黄昏サラウンド




「あれが、アッシュ・グラントねぇ」


 死と隣り合わせ、死闘の最中さなかもショーン・モロウはまだまだ余計なことを考える余裕がある。


 肩越しに訝しげな表情で魔導師を見送ったショーンは、それがかつての<宵闇の鴉>であるということに違和感を覚えたのだ。シェブロンズに姿を消した魔導師。皆がそれをアッシュ・グラントだと云うのならば、それは事実である筈だけれども、でも<宵闇の鴉>が<外環の狩人>ではなかったという事実は聞いたことがない。


 何かが起きている。

 先の大崩壊といい、これまで鳴りを潜めていた始祖が暗がりから這い出てきたのもその兆しなのだろう。何にしても、それもこれも聞き出すには目の前の赤毛の始祖を、ふん縛らなければならない。


 振り返りざまレジーヌの姿を視界の隅に捉えたショーンであったが、吸血鬼共に群がられてはいたがは大丈夫だろうと、そのままアレクシスに視線を戻した。


「さて、アレクシス。ちょっと時間も押してきているから本気でいくぜ」

「あら、今まで本気ではなかったと云うの?」


 そう云ってアレクシスはエストックの切っ先を優雅に振り上げショーンに向ける。今やあちこちで空を焼く赤々とした家屋の延焼が、振り上げる軌跡を赤くなぞる。


 「おうよ」と、ショーンは変わらず人懐っこい笑いを零すと、両手の二振りを鞘に戻すと、それを地面に放り投げた。


「あら? まさか徒手空拳で?」

「まさか」

 そう云ったショーンが両手を軽く開き、腕を交差させ胸の前で振り抜くと、それをなぞるように青い粒子が流れ、二振りの黒鋼の片手半剣バスタードソードが握られた。


「やっぱり普通の剣だと軽いんだ。その剣は形状が好きで腰にぶらさげていたんだよ。ほら、俺はお洒落と味には煩いから」


 二振りを肩に担ぎ軽口を叩いたショーンは「さ、待たせたな。いつでもいいぜ」と、顎をくいっと上げて見せた。


「気に食わないわね」

 そう云うとアレクシスは目を細め、ゆっくりとショーンに向かって歩き始めた。

 ショーンは右の一振りをくるりと回し正眼に構え、左を突き出し、それに間合いを合わせる。


「なんだって狩人の男と云うのは、こうも無礼な人しかいないのかしら」

 その言葉に合わせ鈍い金属音が鳴り響く。

 アレクシスが正眼に構えたエストックでショーンの刃を撃ちつける。


「いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも!」


 屈辱に顔を歪めたアレクシスから放たれる刺突が、低く鈍い金属音を六度鳴らし、言葉を追いかけた。

 余裕を見せていたショーンであったが、その気迫に圧倒されたのか、どうもこれを黙って受け流しているのは思いのほか本気のようだった。その証拠に、一見がらがらの隙をみせるアレクシスの軌跡を弾く様子もみせず、ただジリジリと後退するだけだったのだ。


(こりゃ、しんどいな)


「この虫ケラ風情が!」

 アレクシスはそれまでの気取った鼻にかけた物言いはどこかへしまい込み、抜き身の本性で侮蔑の言葉をショーンに浴びせる。


 放たれた刺突に隙はなかった。

 だがしかし、それでも格好をつけた手前ショーンは意地を見せたのか。それとも始祖の怒りの隙間を見透かしたのか。その刺突を鮮やかに右の一振りで弾いてみせたのだ。猛烈な鋭さで突き出された切っ先は、甲高い金属音と共に軽やかに弧を描き頭上に軌跡を描く。


「チッ!」


 下品な舌打ちはアレクシスのものだった。

 誘いの刺突を見事に弾かれ、見事に体を仰け反らせて見せたが、冷静な戦士は詰められた距離をそのまま、後ろに退いたから苛立ちを覚えたのだ。

 なかなかに撒き餌に喰らい付かない。

 

