第10話 覚悟
アイザック様と別れ、先程通ってきた廊下をいつもより早足で進む。
一秒でも早く早く自室に戻りたかったからだ。それなのにどれだけ早く足を動かしても、自室までも道のりが異常に遠く感じた。
早足で歩く私も、ノーラも終始無言だった。きっとノーラは私に聞きたい事があっただろう。
先程のアイザック様との会話も、部屋の隅に控えていたノーラには全て聞こえていただろうから。
それでも今は何も話す気になれなかった。
長い廊下と階段を登りようやく自室の扉の前まで来た私は、一歩後ろを着いてきていたノーラに声をかけた。
「ノーラ、悪いけどしばらく一人にしてくれるかしら」
「……かしこまりました。何かあれば遠慮なくお申し付け下さいね」
「ええ、ありがとう」
扉が閉まりノーラの足音が遠ざかるのを確認した私は、急いで鍵を掛け隠していた本を机の引き出しの二重底からそっと取り出し、本の背表紙を優しく撫でる。
この本はどこか不思議で、こうして触れているだけで心が落ち着いてくるような気がするのだ。
そしてあの初めて目にした時から、ずっとこの本に導かれているような気がしている。
ただ私のそうであってほしいという願望なのかもしれないけれど、まるで自分ではない他の何か……別の意思が絡んでいるような感覚がするのだ。
ただ言葉で言い表すのは難しく、本当に直感でそう感じただけに過ぎないのだけれど。
昨日一通り読んではいたけれど再度入念に読み返す為、中を開いて一文字一文字を指でなぞる。
この本によると魔法陣は一寸の狂なく記載されているものと同じものを描く事。そして悪魔の渡り賃として、召喚者の血が必要だと書かれていた。
更に呪文を一文字でも読み間違えると命の補償はないと書かれていた。
(悪魔を召喚すると決めたはいいけれど、万が一失敗したら死ぬかもしれないのよね)
失敗した場合を考えていなかった私は、ここへ来て一気に不安が押し寄せてきた。
こんな命懸けの事を“自由になりたい”と言う気持ちだけで軽率に決めてもいいのか、迷いが生まれてしまっていた。
本に挟まっていた紙に視線を移し、書かれている言葉を心の中で再度復唱する。
『捨てる覚悟があるのか』
走り書きのような文字をそっと撫で、この文字を書いた人を想像してみる。
きっとこの人も召喚するのか随分悩んだのかもしれないわ。そしてこの言葉は、私が考えているよりずっとずっと重いのかもしれない。
「……覚悟」
先ほどまではかなり意気込んでいたけれど、私にそんな大それた覚悟なんてあるのだろうか?
例えこのまま、見て見ぬふりをし今まで通りの生活を続けても、きっと上手くなんていかない。いつか綻びから裂け目が生まれ、気付かないうちに大きくなりやがて取り返しのつかない事になるかもしれない。
それにアイザック様の胸の内を知ってしまったのに、今更知らないふりなんて私には出来ない。
「そうよ。私はもう、振り返らないって決めたのよ」
すぐ二転三転してしまう自分の心を今度こそ覚悟で固め、私は今夜の為に再度本に目を通し入念な準備を始めた。
私は、アイザック様達の為だけに自分を犠牲にする訳じゃないわ。
これは、私が私の幸せの為に選ぶ道なのよ。
屋敷の人間が動いている間は下手な動きが出来ないので、真夜中になるまで出来るだけいつも通りの生活を意識した。
そして久しぶりに食堂で父と夕食を共にしたけれど、やはりいつも通りの光景だった。
「アリア、今日アイザックが屋敷に来そうじゃないか。何も変わりはなかったのか」
「……はい、私の体調を心配してわざわざいらして下さったようでした。体調が回復したら一緒に出掛ける約束もしました」
「……そうか。ならいい」
そう言って微笑む父は、あの日婚約解消をしたいと言った私が諦めずアイザック様に直談判しなかったか確認したかったのだろう。
(心配しなくても、そんな事しないのに)
父に、私という人間は見えているのだろうか。たった一度でも駒としてではなく、娘として見てくれた事があったのだろうか。
また暗い思考に引きづられそうになる心を、無理矢理持ち上げ出来るだけいつもと同じように食事を摂る。
(どのみち成功しても失敗しても、こうして顔を合わせるのはこれが最後になるのよね)
「あ、あの、お父様!」
そんな風に思ったからか食事を終え退出する父に、気付けば私は声をかけていた。
