素直な狂気




「ネリス、この子達をお願い」

「何があったんですかい?」


 リリーはレオン達が保護をした子供達———セレシアと避難民の子供達を連れ、臨時市場にまで戻ってきた。子供達を預けると重々しい轟音が響く空を見上げた。

 ネリスは子供達へ「待っていてくれ」と、今ではすっかり空いた馬車の荷台に乗り込ませると、リリーの傍に立った。

「予想外に早くやってきたのよね——私達でどうこうできるとは思わないけれども」

 リリーは馬車の荷台に放り込まれていた長剣を抜き放ち小さく漏らした。

「何がですかい?」と、ネリス。

 腰帯びに刺していた短剣を、やはり抜き放つ。

 リリーが顔を険しく通りの向こうを見つめたからだ。


「始祖よ。アッシュをガライエで襲ったていう始祖が現れたの。こうも都合よく現れるものかしらね?」

 ネリスはその言葉に目を丸くし固唾を飲んだ。

 始祖の脅威については、リリーからもエステルからも聞かされていた。

 手練れの野伏が束になってもきっと勝利することは難しい。


「———誰が相手にしているんで?」

「そうそう。それが驚きなのよ。あのシェブロンズの主人が姿を見せたのよね。遠目にしか見ていないし、聞こえなかったかけれど、きっとあの人はそうよ」

 リリーは顔をぱっとさせると驚いた調子で云った。シェブロンズの主人を知る人間は数少ないと聞く。

「ほうほう。やっぱり<外環の狩人>なんですかい?」

「ええ、あの戦い振りはきっとそうね。始祖が少し押され気味だったもの」

「ところで親方、なんで剣を抜いているんで?」と、リリーを見上げるが、耳を捻り上げられるかと想像するもその様子はない。と、いうことはこの先に何かが起こるのだ。ネリスの親方は何か別のことに集中をすると、どうでもよいことは耳を通り抜けていく。

 そして、それが何なのかは直ぐにわかった。


「来るわよ」

 リリーの重苦しい声がネリスの頭の上から降ってきた。

 二人は小さく<言の音>を素早く紡ぎ始め、同時に指を鳴らす。

 そして、身体が緑色の風に包まれる。


「野郎ども! 準備をしろい!」


 ネリスは周囲の館の面々に声をかけた。

 ある者は、直ぐに傍に佇んだ他の商人達をまとめ広場の向こうの通りに誘導し、ある者は自分達の場所の周りを固めた。一瞬の静寂があたりを支配した。遠くに轟く轟音だけが聞こえてくる。

 そして、轟音を背にした甲高い悲鳴や泣き声、数多くの走る音が石造りの建物の影から聞こえてくる。


 ドドドドドドドドドドド……。


 それを追いかけるように、けたたましい獣のような咆哮や唸り声が聞こえてくる。リリーとネリスは剣を構え、ゆっくりと音が聞こえる方向へと歩き始めた。

 ついにその音の群れの正体が建物の角から姿を現したのだ。

 前に駆けるのは逃げ惑う、多くの難民にクレイトン市民。それを追うのは四肢を大地に猛烈な速さで追いかける屍喰らいや吸血鬼の眷属だった。

 逃避の群れには子供を抱えた者や、老人、煌びやかな衣装に身を包んだ商人に、ボロを身に纏った難民が居るのだ。その足はまちまちだったから、直ぐに群衆は伸び切ってしまい群れの尾から、どんどんと眷属達の餌食になっていく。


「クソ! 何ですかアレは!」


 最初はゆっくりとした足取りだったリリーとネリスは、それを目視すると風の速さで群れに突っ込み一気に群れの尾まで到達する。

 館の一行が人々を確保する姿を肩越しに見たリリーは「一匹も逃さないでよ!」とネリスに発破をかけ、それに応えるネリスは「おうさ!」と、ダン! と足を踏み鳴らした。

 すると通りの煉瓦を食い破るよう無数の蔦が音に誘われ這い出て迫り来た眷属達の足を絡め取り、先頭から眷属の群れを総崩れにしたのだ。

 