 緩急に緊迫と空白。

 使える物はなんだって使ってみせる。

 そこに用意された選択肢であれば何でもだ。

 あるのは誇りや名誉、そんな腹の足しにもならない霞みのようなものではなく、殺すか殺されるかの選択肢だけが、札をぶら下げているのだ。


 次は右、次はハッタリをかます、次はしゃがむ。

 そんな選択肢でさえも用意され、それを光の速さで選び、叩きつける。

 ともすれば、今の一呼吸だってそうなのだ。

 そして、その選択肢の札の塊は一つではない。

 ショーンは短く息を吸い込み「お嬢ちゃん、今だ!」と、さらに後ろに飛び退いた。







 カミルへアッシュとエステルのことを任せたレジーヌは通りに踊り出た。

 シェブロンズや、その隣の店舗、お行儀よく通りに立ち並ぶ几帳面に設計された建物の数々。そこへ雪崩れ込もうとする吸血鬼の眷属達の気を引くよう立ち回った。大きく声を上げてみたり、魔力の矢を撃ち込んだりとあらゆる手段を使ってそうすると、瞬く間にレジーヌの周囲には魑魅魍魎が所狭しと集まり、唸りの合唱を奏で始める。

 展開された術式に阻まれ、目前の血肉にお預けを喰らった血みどろの獣達は怨嗟の声をあげた。その中でも気取った吸血鬼は「邪魔だどけ」と屍喰らいを斬り裂き、その術式の解除を試みる。

 しかし、生前であればそれも可能だったのかも知れないが、不死者の仲間入りをしたその身では満足に魔力を展開できず、堪らずに弾かれる。


 それでも魔術は万能ではない。

 物理的な負荷が、大挙として魔力の壁を急激に押し始めると、力線の相殺に帳尻を合わせようと激しくレジーヌの魔力を消耗していく。

 これには堪らずレジーヌは顔を歪め「ちょっと、やりすぎたかしら」と声を漏らす。そして、次の一手の為、通りの少し向こう側で黒鋼の片手半剣バスタードソードを取り出したショーンに念話を送った。


(やっとやる気を出したの? 少しお願いがあるのだけれど、良いかしら?)

(なんだ、見てたのか! んで、お願いってなんだ?)

(<浄化の外法>を使いたいのだけれど、時間が欲しいの)

(どのくらい?)

(ほんの少しで良いわ)

(了解、本当に少しだけだぞ?)


 レジーヌは「了解」の言葉を耳にすると共に小振の杖をしまい、指を鳴らすと節くれた身の丈の杖を取り出した。


 そして、目を瞑り、意識を集中させる。

 鼓膜を揺らしていた怨嗟の合唱が次第に掠れて聴こえ始めると、鼻の奥がツンとし始めた。まるで暗がりが広がる湖の底に佇んでいるような錯覚を覚えると、眼前に幾つもの青白く輝く大小の円環が浮かび上がる。

 レジーヌはそれの幾つかに手を伸ばし、手元に引き寄せると器用に複雑な幾何学模様の円環を崩し始め、組み替えていく。すると瞬く間に幾つかの円環だったものは、より複雑な幾何学模様を孕んだ円環を成す。

 そして杖で三度地面を小突くと、頭の中に展開されていた術式がそこに展開された。ボソボソと起動式をつぶやくとレジーヌは音も立てずに宙へ浮かび上がり、あっという間にクレイトン全景を見渡せる上空まで身体を運んだ。


 目を見開くレジーヌ。

 眼下の実像には、どこか現実的ではない青い点や赤い点、緑だったり紫だったりの点が蠢いている。

 レジーヌは赤い点の数々にだけ素早く意識を集中させると(大丈夫?)とショーンに再び念話を送る。余裕が無いのか直ぐには答えはなく、ただ一言(こりゃ、しんどいな)と返ってきただけだった。


 最後に一際大きな赤い点を捉えたレジーヌは(お待たせ!)とショーンに呼びかけた。


「お嬢ちゃん、今だ!」


 眼下からショーンの声が轟く。

 それに釣られたのかアレクシスの注意が逸れ、ショーンが呼びかけた誰かを探すように辺りを見渡すが——。


「遅いわよ、のろまの淑女レディー


 節くれた杖を一振り。

 開けた視界、眼下に広がる景色の中で一際目立つ燃えるような赤い面影を見つけ、レジーヌはそこを目掛け素早くそうした。

 地面に穿たれた小さな青白い術式が、それに応えるよう急激に拡大する。

 見る見るうちに青白い術式は複雑さを増しながら——。

 クレイトン全域を青白い光で呑み込んだ。

六元素魔術式エレメンタリオ——」アレクシスは宙に浮かぶレジーヌを鋭く見据え、小さく呟いた。



 

