アメージング・グレイス




 城砦都市フリンティーズの南に位置するクレイトンは人口一万一千程の都市だ。農業が盛んな都市としても広く知られるのだが、それはルエガー大農園の名の下に統制され比較的に大規模な農業組合として運用されている。

 トルステン達がやってくる以前のクレイトンとはフリンティーズから搾取されるだけの食糧庫として機能をした小都市であった。


 しかし、トルステン達はセントバにほど近いクレイトンの商業的な優位性に着目し、それまで貴族達の荘園で主に行われた農業の生産性をいってに引き受け収穫総量を担保する形で都市郊外の広大な土地へ大農園を設けた。

 その後、クレイトンに残された土地は全て整備されると、幾つかの商業区として再編され有力商人達の手に委ねられたのだ。それからというものクレイトンではセントバに集まる世界中の名産品から厳選された品質の良い商品が取引されるようになり商業的な成果を大きく伸ばした。これは足繁くセントバの市場に赴く目利きの商人達の情熱によるところが大きい。

 こうしてクレイトンは食糧庫と揶揄されたその実態を大きく変革し、今やフリンフロン王国の文化的な流行を発信する商業都市としても発展をしたのだった。


 そんな華やかなクレイトンだったが北のダフロイトでの<大崩壊>以降、避難民が一挙に押し寄せると、比較的に閑散とした東商業区を避難民を受け入れる区画としたことから陰陰滅滅とした雰囲気が蔓延することとなる。

 私財を持ち出せたダフロイト貴族達は宿に長期滞在をするのだが、そうではない一般市民や親兄弟を亡くしてしまった子供達、貧困層の市民達は開かれた東商業区のあちこちの広場で、クレイトン行政機関から支給される天蓋を広げ寒さを凌いでいた。

 夜の帳が降りる頃には魔術師達がその区画へ結界を張ることで寒さは凌げるものの、術の展開に膨大な魔力を必要とすることから、明け方にはその恩恵は音もなく消えてなくなってしまう。

 だからなのか、どこかからか運び込まれた石が堆く積まれ、そこに火を焚べた人々は、周囲に集まり暖を取るといった光景があちらこちらで見受けられるようになったのだ。


 そうなると、絢爛な建物がひしめきあったクレイトンの街並みは、かつて大規模な魔力災害に見舞われたフォーセット王国属州ベルガルキーの首都クルロスのように陰鬱で薄暗い空気を撒き散らすのだ。

 難民達は希望を失い通りの影に潜み、生きるために手を穢すことも厭わない。そんな負の連鎖をその空気は是とし、善行は悪行へと塗り替えられた。

 ———それは奴隷商人達や、潜りの人買い達が暗躍することも許したものだから、人々は皆、何があろうとも顔をあげず、ただひたすらに路傍の石草を眺め誰かがなんとかしてくれるのを待ち続けるのだ。



 アドルフ・リンディはそんな陰陰滅滅とした光景を眼下に音もなく建物の屋根を幾つも駆けるように渡り抜けていく。その視線の先にある別の影を追跡するためだ。

 墓場を彷徨う屍喰らいのように緩慢と往来する人々。そこを器用に吹き抜けていく白い風のような影は目深に被ったフードから時折、純白の仮面の片鱗を露にすると、アドルフの方をチラチラと意識をしている。

 それは目鼻の穴も開けられていない、のっぺりとした仮面で、どのように外を覗いているのかもわからない。だからその影が斜め上に視線を投げるようなそぶりを見せれば、そうなのだとわかるのだけれど、その先に何を見ているのかがわからない。ほとほと不気味な印象だ。


 でもその不気味さ故か、それを見逃すヘマをすることはなかった。

 しかし、さもすればそれは意図的にそうだったのかも知れないが、さしずめアドルフの関心どころではない。兎に角、その影を街道の東に追い込みクレイトンの外まで見送れればそれで良しなのだから。


(追い出すだけで本当にいいのですか? とっ捕まえて実際のところを訊いてもよいのでは? もう気付かれているでしょうし、面倒じゃないですか?)


 アドルフの心の呟きは、ピンと張られた念話の糸の先で、先端を掴む白い吟遊詩人の心に届くと(ボヤかないの)という彼女の言葉を乗せて戻ってくる。


(時間稼ぎですか?)


 どこか、仕方のなさそうな様子でアドルフは敬愛なる先生に念話を返すが(そうね。今のアッシュはとかく不安定だし、楔を打たれたら厄介だわ——アッシュ達がシェブロンズに戻るまでは向こうに通さないで)と、どこか淡々とした調子で返ってきた。


(了解です先生——)こういう時のアオイドスは何を云っても、この調子は暫く変わらない。おそらくだが他に何か思案をしているからそうなのだ。


(しかしなんでこうも、あからさまに鐘楼から女の頭を撃ち抜いて、わかりやすく逃亡したのだろう——あ! しまった)