 リリーはそれを脇目に見ると、総崩れした眷属の群れのど真ん中に飛び込んだ。剣を素早く鞘に収めたリリーは、両手をパン! と力強く合わせると瞬時にそれを開き手近にいた吸血鬼のかぶりを叩いた。

 吸血鬼は「あががが」と呻き声をあげると、目玉が飛び出し苦しみ始める。

 眼球がこぼれ落ちた眼孔から緑の輝きが噴き出ると、リリーはその胸ぐらを掴み、群れの中に投げ飛ばした。


「ネリス!」


 リリーはネリスに声を掛けると、再び剣を抜き放ち、駆け寄り背中を合わせる。それまでに眷属の首を幾つも落としていった。


 するとどうだろう。

 投げ飛ばした吸血鬼は仰向けに寝転がりながら四肢をバタつかせ苦しみ、次第に身体を大きく震わせたのだ。遂には身体のあちこちから緑の閃光が溢れだし、爆音と共に破裂をした。

 辺りに飛び散った緑の閃光は眷属の群れに襲いかかり、バタバタと斃していく。ある者は頭を吹き飛ばし脳漿を辺りにぶちまけ膝から崩れ落ち、ある者は気が触れたように両腕を振り回し暴れ回ると他の眷属の身体をひきちぎった。


 そんな光景の合間もリリー達は眷属の首を落としてまわりながら、群れの数をどんどんと削っていく。しかし、それでも救えない命もあった。

 ネリスの目と鼻の先に転がされた若い女は、商人のトーガを身に纏った恰幅の良い吸血鬼に身包みを剥がされた。白魚のような透き通った肌を執拗に舐め回され最後には首に喰らいつかれる。

 ネリスは「おい! そこのでデブ! やめろ!」と力の限りに叫ぶが、吸血鬼はそれにせせら嗤うと舌なめずりをし挑発したのだ。ネリスは何体もの屍喰らいに阻まれ、ついぞその女の命を救うことはできなかった。


「酷えことをしやがるぜ」と、それを目の当たりにしたネリスは苦虫を噛み潰したような顔をし、絡みついてくる屍喰らいを斬り斃し、そして女の首に喰らいついた吸血鬼の首と———「すまねぇな——嫌よ助けて助けて」と懇願する女の首を胴体から切り離した。


「クソ!」

 ネリスはそう吐き捨てると次の獲物に斬りかかり、そこから数十体の眷属の首を落としていった。



 リリーが何体目かの吸血鬼を斃した時だ。

 妻を喰い殺された男が、遺体を抱きかかえ泣き崩れている姿を目にした。


「あなた! そこから離れて!」


 他の眷属と斬り結びながら男に寄っていったリリーは大声で、声をかけたが一向に男は顔を上げようとはしなかった。

 仕方なくリリーは男の脇を抱え立たせようとした。

 そして予想外の反抗にあう。


「よしてくれ! このまま逝かせてくれ!」

「ちょっと向ける相手を間違っているわよ!」

 

 男は手を振り解くと腰に下げた剣を抜き放ちリリーに切っ先を向けた。

 リリーは顔を顰めそう云い返すが、もう男の目には輝きはなく良く見れば、首筋に牙の後が残されているのに気がついた。もう少しの間にこの男は吸血鬼なのか、はたまたは屍喰らいに成り果てるのだ。

 その合間も襲いかかってくる眷属を斬り斃しながらリリーは男に近寄り「どうしたいの?」と静かに訊ねる。


「すまない」男は剣を震わせ静かに跪くと「私と妻を———」

「ええ、わかったわ———」


 リリーもネリスも。後ろで獅子奮迅する館の面子も。数多くの戦場の影を渡り歩き、必要であれば暗がりから人の首を落としてきた。その戦場とは都市であったり、砦の中、城の中、あらゆる所に点在した。

 寝台で娼婦に跨り腰を大きく振る悪徳役人の首を斬ることも、人々に圧政をしき自分は悠々と森で狩りに勤しんだ貴族のそれを落とすこともある。それは常に無情に行えたし、情けをかけてやる必要もなかった。