 垂れ込めた暗雲の隙間から、そろそろ傾き始めた陽の光が橙色の帯をあちこちに落とし始めた。大地に広がる青白い輝きと陽の橙は互いに混じり合い、曖昧な空間へ紫紺の様相を揺蕩わせた。そして永遠の一瞬を造り出す。


 青白い輝きは大地から、星の数ほどの光の蝶を羽ばたかせた。


 それは、ゆらりと。いや、もしかしたら目にも留まらぬ素早さだったかも知れないが、そうやって曖昧に羽ばたくと怨嗟の音色に群がり、包み込みそれを燐の硝煙へ還元する。

 病魔のように喰らい広がった屍喰らいに、吸血鬼の眷属達はそうやって一つ、また一つと一瞬青白く燃え上がるとすぐに煙となり宙に霧散していった。そして、クレイトンの隅々にまでとっ散らかった眷属達は、その方々で煙に還された。


 粗方、光の蝶が怨嗟を喰らい異界に戻っていくと、その門となった光の円環が急速に今度は収束を始める。その収束は光の蝶に群がられてもなお、力に抗うアレクシスの足元に目がけられていた。

 レジーヌが杖をもう一振りする。今度は円環を閉じるように。

「さあ、もう落ちてちょうだい」







「ひゃああ! これが<浄化の外法>か! 初めてみたぜ!」


 青白く輝く光の中、あやふやとした紫紺の宙を見上げたショーンは子供の様に大声ではしゃぐと、急速に収束をしてくる地面の術式に合わせアレクシスへ距離を詰める。声も出せずに光の蝶に包まれたアレクシスの足元で遂に凝縮された青白い光が、シンッ! と音なき音を立てた。

 キュッと刹那の間に豆粒ほどまで収束した術式は、アレクシスの足元で今度は肩幅まで広がり光の柱を打ち立てる。それは光の蝶を巻き込みながらアレクシスの右腕を斬り裂いた。


「ああッ!」苦悶の声を上げたアレクシスは、抑える右腕を失い左手で肩を押さえると、詰め寄ってきたショーンとは逆の方向へ飛び退き、片膝をついた。

 屈辱だった。

 ガライエ砦の時は胸に風穴を開けられ、今度は右腕を持って行かれた。

 宙から降り立ったレジーヌの姿を鋭く睨みながら「売女ばいたが粋がるんじゃあないわよ」と屈辱に塗れた侮蔑を吐き捨てた。それが相反する感情であることも承知している。それでも揺らがされた自尊心を保つため、そうしなければアレクシスは気が狂ってしまいそうだったのだ。


「——何よ、必殺技だったのに外しちゃったじゃないの……」


「すまんすまん、詰め切れなかったぜ」

 魔術とはいわば組み立てられた術式を増幅回路とし世界の理に干渉する。ゆえに魔導に比べれば体力の損耗は極めて少ない。しかし、これだけの大魔術を行使するには通常は数名の術者が必要とされる。

 レジーヌはそれを一人で発動させ、その最後までをやり遂げた。

 当然といえば当然ながら、それは一種の欠乏症を引き起こす。

 片膝をつき自分を鋭く捉えるアレクシスの視線を真っ向から受け止めたレジーヌであったが、視界のはじから暗幕が張られるような感覚に襲われ、遂には、傍に立ったショーンへと雪崩れ込む様に身体を預けた。


「ごめんなさい、仕留めるつもりだったから全力で……」

気力の欠乏バーンアウトだな。でも右腕を持って行けたし雑魚は片付いたのだろ?」

「ええ、そのはず」

「じゃあ、大金星だぜ」

 ショーンはそう云って、身体にしがみつくレジーヌを庇うよう両手の二振をアレクシスに向けると不敵に笑って見せた。






 <謄写の眼>

 それでいくつかの魔術を会得し、アッシュはそれを戦いの型に組み込むことだってしてきた。それでも、魔術が放つ蒼い輝きには馴れることはない。どこか寒々しいというのか薄皮一枚を挟んで感じるそれは、どうも他人行儀で不躾にも思えるからだ。例えていうならば、聴きたくもない他人の喧騒を押し付けられているとでもいうのだろうか。


 しかし今はもっと別に感じられた。

 齢十三とあまりにも幼い、しかし誇り高きレッドウッド家の当主の覚悟をこの手で執行した。目の前で恨めしそうに目を見開き転がるレオンのかぶりを前に跪き項垂うなだれるアッシュを、魔術の光が包み込む。騒々しく、どこか金属音にも似た残滓が耳にこびり付き、目の奥を内側から鋭く突かれている様に感じる。

