3_Knockin' on heaven's door

吟遊詩人と野伏




 ——大雪像祭 翌日 ダフロイト中央北区画。


「先生」

「そうね、そろそろ時間かもね」


 アドルフは再び表情を曇らせたのだが今度は逃げることなく、真っ直ぐな眼差しをアオイドスへ向けた。彼女はアドルフの瞳に映った自分の姿を見つめ今度は茶化すことなく真剣に答えることにした。

 周囲は呑めや歌えやの日常が広がるが、自分達の周囲はそこから切り離された。ピリピリした緊張感を誤魔化すことはできなかったのだ。


「先生、本当にこのままで良いのですか? 今ならまだ間に合いますよ。アッシュさんを助けて何か他の方法を考えたって良いじゃないですか」


 それにアオイドスは目を細め通りへ目をやった。


「いいえ、駄目よ。これがアッシュの願いなんだもの。そのために私はここに戻ってきたの。逃げてしまっては……ミラも消されてしまう。悔しいけれども、まだあの獣の筋書きに乗っていないといけないの」


 鈴の音のような声はこの時ばかりは、静かに重々しくアドルフにのしかかった。吟遊詩人の決意の固さに重さ、それが何かは終ぞ教えてくれたことはなかったが、この話の時だけはアオイドスは真剣で揺るぎのない意思を示す。アドルフはそんなアオイドスの様子から、きっとそれは彼女が彼女を自縛することで存在意義を見出しているように感じてしまい不憫さを感じるのだ。

 だからこそアドルフは悲しくなり、自分がその呪縛を解いてやれないのかと、不甲斐なさを覚え気を落としてしまう。本人は気が付いていないが、アオイドスに淡い思いを抱いているからこその落胆なのだろう。


 だからいつもこの話をすると表情が暗くなってしまうのだ。

 そして、アオイドスの言葉を聞き終えてもなおアドルフが言葉をつ続けようとしたその時、別の声がそれを遮った。


「北の外大門が破られた! 逃げろ!」



 ダフロイトは永世中立都市だ。

 防衛の為の軍備はリードラン随一の堅牢さを誇り、難攻不落の城塞都市としても名を馳せる。これは<北海の和約>の条項に盛り込まれた<いかなる場合でも他国の侵略を許してはならない>という一文に即したもので、ダフロイト独立承認国もこれに軍事協力をする。フリンフロンからは、治外法権を認められた地域へ駐留軍が派遣されサスカチュワン砦から北へ睨みを利かせるのだ。

 中立を保持するため他国の軍事力を抑止力とすることへ違和感を感じる軍閥貴族も多いが、元来ダフロイトはフリンフロンへの帰属を望んでいた経緯もあることから黙認されていると云って良い。

 ジョージ・シルバがもたらしたフリンフロンの軍事力は長い時を経た今でも衰えることはなく、他国が牙を向くことはできないはずだった。


 しかしだ。

 遂にこの難攻不落の桃源郷の腹を食い破る獣が現れたのだった。



 ——大雪像祭 翌日 ダフロイト北大門近く。


 数刻前——

 アイネはスカートが捲れるのも気にせず勢いよく馬車の荷台から飛び降りた。

 エメの静止に耳を貸さず、転がりそうになりながらも体勢を整え一目散にダフロイト警備隊の詰所を目指して必死に走った。

 ケイネス達の馬車が到着した頃にはすっかり太陽は西の空に沈み、ビロードのような夜空が帷を下ろした。陽が落ちれば、リタージ学派の魔力照明が街並みをあちこちを照らし夜の始まりを絢爛な街並に告げる。