 しかし今目の前にしているそれは、そんな義理はなかったにせよ、自分が護れなかった命で、この男はそれにケジメをつけてくれと云っているように感じた。


 

 一体全体、何を責められる必要があるのか。

 どこか暗い感情がリリーの中に沸き起こってくる。

 

 あなたが今ここで命を落とすのは、あなたがもっと強ければ避けられたのではないの? あなたが強ければ奥さんを護れたのではないの? 私は私を護るために、トルステンの背中を護るために何もかも投げ打ったの。だから、ここにこうして立っている。あなたをこうやって見下している。だから、あなたは……。


 

 トルステンは、リリーによくこう云っていた。


 「私が人の心を失い、命を刈ることに躊躇しなくなったのならば、直ぐに殺してください。でなければ本当に私は——」

 今、トルステンの言葉の意味がわかったようだ。

 トルステンが恐れたのはこれなのだ。自らの命を落とすことではなく、自分が人の命を奪う理由の出所の違い。生き方の違いを許容できなくなり、それを悪とした時だ。

 それは、奢り、高慢、倨傲きょごう、そういうもので命を奪う心が芽生えてしまうことだ。


 だからリリーは目を瞑り、深く息を吸い込み——

「———助けてあげられなくてごめんね」——跪く男の首を静かに斬り落とし、そして寝転がる彼の妻の首も斬り落とした。


「ネリス! そっちは!?」

「ええ、被害無し。取りこぼしはありませんぜ!」

「良かった。皆んな馬車に戻ってアッシュ達の帰りを待つわよ」


 舗装された通りが、市場が構えられた広場に交わる辺りでリリーは、粗方を片付けたネリスと合流をした。流石のネリスも疲労困憊の様子で、伸ばすように背伸びをすると「イテテテ」と大きく漏らし「親方、これ一匹幾らになるんですかね?」と減らず口を叩いてみせた。


「どうだろうね。そういうのはトルステンに任せておきましょ。暇だったらそいつらの犬歯を抜いておきな。お金にもなるし、召喚にも使えるでしょ」

「ひゃー! その人遣いな」

 ネリスは両手を挙げ、そう云うと「あーお藪蛇、お藪蛇」とブツブツ云いながら馬車にいる面々に合流をした。


「エステル達、大丈夫かしら」


 長剣を短く振り払い赤黒とした血を拭うと、舗装路に一本の黒い軌跡が描かれた。リリーはそれを見つめ、はたと足を止めた。いつの日かこの赤黒い軌跡は自分のもので描かれるのだろうか? だとすれば——。


「トルステンか、絶世の美男子の剣の錆にたりたいわね」

 リリーは足早に踵を返すと先程の夫婦の遺体の傍に立った。そして幾つかの言葉の後に指をパチンと鳴らす。すると夫婦の遺体は青白い焔をゆらゆらと立ち昇らせた。


「私にできることは、これくらい。ごめんね」









「レオン! レオン! どこですか!?」

「にいちゃん! 返事をして!」

「レオンさん!」


 ショーンとアレクシスの死闘の衝撃音が、シェブロンズの中ではくぐもって聞こえる。それ以外の音といえば、店の北側で燃え始めている炎が宙を焼く音くらいだった。どうやら、シェブロンズの従業員はいち早く異変に気が付き逃げ出したようだった。

 緻密に敷き詰められた洒落た木製のテーブル達はこの混乱のなか、広い店中に散り散りとなり壊され床に朽ちるものも沢山ある。

 レオンを寝かせていたはずの窓側の席にも床にその姿はなく、アッシュ達三人は、吸血鬼の眷属達に気がつかれることは気にせず、名前を呼び続けた。むしろ、それにより眷属共をおびき出せればとも考えたのだ。


 しかし幾ら呼びかけてもレオンからの返事は返ってこない。


「駄目です。念話にも応答しません」

 カミルは今にも泣きそうな顔をでアッシュを見上げた。それは無理もないことだ。レオンは兄である以上に大切な最後の家族なのだから。

 アッシュはその感じに酷く鈍かったがカミルの様子を見ると、なるほどそうかと、どこか忘れていたような感情を想いだしていた。だからアッシュは、少しでも安心させようとカミルの柔らかな金髪に手を乗せ、軽く撫でたやったのだ。


 次第に充満をしてきた延焼の煙が三人の鼻腔を猛烈に刺激をする。

 口を開こうものなら咽び返してしまいそうになる。

 

 ガシャン!