 念話を切ってすぐだった。

 低い建物から高い建物の屋根に渡ろうとした瞬く間に白い影が人混みの中に忽然と姿を消してしまっていたのだ。

 これは不味いとアドルフは上からの追跡を諦め、器用に建物の壁を蹴りながら裏路地に降りた。そして直ぐさまに白い影が姿を消したと思われる通りにひらりと踊りでた。

 まるっきり生きる気力を失ったような人々は、突然上から姿を現したアドルフに気を留めることもなく、チラリと顔をあげただけで、足を止める様子はなかった。

 昼間だというのに薄暗い通りの様子は、いよいよそんな人々を気味悪く映し出した。

 ただその様子を見るだけでアドルフは気持ちが沈んでいくのがわかった。


 通りの傍に目を向ければ、寒空に暖を取れなく身を寄せ合った子供達や虚しく行き交う人々の足を眺める姿、物乞いをする者、空腹に泣き止まない赤子をあやす母親、そんな姿がそこらじゅうで見かけることができた。

 わかってはいたのだけれども、いざその光景を目の当たりにするとアドルフは思わずそこから目を背けたくなってしまう。それは少なからず、もしかしたら、いや、きっと筈なのだから尚更だ。


 そうなのだ。

 アオイドスとアドルフはこうなることを知っていた。なのに、何も手を差し伸べることはなく、ただただ起きることを起きるべくそのままに眺めたのだ。正確にはアオイドスにこうなることを聞かされていただけなのだ、だから、だから———と、言い聞かせるが、それでも尚、良心の呵責に苛まれアドルフは口を一文字に強く結び、その光景から目を背けた。


 


 

 空に垂れ込んだ暗雲の隙間に陽の光が射し込むと、目を背けた光景を刻々と生々しく陰鬱に浮き彫りにし光の帯が通りを渡ってゆく。アドルフは気を取り直し顔をあげ、白い影を求めた。あれだけ風のように通りを吹き抜けたそれは、きっともうこの辺りには居ないのだろうと諦めてはいた。

 どこへ流れていくのかも分からない黒々とした人流の中で立ち尽くしたアドルフは、そうだとしても手がかりを得るべく目をこらす。


 差し込んだ陽の光がアドルフの視線から逃れるようにゆっくりと遠ざかっていく。

 幾重にも重なる人々の姿の隙間をアドルフの視線が通り抜けると、手前の像がボヤけ、通りのぼんやりとした奥に焦点が合う。そして、まるでの居所を教えようとしたかのような陽の光は、そこに、それを露にした。


(しまった!)


 人流の隙間に白い影の姿を認めたアドルフは「やめろ!」と叫び、片手で脚を叩くと目にも留まらない速さで駆け出し両手を強く合わせた。青い粒子が弾け飛び、黒鋼の短剣を二振り形作るとそれを逆手に構えアドルフは人流を掻き分け、人々を押し倒しながら、白い影に迫っていった。


 白い影は薄らと青く輝く弓を構え、やはり青く輝く矢尻を向けた。

 焦るアドルフをいたぶるようにジリジリと弦を引き絞る白い影。目深なフードの中に薄気味悪く見え隠れする、白い仮面からその表情は分からない。だがしかし、その悪意だけは感じ取れた。あからさまに放たれる悪意は、どれだけの人を助けられるのだ? とアドルフに問いかけているかのようだ。


「伏せてください! 頭を下げて!」


 アドルフは悪意の扇情に煽られるがまま、声を張り上げ「クソ!」と珍しくその時ばかりは吐き捨てると、まるで我関せずの人々を押し倒しながら前に急ぐ。するとどうだろう、弦を引き絞る白い影の周囲にはいつの間にか無数の青い矢が浮かび脈動した。

 白い影からほんの僅かだけ距離を取りながら、それを避け、通り過ぎていく人々は、変わらず無関心で一体それが何を引き起こすものなのかも考える様子はなかったように思えた。生きることへの希望を失った人々の多くは、もしかしたら、いっそのことそのまま命を奪われてもよいと思っているのかも知れない——しかし。


「お前ら! 死にたくなかったら伏せろ!」

 アドルフは力の限り叫び、声を荒げ、白い影までの最後の距離を詰めるために全力で地面を蹴った。









「遅いよ」


 白い仮面の裏からくぐもった低い声がそう云ったように聞こえた。そして白い影は、ゆっくりと最後の一絞りをすると、矢を放った。


 無数とも思えた青い矢は、放たれると幾筋もの閃光に姿を変え無差別にあらゆるものを貫き、薙ぎ倒す。

 ぼんやりと歩く、とある男の隣人は頭を吹き飛ばされ脳漿を男の顔にぶちまけた。また別のところでは、我が子の身を庇おうとした母親が、間に合わず自身の半身を消し飛し鮮血をあげた。あるものは脚を吹き飛ばされ、あるものは背中から閃光が襲いかかり突き抜けると臓物を飛散させる。


 惨劇が音を立て——悲鳴を連れアドルフへ向かってくる。血飛沫と悲鳴を連れて立って目に見えぬ悪意は無慈悲に人々を薙ぎ倒してやってくる。いや、惨劇の最中へアドルフは向かっている筈だが目の前で噴き上がるそれは、それよりも早くアドルフに向かっているのではないかと感じさせた。