 それはまるで、幼き当主を手にかけたという事実を苛む光のようなのだ。

 

 よろよろと這いつくばってシェブロンズへ雪崩れ込んだ屍喰らい達は、その不愉快な光を浴びると青白い蝶の群れに呑まれ、次々と瞬時に煙をあげシュっと消えていく。

 声というには乱暴で、悲壮に満ちた何かを口にしたカミルを抱きかかえ、店の隅で事の顛末を見守ったエステルも絶句したまま、その様子をどこか他人事のように惚けて眺めていた。

 何を間違えば、このような悲惨の運命を辿るのだろう。いったいこれは誰の運命なのだろう。それに巻き込まれてしまった。そう思わざるを得ない、いや、そう思わなければ狂ってしまいそうだった。


 しかし打ち拉がれるアッシュはそうではないようだった。

 レオンの血にまみれた両手を眺め泣いていた。

 魔術の光が包み込むと苛立ちをあらわに「なんで、なんで、なんで」と小さく呟いたのだ。襲いかかろうとした幾つもの屍喰らいが煙に還るその様子にも微動だにもせず、ただただそうしていた。


 そして——。

 その光はレオンのかぶりも、軀もアッシュの目の前から消し去ったのだった。



「弔ってやることもできないだなんて」そう云うとアッシュは、よろよろと立ち上がり袖で顔を擦り付けると窓の外に視線を投げ「カミル! カミル・レッドウッド!」と高らかに叫んだ。

 慟哭を漏らしたカミルは、それに驚くと窓際に立ち尽くすアッシュの姿に目をやった。ゆっくりと黒瞳がカミルの視線と交わると「仇を」と目を腫らしたアッシュが静かに云った。

 そこには固い意志。前を向こうとする確固としたものを感じた。


「で、でも」

 小さな小さな兄よりもまた更に幼いカミルはその言葉に身体を震わせた。抱きかかえてくれているエステルの袖を固く握りしめていた。アッシュが何を云いたいのかも理解している。できる事ならば兄を奪ったあの始祖を、この手で仕留めたい。だが、それでも、自分はあまりにも小さく弱い。

 そう考えるとエステルの袖を握り締める小さな手に硬く力が入る。


「わかっているよカミル。大丈夫だ。僕にだってそれができるかは分からない。でも君の誇り、君が討たなければならない理由。それを僕に預けてくれるかい?」

「それは、どういう——?」

「つまり、僕に任せてもらっていいかい? ということだ。だからカミル。君にはエステルの守護をお願いしたいんだ。いいかな?」


 アッシュ・グラントは自分の替わりにレッドウッド家の誇りを護ろうと云うのだ。なんの関係もない、偶然に居合わせただけの自分達兄弟の為に、命を張ろうと云うのだ。

 エステルは目を丸くしているが、首を横に振り何も云わなかった。

 きっとこの女性はアッシュにとって、大切な人なのだろう。それであれば、今ならこの人を連れて逃げ出したって誰も文句を云うまい。


 ではなぜ?


 ふと、カミルの頭に兄の顔が横切った。

 ああ、そうか。兄だったらきっと目の前の男のように、誰かの誇りを、尊ぶべき価値を折らせようとはしなかっただろう。そう思ったのだ。


 だから——。

 カミルは「すみません、ありがとうございました」とエステルに云うと、背筋を伸ばし立ち上がった。折られかけた心、折られかけた誇り、そういった何かに添え木をし「命に替えても」とアッシュの腫れ上がった目を真っ直ぐに見据えた。


「お願いします」

 アッシュは、そう云うと短剣で指先を小さく切り、自らの血を触媒に<言の音>を刀身に書き殴った。そして、幾つかの<言の音>を口ずさむ。それに合わせ幾つかの旋律がアッシュを緑色に輝かせ縁取って見せる。