 北側の窓の破られる音が鳴り響いた。

 アッシュは黒鋼の短剣を構え前に躍り出ると、その音の主が三人いることを確認する。エステルは後方を確認しカミルの前に立ちはだかり「アッシュ!」と絶叫する。

 店内の朽ちたテーブルや椅子を乱暴に掻き分け、炎を背にする吸血鬼達が目を真っ赤に急速に接近してきた。


「エステル、カミル! 援護をお願いします!」


 素早く立ち回ったエステルはアッシュの背中をポンと軽く叩き、魔導の術を施すと「カミル、魔力の殻をお願い!」と背後の魔術師に声をかける。しかし、それに返ってくる言葉は無かった。


「カミル?」

 エステルは肩越しにカミルの顔を覗いた。

 カミルはこちらを見ず左に身体をむけ「あああああ」と小さく漏らしていたのだ。

 

 アッシュは吸血鬼の三人を相手取りカミルの援護を待った。

 傍らをすり抜けようとする男の吸血鬼へ見様見真似の魔力の矢を撃ち込み吹き飛ばすと襲いかかってきた女の吸血鬼二人に体当たりを喰らわし尻餅をつかせる。

 顔面に直撃した魔力の矢に焼かれた男の吸血鬼は寝転がり、四肢をバタつかせ踠き苦しんだ。尻餅をついた二人は素早く立ち上がると、一足飛びで後方にひらりと退いた。


「カミル! どうしたのですか!?——」







 僕のにいちゃんは、いつだって僕の英雄だった。

 僕が魔術学校で虐められても助けに来てくれて、いじめっこ達を追い払ってくれた。いつでも僕の前に立って、僕を導いてくれた。

 レッドウッド家の魔術師は誇り高く気高く、そして優しくあれ。

 いつだってそう云って僕を鼓舞してくれた。


 いつだったか、僕が数人の上級生から囲まれ袋叩きにされた時があった。

 あの時は、学院で飼っていた一羽の兎を<魔力の矢>の的にしようとしていた下賤の輩——上級生を戒めようとしたのだ。それに憤慨した上級生達は「レッドウッドだからと云って調子に乗るなよ」と、けちょんけちょんにやられたのだ。

 飼育小屋の脇でボロ雑巾のようになった僕を見つけたにいちゃんが駆けつけてくれて、上級生達を追い払ってくれたんだ。

 兎を抱え込んで丸まった僕は、まるで惨め丸出しで寝転がっていた。


「カミル、その子を助けたのかい?」

「うん」

「よく頑張ったね」

「うん」

「きっとその子はカミルに感謝しているよ。それにきっとこのことはお父様も喜んでくれる。お母様もだ。カミルはレッドウッド家の誇りにかけてその子の命を護った」

「うん」

「あの上級生達を恨んではいけないよ」

「なんで?」

「そうだね。それは人が人を恨むというのは何も産み出さないからだよ。難しいかもしれないけれども、カミルも僕も恨むべきは、その子の命を奪おうとさせた誘惑そのものを恨まなければならないよ。そうでなければ、僕達レッドウッド家の魔術師は世界中の人々を恨まなければならなくなってしまう。そして、あの上級生達がその子のしたように、簡単に人の命を奪ってしまうかもしれない」