 その速度の差分こそがアドルフの感覚を引き伸ばしている。

 相殺された時間の一枚一枚が迫り来るように目の前で入れ替わると、気が付くと死屍累々とした血の海の只中にアドルフは立ち尽くしていた。

 アドルフはそこに至るまでに無意識に短剣を振り抜いていた。いや、時間の一枚の中に白い影を認めたアドルフは、それを確かにとらえていた筈なのだ。しかしだ。そこには白い影の姿はなかった。


 アドルフの背後から陽の光の筋が追いかけてきた。

 周囲の天蓋に建物、通り、辺り一面が赤黒く染め上げられた光景は、もう、何も音を立てることもなく陽の光の横断だけが、その凄惨さを露骨に物語った。恐る恐る後ろを振り向いたアドルフは、その陽の光の中に白い影を認めた。


(アドルフ君、アドルフ君。今どこ?)


 白い影に目を奪われたアドルフはアオイドスからの念話にすぐには答えなかった———違う、そうじゃない。答えられなかった。

 白い影——純白の外套は左半分が血に染まっている。青く輝く弓は握られていなかったが、右手には黒く鈍く輝く片手剣が握られていた。


(アドルフ君!?)


「ははは——」


 アドルフはアオイドスの念話には答えず、乾いた声で笑うと「酷い事をしますね。メリッサさん」と、やはり小さく口にした。白い影は片手剣を軽く振り抜き、刀身に滴った血を振り払い、そしてゆっくりとアドルフに向かった。

 一筋の陽の光がそれを追いかけ、追い抜くと、まるでそれはアドルフに至るまでの道を照らす道標のようにゆっくりと滑る。


(答えて頂戴、アドルフ君!?)

「神様にでもなったつもりですか?」


 アドルフはそう吐き捨てると、顔を歪め片膝を付くようにその場に屈み、地面に視線を落とす。果たしてそこには———白い影——メリッサと呼ばれたそれが斬り落としたアドルフの左前腕が血溜まりを造り転げていた。


「これ、結構痛いんですよ? 知ってました?」


 減らず口を叩いたアドルフは迫り来る白い影に目を戻し、残された右腕を構えた。

 押し寄せる幻肢痛と、焼けるような痛みが混じり合い、何度も気が遠のくのだがアドルフは屈んだ姿勢から、最後の攻勢に出るべく両脚へ力を込める。


「アドルフ・リンディ。この世界この時代では初めましてかしらね。でも、どこに居たとしても、あなたはいつだってコソ泥のようなのね———虫唾が走る」

 白い影は片膝をつくアドルフの前へ悠然と立つと剣の切っ先を突きつけた。


「酷いな。そんな事を云われても僕には全く覚えがないことは、あなただって知っているのでしょ?」

「何故あなた達は私の邪魔をするの?」

「何がですか?」

「唯一、あの女が関わる事だけが私には見通せないの。だから訊きたいの。何故なの?」

「先生に訊いたらいいじゃないですか」


 アドルフは苦痛に顔を歪めながら、声を震わせた。

 白い影は仮面の奥で、小さく溜息をつくと「その手にはのらないわ」と呟いた。


「アドルフ・リンディ。世界はね冷たくて残酷なの。鳥籠からいくら助けを叫んだとしても、そこらに転がっている骸と一緒で人はその叫びを聞こうともしないわ。わかっているの。人々は思ったほどに優しくはない。優しくある事を是ともしない。だから救いを求める心は独りよがりに歪んでいくの。そして殻をつくる。救いを求めた先の偶像。それを誰かに被せて……そうね、神とか英雄とか——」

「何を云っているのですか?」

「独り言よ。気にしないで。それよりも帰ってあの女に、私の邪魔はしないでと伝えてもらえるかしら? 覗き見るのであれば好きなだけそうすれば良いわ。でも、邪魔だけはしないで。これは警告よ」

「そんな事を云われても———」


 アドルフはそう云うと、押し寄せた耐え難い苦痛に酷く顔を歪め、思わず目を瞑ってしまう。


 と、その時だった。

 どこからか何かが爆発するような轟音が響き、そこら中の建物を揺らしたのだ。


(アドルフ君! 不味いわシェブロンズに———)アオイドスの念話が頭に響くとアドルフは目を見開き、構えた右腕を咄嗟に振り抜いた。するとどうだろう。そこへ居たはずの白い影の姿は忽然と消え、黒鋼の短剣は虚しく空を斬っていた。


「警告——ですか」

 気が抜けたのか——苦痛に苛まれていることには変わりがないが、座り込んだアドルフは、震え出した身体を押さえつけながら目の前に転がった左前腕を拾い上げた。


「もう———面倒くさいな」


 誰が聞いている訳でもないのにアドルフは小さく減らず口を叩き、空を仰ぎみた。 不思議と見上げた空にはもう切れ目はなく、陽の光は地上に注がれてはいなかった。


(先生、すみませんメリッサさんに気付かれて——しこたまやられちゃいました)



 

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