 満身創痍となったレジーヌの前で仁王立ちするショーン。

 そこにゆっくりと歩み寄るアレクシス。

 それに視線を投げたアッシュは「レオン。君の願いは僕がなんとかする」と誰に云うわけでもなく小さく囁いた。

 そろそろ黄昏時をむかえるクレイトンの街。

 その囁きは、今もなお、燃え盛り空を焦がす炎の音の中に溶けていった。









「片腕を落としたくらいで喜ぶなんて、随分と浅はかね」

 アレクシスは向けられた切っ先に応えるように、そう云うとゆらりと立ち上がり改めてエストックを握りしめた。


 するとどうだろう。


 ドクドクと垂れ流された始祖の血は紫紺の粒子にその姿を変えると、渦巻き、アレクシスの右腕を再生したのだった。右手を握っては開いてを繰り返したアレクシスは、嘲笑めいた笑いを浮かべ「残念ね。私を消滅させたければ——いいえ、少々力不足のようね」と片目を瞑り立つのがやっとといった表情のレジーヌに云った。


「厄介な吸血鬼様だな。こりゃ参ったぜ」

「あはは」と困った笑いを漏らしたレジーヌの替わりにショーンがアレクシスへ言葉を打ち返す。


 暗雲はすっかり姿を消し黄昏が始まる空には落ち掛けの橙が浮かんでいる。街のあちこちで上がる火の手がそれに混じり陽炎を浮立たせた。

 それを背負ったアレクシスは不敵に笑い、ゆっくりとゆらめく陽炎の中を歩いてくる。それは最後の刻を楽しむ狩人のようでもあったし、愛おしい何かをやっと抱きしめようと情愛を込めた姿にも見えた。


「私は大丈夫だから」とレジーヌはショーンの肩を押し、その場を離れようとするが、アレクシスが振り抜いた指から放たれた青白い矢に阻まれその場へ、ヘタレ込んでしまう。

 緩急ある艶かしい身体の線を大袈裟に動かし歩くその姿は、花道を歩く役者のように妖艶であったが、このままそれを鑑賞するわけにはいかない。だからショーンは座り込んだレジーヌの前に躍り出ると仁王立ちになる。


「あらあら、美しい情景ね」

 悪戯に笑いながらそう云ったアレクシスは指を振り抜き、魔力の矢をショーンに放つ。下手に避ければきっと、それを逆手にレジーヌの傍に急接近するであろうことは火を見るよりも明らかだった。

 だからショーンは、それを剣で叩き落とし「チッ!」と舌打ちした。





 最初は——僕には分からなかったのだ。

 なぜ僕がここまでしなければいけなかったのか。僕の胸の奥を揺さぶるこの気持ちは、突き動かす衝動がなんなのか。

 先ほどは、始祖との対峙に割って入ったカミルに苛立ち、そして始祖との戦いに余裕さえ見せたあの戦士に嫉妬して見せた。その感情を悟られまいと気持ちの奥底へ押し込め瞳を曇らせた。云ってみれば僕は、どうしようもない身勝手な人間なのだ。

 でも、レオンの最後の覚悟に触れ、僕の中で何かが弾け飛んだ。

 苛立ちも嫉妬もそんな薄暗い感情は、今僕がこの胸に抱いている衝動の前に砕け散ったのだ。

 そんなどうしようも無いことは、捨て置けと。

 今お前が心に掲げなければならない剣の名は「確固たる信念」であると。神と呼ばれる何かでもなく、業火に焼かれる悪魔でもなく、自分の心が、くだらない薄暗いものを打ち砕いたのだ。


 だから、同じ剣を掲げる盟友が命を賭して護ろうとしたものを折らせるな。その生き様を踏み躙らせてはならないと。眼前の敵がなんであろうともそれを貫けと。そう心の声が云ったように思えたのだ。


 気持ちを整理するわずかな間、瞼を閉じゆっくりと歩いたアッシュ。

 それまで渦巻いていた煩わしく五月蝿い感情が、澄んだ静かな湖のように凪を得ると、静かに双眸を開き——その場から姿を消していた。


 



 けたたましい金属音がアレクシスの眼前に鳴り響いた。

 危うく、首を落とされるところだった。

 再び生き死にの選択に興じたアレクシスの手札に、その一撃を交わし反撃に出るものはなかった。

 だから、忽然と自分の右上に姿を現したアッシュ・グラントの横一文字の薙ぎ払いにエストックの腹を合わせることが精一杯だったのだ。


 飛び散る火花が消えるまでの間に姿を消したアッシュの気配が次に現れたのは、横に飛び退いた先だった。横腹に強い衝撃を感じ、くの字に身体を折ったアレクシスは、そのまま横に吹き飛ばされ燃え盛る瓦礫を砕いた。