「難しいね」

「そうだね難しい」

「うん」

「それだけレッドウッドの秘術は秘匿されなければならないものなんだ。だから僕達は敵を見誤ってはならない。瞳を曇らせてしまってはならない。でも大丈夫」

「何が?」

「カミルはその小さな命でさえも等価と感じ、護ってあげられる心を持っているから。見誤らないだろうし、瞳を曇らせたりもしないってことだよ」

「そうなの?」

「そうだよ、大丈夫。カミルは強い子だ」


 にいちゃんはそう云って、僕を力強く抱きしめてくれたんだ。

 僕がボロ雑巾のようにやられたこと、上級生にやり返せなかったこと、そんなことを諌めるよよりも小さな命を救ったことを褒めてくれたのだ。

 レッドウッド家の誇りと義務を背負ったにいちゃんの姿は本当に大きかったんだ。


 でも——今、僕の視線上に見える、にいちゃんは。







「にいちゃんが! にいちゃんが!」


 カミルの絶叫が店内に轟いた。

 間合いをとる二体の吸血鬼を牽制しながらアッシュは寝転がった男の吸血鬼の頸を落とし、踏みつけ、絶命させると急いでカミルの傍に駆け寄った。


 そしてカミルがゆっくりと杖を向ける方へと視線を投げる。


 その視線の先はキュルビスとハーゼが店内を占拠していた際、レオンが隠れて出てきた厨房の方だった。今ではその厨房に明かりは差し込んでいなく薄暗く、天井を這うように蠢く煙が流れ込んでいる。だからなのか、その前に立ち尽くしたレオン・レッドウッドの姿を何か得体の知れないものに見せていたのかも知れない。


「レ、レオン——」


 アッシュは間合いをとっていた二体の吸血鬼が襲いかかってくるのを、一体の首を斬り落とし、一体の腕を弾き捕らえると背中——脊髄に短剣を叩き込む。絶叫する吸血鬼を足蹴にし短剣を引き抜くと「黙ってくれ!」とアッシュは叫びその頸も斬り落としたのだ。


 レオンは一言も発さず——女のかぶりを二つ手にぶら下げて立ち尽くしていた。


 暗がりにレッドウッドの外套が溶け込み、柊のブローチは赤く輝いた。レオンの顔も薄暗さの中に溶け込んでいる。しかし、その双眸は時折青く、時折赤く、輝いているように見えたのだ。三人はレオンの方へと改めて向き直りその様相に息を呑んだ。


「に、にいちゃん?」


 カミルは恐る恐るそう云うと一歩前に踏み出すのだが、アッシュにそれを制止された。


「な、なんで?」


 アッシュを見上げカミルは怪訝な顔をして見せる。

 エステルは堪らずに顔を背け口に手を当てた。

 カミルを見下ろしたアッシュは黙って、かぶりを横にゆっくり振ると「カミル、残念だけれども、あれは——」


「あれは? あれは、にいちゃんだよ! レオン・レッドウッド! レッドウッド家の長男、現当主の偉大な魔術師だ! そうでなければ、なんだって云うんだよ!」


 自分に言い聞かせるようで。何かに当たり散らしたくて。わかっているのだ、それでもだ。今はアッシュの腕を振り払い小さな手で小さく、とても小さく、アッシュの胸を打ちつけた。


 グシャ! ゴロゴロ——。


 カミルは泣きはしなかった——兄の前で泣き崩れるわけにはいかない。それでも、力なくアッシュの外套を鷲掴みにし膝を折ったカミルの足元へ二つのかぶりが奇妙な音を立てて転がってきたのだ。