「!どうしたんだアリア。大きな声を出すなんて、いつものお前らしくないじゃないか」
そう言った父は普段は無表情なのに、この時ばかりは僅かに目を見開き私という存在をはっきりと目に写してくれた様に感じた。
(何だか今日は生まれて初めてお父様の人間らしい表情を見た気がするわ)
「……」
「本当にどうしたんだ」
無鉄砲に呼び止めたから、言いたい事が纏まらず言葉が出てこない。それでも父に、今この瞬間に伝えたいと思った言葉があった。
「……ありがとうございます」
「アリア?」
「お父様、私幸せです」
精一杯の笑顔で父にそう伝えた。愛情は貰えなかったけれど、何不自由のない恵まれた生活をさせてくれた。
私は確かに幸せだった。そんな思いを乗せた言葉が父にも伝わったようで、父の表情が更に柔らかいものに変わった。
「ああ、お前は幸せになれると信じてる。何も問題はない、大丈夫だ」
「はい、お父様」
思わず涙が溢れそうになる。でも私は今まで培ってきた令嬢としてのプライドで流れそうになる涙を必死に押しとどめた。
父が……いつも無表情なあの父が、ほんの少し柔らかく微笑んでくれた。
その笑顔が見れただけで、もう十分だった。
お父様、親不孝な娘でごめんなさい。
私は自分勝手な女なのです。だって自分の幸せの為に、侯爵家を。お父様を。私の全てを捨てるのですから。
どうか、どうか、私を許さないで——。
―*―*―*―*―
父との最後の食事を終え自室に戻った私はノーラに手伝われながら湯浴みを済ませ就寝の準備を始めた。
鏡台の前の椅子に腰掛け、ノーラに髪を梳かしてもらいながらこの後自分の取る行動を考えていると、ノーラが嬉しそうに口を開いた。
「お嬢様、私少し安心しました」
「安心?」
「はい。昼間アイザック様がいらっしゃった時は顔色も悪く心配していたのですが、先程の旦那様とのお食事の時からお嬢様何か吹っ切れたようなスッキリしたお顔をされていたので」
「ええ、そうね。私吹っ切れたのだと思うわ」
「お嬢様の心の曇りが少しでも晴れたのならノーラは嬉しいです!」
「本当にノーラには感謝しているわ。貴女のその明るさに何度も救われたもの。ありがとう、ノーラ」
「きゅ、急に改まって言われると照れ臭いですね!!」
そう言って顔を真っ赤にさせたノーラはふと真剣な顔付きになり、意を結したように両手を胸の前で組み静かに話し始めた。
「私では……お嬢様が抱えていらっしゃる全てを理解する事は出来ません。それでも!……それでも私はいつだってお嬢様の味方です。どうかそれだけは忘れないで下さい」
「ノーラ」
「出過ぎた真似だと承知しています。でもお嬢様は私にとってのかけがえのない光なんです。お嬢様が私を拾って下さった三年前のあの日から、私の中心はお嬢様なんです」
「……そんな風に思ってくれていたなんて知らなかったわ」
「少し前までは、私もこんな風に心の内を言うのは恥ずかしいと思っていたんですけどね。それでも伝えずにはいられませんでした。私じゃ何の役に立たないかもしれません。それでも私はお嬢様の侍女として、お嬢様を敬愛している一人の人間として、ずっと味方だと心の片隅で良いので覚えておいていただけると嬉しいです」
「……ありがとうノーラ」
「え、お、お嬢様!?」
気づけば私は後ろを振り返りノーラを抱きしめていた。
慌てているノーラを無視してしばらく抱きしめていると、諦めたのか腕の中のノーラは静かになった。
「ノーラ、本当にありがとう。こんなにも私を慕って、大切にしてくれて。ノーラが大好きよ」
「お嬢様……」
「……さぁそろそろ休みましょう?今日は貴女も疲れたでしょう?ゆっくり休んでちょうだい」
そう言って抱きしめていた腕を離し、作り笑顔なんかじゃない、本当に心からの笑顔でノーラに微笑みかけた。
そしてベッドに横になり、ノーラが部屋から退出する。
ノーラ、貴女の気持ちに答えられなくて本当にごめんなさい。
私は決して貴女が思うような出来た人間じゃないわ。
自分がこの状況から自由になるために私は全てを捨てるんだもの。
ねぇ、ノーラ。
私を軽蔑してもいい、嫌いになってもいいわ。
でもどうか貴女は、その真っ直ぐで明るい優しい貴女のままでいてね。
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