 突然の猛攻に面食らったアレクシスは目を白黒させ、何度も蛇のような瞳孔を緩めたり引き締めたりを繰り返しアッシュの姿を探した。

 火の粉を払い瓦礫から起き上がったアレクシスだったが、アッシュの姿を捉えることが出来ずに今度は頭上から強い衝撃を受け、堪らずその場に膝を折る。

 次は真正面、胸に重い衝撃が走り再び瓦礫の中に身体を埋める。

 そして首根っこを捕まえられたかと思うと、フワと宙に身体が浮かぶ感覚に襲われ、次の瞬間には顔面を地面に強打していた。


 右頬を地面につけ腹這いにされたアレクシスは、自分の左頬に何かが強く押しつけられたのがわかった。脳震盪を起こしたような感覚に襲われたアレクシスは、最初それが何かを理解できずにいた。しかし、にじられる感覚が靴底であると分かると「アッシュ・グラント!」と喉から血を吐きそうなほどの金切り声でその名を叫んでいた。





 アッシュを追ってシェブロンズから飛び出してきたエステルとカミルはレジーヌとショーンと合流をした。エステルは満身創痍のレジーヌを抱きかかえ「大丈夫ですか?」と声をかけると、すぐさまに<言の音>を紡ぎレジーヌの体力の回復を試みた。


「あれは?」と、次第に体力が回復しヨロヨロと立ち上がったレジーヌがエステルに訊ねた。


「アッシュです——」

「そうじゃなくて、アッシュはどうしちゃったの? ってことよ」

「わかりません。でも——」

「でも?」

 あれが本当のアッシュです——エステルはそう云いかけたのだが、それを呑み込んだ。


 確かに初めてガライエで出会ったときこそ、アッシュは強力無比な技と力を振るっていたのだが、今のアッシュはその時と何かが違うように思えたのだ。

 ガライエ、ダフロイトで振るわれた力は、何かに追われ振り払うために力で捻じ伏せようとする剛の技と力。それは自分の弱さを否定し、あまつさえ自分さえも否定しかねない諸刃の力だったように感じていた。

 しかし、今目の前で繰り広げられるのは、水のように流れ、相手の力を円環に捉え返すような曇りも穢れもない静かな強さだった。


 あの時とは、全く正反対のものなのだ。





「レッドウッドの秘術を知っていますか?」

「な、なんですって?」

「レオンはあなたの眷属に首を喰いちぎられ、眷属に成り果てる前に逝きました。その時、あなたの記憶にレオンの記憶が流れ込んだのではいないのですか?」

「レ、レオン? それは誰なの? 宵闇の」


 アッシュは静かな目でアレクシスを見下ろしレッドウッドの秘術について訊ねたが、どうやらそれは記憶に流れ込んだ様子はないようだった。


「そうですか」

 アッシュはやはり静かにそう口にすると、その静けさとは裏腹にアレクシスの左頬をにじる足に更に力を込めた。アレクシスはそれに顔を歪め、なんとか起きあがろうと四肢を無様に動かすのだがアッシュを覆すことができない。


「アッシュ・グラント。そのレオンというのは——あなたの手で逝かせたのかしら? 神でもなく悪魔でもない人間風情が人の運命を操ったというの?」

 口がまともに動かせない中でもアレクシスは嘲笑めいた口ぶりでアッシュの心を揺さぶり、隙を伺おうとするが「不死者のあなたが、レオンの運命をそうしたようにね」とアッシュに返される。

 先程までのあの弱々しい魔導師はどこへ行ったのか?

 今、自慢の顔を踏みにじり冷ややかに言葉を突き刺してくるアッシュからは、そんな様子は微塵も感じられない。







「レッドウッド。兄貴はどうした?」ショーンは傍に佇み、アッシュの鬼気迫った猛攻の様子を眺めたカミルに訊ねた。

「アッシュさんの手で送り出してもらいました」カミルは静かにアッシュから目を逸らさず、そう答えた。

「送り出した?」と、訝しげな表情でショーンが訊きかえす。

「はい。兄は吸血鬼に喉笛を喰い千切られていました」

「そうか——きっとウチの従業員を庇ってくれたんだな——すまなかったな」

「いいえ、そうではないと思います」

「そうなのか?」

「はい。兄は、レッドウッドの名誉と誇りを護ったのです。そして、残されたそれをアッシュさんに託して逝ったのだと思います。アッシュさんが最後に兄と何を話されたかは分かりません。でも、あの人は仇を討つのは自分に任せてくれと云いました」