 それはまだ恨めしそうに目を見開き、口をパクパクと魚のように動かした。

 身体を大きくビクッとさせたカミルはそれに驚き、声なき声で悲鳴をあげ後ずさった。アッシュはそのかぶりを力の限りに踏みつけると踵で、はるか後方へと蹴飛ばした。


「レオン!」


 アッシュは叫んだ。

 それを投げて寄越したレオンにまだ自我が残っている可能性を感じ、力の限りの声で叫んで見せたのだ。


「カミル……」


 レオンはすっかりしゃがれた声で最愛の弟の名前を囁いた。

 すっかり喉笛を喰いちぎられたその様相は、そう口にしたレオンが一歩また一歩と辿々しく前に進むことで分かったのだ。


「にいちゃん……にいちゃん……にいちゃん……あああ……」


 四つん這いになり前へ出ようとするカミルにアッシュは立ちはだかると「エステル、すみませんカミルを」と肩越しに声をかけた。

 エステルはその姿を直視できないでいた。

 しかし、肩越しに送られたアッシュの視線——瞳の奥に憂のさざなみを感じると、真っ向から受け止めようとするアッシュの覚悟へ応えなければと、カミルを抱きかかえた。


 カミルはそれに喚き散らし「離せ! 離せ! 離せ! 離せ! 離せ!」とエステルの赤髪を、毟ったり四肢をバタつかせ、なんとか拘束から逃れようとする。

 カミルのその声、その言葉、レオンが発するしゃがれた声が形をなす弟の名、それらは聞くものを狂気に誘う旋律のようで、まるでメルクルスの呪詛のようだった。

 

 エステルは暴れるカミルを抱きしめ店の端に駆け込んだ。そしてカミルの小さな頭を抱え込みその場に蹲った。

「大丈夫だよカミル、大丈夫だよ。アッシュがなんとかしてくれる。アッシュがなんとかしてくれる」と、呪詛を掻き消すようカミルの耳元で囁き、全てをアッシュに委ねたのだった。


 母親が我が子を護るように抱きかかえたエステル。

 その姿をアッシュは肩越しに見ると、どこか頭の片隅に針で刺すような痛みが走り、そこはかとなく顔を歪めた。そして、目の前でフラフラと何かに抗うように立ち尽くす、瞳を青や赤にしたレオンが「あ、アッシュさん」とハッキリと自分を呼んだのだ。


「レオン! 僕がわかりますか!?」

「は、はい。でもでも」

 双眸から血を流し、噛み切られた喉笛からヒューヒューと音を漏らすレオンは、アッシュに声が届くよう空気を漏らさないように囁くが、所々、ゴボゴボと生々しい水分の音が混じってしまう。

 両手で喉を押さえ付けながら、その場に座りこんだレオンは「来ないでください」と云うと「もうすぐ僕は眷属に成り果てます」と小さく囁くように云った。


「ああ、分かっています。何かやって欲しいことはありますか?」

 アッシュは短剣を構えたまま、静かにレオンに訊ねた。

「はい——念話をします」

「お願いします」


(アッシュさん、すみません最後の力で念話をします。返答は不要です。願いを聞き届けてくれるか否かの判断はお任せします。先ほど二体の吸血鬼に最後の最後で喰らいつかれてしまいました。それは良いのです、僕が首を斬れば良いだけのことなので。しかし、僕の記憶の一部が、レッドウッドの秘術の一部が恐らく始祖に流れてしまったと思われます。ですから、お願いです。始祖を、あのアレクシスという始祖をなんとしても屠りたいのです——)


 アッシュは黙って目を瞑り、レオンの言葉を静かに受け取った。

 そして、ゆっくりと大きくかぶりを縦に振り「わかりました、任せてください」そう、ハッキリと大きく、力強く、これから逝く者へ言葉をたむけた。


 レオンはその言葉を耳にすると、静かに微笑み、そして首を垂れた。


(お願いします)


「偉大なるレッドウッドの末裔にして当主レオン・レッドウッド。後のことは任せてください。君の矜持は僕が護ります」

 

「にいちゃん! にいちゃん! にいちゃん! にいちゃん! にいちゃん!」カミルの絶叫が遠くで響く。

 アッシュは一度目を瞑り、そして大きく見開くと、黒鋼の短剣を振りかぶり魔力を込めた。


「カミル! 強く生きて! 君が生きていてさえくれれば——お父様もお母様も僕もカミルと一緒に居るから!」レオンの最後の言葉尻は、さもすればカミルの絶叫で掻き消されたかも知れない。


 アッシュは思った。

 レオンの言葉はカミルにとって呪いにもにた言葉だったのではないのだろうかと。それがカミルの生きる理由になるのだとすれば酷く苦しいものなのではないか。それであるのならば——アッシュは何かを心に決め、緑に輝く短剣をスっとレオンの首に落とした。

 

 すると先ほどまで聞こえていた死闘の激しい音が鳴り止み、突然に外が青く輝いたのだった。



 

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