摘された通りボタンが一つずつ掛け違えていた。
部屋を出る前に鏡で確認しなかった為、全く気付かなかった。
慌てている私にノアが手を伸ばす。
「笑って悪かった。ただ何でも出来そうなアリアがボタンを掛け違えているのを見て意外だったんだ」
そう言って頭を撫でてくれるノアはきっと、私を幼子か何かだと思っているのかもしれない。
あまりの恥ずかしさに俯いていると、頭上から優しい声がした。
「なぁ、アリア。誰にも失敗はある。今後、今みたいにボタンを掛け違える事もあるだろう。でもさ、」
そこで一旦言葉を切ったノアは、私の顔を覗き込むように目線を合わせ、優しい赤い瞳の中に私を映し言葉を続けた。
「例え掛け違えても、失敗してもいい。けど逃げちゃダメだ」
「……え」
「失敗した事をそのままにするんじゃなくて、俺と一緒にどうして失敗したのかその度に考えてみよう。何度失敗してもいい。だけど失敗から目を逸らしてはダメだ」
「……ノア何を」
「じゃないと平民の生活、いつまでも覚えられないだろ?」
そう言ってふわりと微笑んだ彼は、そのまま自然と私をソファーへエスコートしてくれた。
「ボタンはボーッとしてる時に間違う事あるよな。まぁ、俺もたまにやるからそんなに気にすんなよ。アリアお腹空いただろ?今持ってくるからちょっと待っててくれ」
そう言ってノアはどこかへ行ってしまった。
それから私はノアの帰りを待ちながらボタンの掛け違いを必死で正していた。
そして先程のやり取りを思い返す。
彼は……本当は何を伝えたかったのだろう?
確かに失敗した事をそのままにしていたらいつまでも成長はしないし、覚える事も出来ない。
先程のノアの言葉は、これから平民として独り立ちする私にはとても重要な事だとも思う。
でもノアが本当に伝えたかったのは何だか別にある気がするのだ。
彼の本当に言いたかった事が、今の私には分からないしノアの本心がまるで見えない。
悶々としながらも必死で指を動かし全て正した頃、ノアがタイミング良く戻ってきた。
そしてその両手には軽食が乗っていた。
「テキトーに持ってきたから食べれる物だけ食べてくれ」
「ありがとう」
そう言って差し出された食事は不思議とどれも私の好物ばかりだった。
ノアは不思議だ。
用意してくれたこの家も衣服も、今こうして持ってきてくれた食事全てが私の好む物ばかりだった。
不思議に思っている事が顔に出ていたのか、ノアが不敵に口角を上げた。
「俺がアリアの好みを知ってるのは何も不思議な事じゃない」
そう言って横に並んで座ったノアは、私に紅茶を差し出しながら言葉を続けた。
「俺を召喚したのはアリアだろう?」
そう言われ、確かに彼を召喚したのは自分だとその言葉に頷いたが、それでも疑問は残る。
だから私はノアに聞いてみる事にした。
「でも、悪魔は召喚者の好む物を全て把握出来るものなの?」
「いや、おれが特別なだけだ」
さらりと凄い事を言うノアに呆気に取られていると、彼は悪戯が成功したみたいに面白そうに笑った。
少し前は“悪魔”と聞いて想像するのは、残虐で人の不幸を何よりも楽しむ姿だったのに、ノアには全くその残虐さや非道さを感じない。
むしろ私達人間よりも親切なのではないかとさえ思う。
「とりあえず、これ食ったら身の回りの事から練習するか」
「ええ、一日でも早く自分で出来る様に頑張るわ」
それからノアと静かだけれど嫌じゃない静けさの中食事を済ませ、身の回りの事から一つづつ練習していく事になった私は、まずはお風呂の使い方をノアに教えてもらった。
この家に来た時に一通り教えてもらってはいたけれど、やっぱり再度教えてもらう事でより頭に入った気がした。
その夜初めて自分1人で挑戦した湯浴みは、やっぱり上手くいかなくて。
悪戦苦闘しながらも何とか一人でやりきった時は、今までにない強い達成感を感じた。
私にも出来る事はある。
その事実に涙が出るほどの喜びを感じた。
正直、自然に出来る人達とはまだまだ差がある自覚はある。
それでも、今の私には“一人で出来る”その事実が何よりも嬉しかった。
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