「そうか。でも、ありがとうな——それじゃ、俺たちは、お前の兄貴が交わした、漢の誓いを護るとするか」

「はい、お願いします。僕は小さく弱いです。だから——」

「そんなことは無いんだぜレッドウッド。本当の強さは心に宿るんだ。覚えておきな。そしてお前は立派な戦士さ。魔術師だけどな。戦士ってのはそういうもんだ」


 ショーンは「ハハハ」と高らかに笑い、傍のカミルの肩を抱き寄せると柔らかな金髪をぐしゃぐしゃに撫で回した。迷惑そうな面持ちだったが、そこはかとなく笑いを浮かべたカミルは、アッシュとアクレシスの遥か頭上、火の手の硝煙に塗れた家屋の屋根に佇む白い影へ目をやった。

 ショーンもには先ほどから気が付いており、改めてカミルの視線を追いかけると「あいつにアッシュの邪魔をさせるなよ」と両手の片手半剣バスタードソードを構えなおした。





「アッシュ・グラント! こいつは俺らに任せろ」


 屋根からフワリと音も立てずに降り立った白い影——純白の外套に目深に被ったフードの下から除く目鼻口のない、のっぺりとした白い仮面。

 それは始祖を踏みつけるアッシュに長剣で襲い掛かろうとしたのだが、すんでのところでショーンがそれを阻止したのだ。体力も回復し戦線に戻ったレジーヌにカミルもエステルも合流をした。


「狩人がネイティブのいざこざに顔を突っ込むなんて、随分と酔狂ね」

「そうか? そうでもないさ。お前さんだって今、アッシュをどうにかしようとしていただろ?」

「そうね、そうだったね」


 四人はアッシュを背にし白い影をその場から引き離ししていく。

 その意図は白い影も察しているだろうことは、ショーン達にもわかっていた。それにわざわざ乗ってくれているのだから、何かしらかの勝算もあろうと、警戒もした。


「狩人が揃いも揃って二人も加担するのだから、よっぽどあのアッシュというネイティブが大切ということ?」

 白い影は剣の切っ先をショーンに向け、そう鈴の音の鳴らすように云った。

 まるでこのやり取りを楽しんでいるようにも思えた。それであれば——ここは一つそれに乗っかってみようと、ショーンも調子を合わせる。


「よく云うぜ。お前さんだってが普通のネイティブじゃあないってことは解っているのだろう?」

「あら、ショーン・モロウ。が何か解るの?」

「そうだな。どちらかと云えば始祖達と同じものだろ?」

「察しが良いのね。ねぇショーン。あなた私の仕事を少し手伝ってくれない?」

「ああ?」

「そうね。簡単に云えば私を救ってくれれば、あなたの望むものを与えてあげる」

「救う? なにから?」

「私の父から私を救うの」

「——お嬢ちゃん、そういうことはお母ちゃんにお願いしな」

「お母様はね、もう亡くなってしまったの」

「なんだよ。本気の話か?」

「私がいつ冗談を云ったと思ったの? 残念」白い影はそう云うと、俯き暫くすると、ゆっくりと顔を上げた。

 


 エステル達にはその瞬間がわからなかった。

 ゆっくりと顔を上げた白い影だったが、そこまではわかっていたのだ。しかし、その次の瞬間には、白い影とショーンの姿がその場から忽然と姿を消していたのだ。

 すると、あちこちから剣戟の金属音が鳴り響き、黄昏と炎の赤に包まれた通りの東に西に北に南で瓦礫が吹き飛ぶ轟音がそれを追いかけたのだ。


「な、なにあれ!」とレジーヌが叫び「わ、わかりません」とエステルは酷く狼狽した。カミルは落ち着いているのか、その驚愕的で異常で理解不能な剣と魔力の結び合いが始まると、残された三人の周囲に<魔力の殻>を張る。


 



「メリッサ……ごめんなさい」あちこちで剣戟の金属音が鳴り響くと、アレクシスは顔を歪め小さくそう云った。


「メリッサ?」

「ええ、かつてのあなただったら良く知っている魔女よ」

 相変わらずアレクシスを踏みつけたアッシュは、どうもその魔女とショーンの常軌を逸した動きを捉えることが出来ているようで、剣戟の音を目で追いかけているようだった。


「そうですか。いずれにせよ、やることは変わらないです」

 アレクシスは先ほどから、アッシュの拘束から逃れようとしているのだが、出所のわからない尋常でない力に抗えずにいた。シェブロンズから出てきたこの魔導師は、ガライエで感じたそれとはまた別の力を支配し、ぶつけて来ている。


 それが何なのか。

 それさえハッキリすればこの屈辱から逃れることが出来るかもしれない。

 しかし、いくら心を揺さぶり手掛かりを掴もうとするも、姑息な手であればあるほどに静かにいなされる。現に今、アッシュは緑に輝くアーティファクトを構え、アレクシスの髪を鷲掴みにすると白くか細い首にその刃を軽くあてがった。


 激情も不埒な欲望もその表情からは読み取れず、ただ静かにそうだったのだ。

 アレクシスの命。

 ただそれだけを獲ることが、アッシュの唯一の欲求のようだったのだ。

 そうしてアッシュの黒瞳の瞳孔が——縦に絞られた。


 



 一体全体、人間というものは生身でどれ程の速さの中を動けるのだろうか。光の速さの中で人間は肉体を維持し複雑な動作をとることが可能なのだろうか。

 恐らくそんなことは神でもなければ無理なのだ。

 故に、<外環の狩人>とは神の写し身であると語られるのであろうと、エステルはショーンとメリッサが繰り広げる尋常ならざる剣戟の音を耳と目で追っていた。

 今にもアレクシスの首を落とそうとするアッシュ。

 それを阻止する為なのか、その周辺で剣戟を繰り広げる狩人の二人。

 ぐるっとアッシュの周囲を剣戟の音が周ると、魔力の爆ぜる音がそれを追いかける。アッシュは何やらアレクシスに話しかけているようだったが、何を云っているのかがわからない。


 ただそれを傍観するだけの時間が、どれほど過ぎたのだろうか。

 エステルはもはや感覚が麻痺しあやふやと自分とその光景の間を眺めるだけだった。


 そして次の瞬間——。





 にいちゃんの仇を討つ。

 そう云って光の速さでアレクシスを圧倒したアッシュ。漢の誓いを護るぞと云って謎の白い影と対峙し人智を超えた剣戟を繰り広げるショーン。

 

 カミルの目にはその姿が、神代の英雄はたまたは神そのもののように映った。

 暮れなずむ黄昏が地平線を赤く染め上げる。

 それが空を藍色に沈めるなか街の至る所で燃え盛る炎が、英雄達の戦い、神代の決戦の舞台を照らしあげる。

 朱と藍と褐返かちかえしに彩られた決戦の舞台。

 そこに時折あがる火花は紅緋べにひで舞台に華を添え、魔力が爆ぜるさまは瑠璃色るりいろで英雄と魍魎もうりょうをことごとく照らしだした。

 尾を引く紅緋べにひ瑠璃色るりいろは、今まさに魍魎もうりょうの真っ赤な髪を鷲掴みにした英雄の姿を神々しく浮き彫りにした。


「あれがアッシュさん……?」

 カミルはすっかりその光景に目を奪われそう云うと固唾を呑んだ。

 そして次の瞬間。




 確かに、あの白い影の名前はメリッサだとショーンは云った。そして自分もあの白い影がメリッサという名前であると認識はしていた。レジーヌはその名前をどこかで聞いたことがあった。

 しかし、レジーヌが覚えのあるメリッサがここに存在していることは、どうにも不自然だ。そのメリッサは幼い頃から難病を患い、外出するのも制限されるほどの容態だと聞き及んでいる。それがこれほど体力的にも精神的にも負荷のかかる闘いを繰り広げるとは、考えにくい。

 

 いや、しかし——レジーヌはそう思うと、ふと傍に立ち尽くした二人——エステルとカミル——へ目をやった。

 狩人同士がこうやって刃を交えることは珍しいことだし、同じ狩人であるレジーヌがそれを目の当たりにしても、凄まじい闘いであるのだから、この二人にそれを理解することはできないのかも知れない。そう思い、視線を戻そうとした時だった。


 

 突然、黒い塊が視界に飛び込みエステルとカミルを薙ぎ倒していったのだ。


 あまりにもそれは唐突に起きた。

 我に帰ったレジーヌが「エステル! カミル!」と叫び、駆け寄ろうとすると、背中に鈍い重みを感じ、耐えられなくなり膝を折ってしまった。


「な! 一体何事!?」

 叫んだレジーヌは黒い塊が飛んできた方に振り返った。

 視界に映ったのは——白い影——メリッサがすぐ傍でレジーヌを見下ろす姿だった。



 

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