 そして暖かい灯には必ず影が落ちるのだ。

 ダフロイトにもスラムは存在する。


 スラム街の住民は彼らの領域から滅多に表に出る事はしない。

 帷が降りた時間なら尚更だ。

 子供であれば、男女関係なく人買いに攫われ売り飛ばされてしまうし、ともすれば貴族の慰めものとなる事もあるのだ。

 幸せを過剰に求め、満ち足りぬという生活の裏に闇は生まれた。

 急造された楽園はその輝きの強さ故に落ちる影も濃く特に闇が深い。


 汚れた農作業着の少女は絢爛な目抜き通りを必死に駆けた。自分の身へ危険が降りかかることも厭わず死地へ身を投げ打った父のことだけを考え、ひたすら懸命に駆けた。

 何度も石畳に足をとられ、前につんのめった。

 農作業用の布の靴では石畳の硬さに耐えられない。アイネの足爪は捲れ、靴はすっかり血で赤くなっていた。酷い痛みにアイネは歯を食いしばり耐えると走り続けた。

 痛みは次第に脚の自由を奪い始めた。ついには感覚を奪い去り、足の五指がくっつき草履にでもなったようだ。その草履からはもう痛みしか感じない。

 この宿場街を抜ければ左手に練兵場が見え、その先が詰所のはずだ。

 北の大門から真っ直ぐ走り宿場街を抜ける合図は、妖精を形どった看板の<妖精の宿場亭>で、アイネはその看板が目に映ると躊躇うことなく店の角を左に折れた。

 すると、ガシャんと大きな音を立て、<アスタロトの足跡通り>に出ようとした警備隊の戦士と衝突してしまったのだ。


「痛っ!」

 アイネは思わず声をあげてそのまま力なく石畳に転げてしまう。疲労した脚は鉛のように重たくなり、いうことを効かなくなってしまった。そして彼女は転げたまま力なく夜空を仰ぎ「お父さんを助けて」と嗚咽を漏らしながら繰り返したのだった。


「大丈夫か!? 子供がこんな時間に……。アイネか? アイネなのか!?」


 少女と衝突をした戦士は他の戦士達へ先に行くように云うと、急いで少女を抱き起こして声をかけた。

 アイネは聞き覚えのあるその声に目を見開いた。小さい頃はよく耳にした声だ。酒のせいで喉が焼かれ、しゃがれてしまっているが人を惹きつける魅力的な声だ。


「ランドルフ、ランドルフさん!? ああ……お父さんが、お父さんが!」


 ランドルフは急いで無骨な鎧籠手を外し、力なく身体を預けてくる少女の頭を抱えた。額にべったりくっついた髪を取り払うと、泣きじゃくりながら何度も、お父さんを助けてくれと口にするアイネの背中をさすり、どうにか落ち着かせようとした。


「アイネ、大丈夫だ。話はジルハードから聞いている。もうお父さんは大丈夫だ。それにコービーは強いからな! 全部蹴散らしているだろ!」

「お父さんは馬鹿だから、また人を助けるのに死にかけてるんだよ……帰ってきたら、帰ってきたら……」

「ああ、そうだな帰ってきたら、叱ってやらないとな。だから安心して今は休むんだ。誰と一緒に逃げてきたんだ?」

「エメさん達と馬車で……」

「ケイネスは?」

「うん、一緒」

「そうか、よかった。厩舎の方だな」

「うん」

「わかった。アイネ、よく頑張ったな。後は任せろ」


 ランドルフはそう云うと、少女の柔らかな金髪を優しく撫で、だき抱えると北の大門へ歩きはじめた。そしてアイネが痛みを忘れ目を瞑るのを確かめると、優しくアイネの頬に触れた。


「すまないアイネ……」

 回帰派の魔導師達は神の存在とやらを魔導書グリモワールに記し、あたかも神がそこに居ると、古ぼけた書物を神殿に祀る。そしてこう云うのだ。あなたの傍らに神はおられます。だから祈り捧げなさいと。

 捧げるものは金なのか、労働力なのか。はたまた命なのか。

 ランドルフは敬虔な信徒であったことがある。しかし何度祈ろうとも、その命を捧げようと心に決めても、妹は吸血鬼として何処かに去ってしまった。だからコービーの無事を神に祈ることはできない。





 ジルハードの報告はコービーが絶望的な状況である、というものだった。

 それでも善戦し大将らしき大男との一騎打ちまで持ち込んでいたのだそうだ。しかし状況的には神でもなければ切り抜けられない。そうジルハードは判断をすると全速力で戻り壁内防衛の具申をしたのだ。


 十中八九、助かりはしない。

 ランドルフもそう判断すると師団長へそれを報告したのだった。

 だから、今は痛みを忘れて眠っている少女に謝った。


 嘘をついてしまってすまないと。


 その時だった。

 勢いよく<妖精の宿場亭>へ駆け込んだ男が「北門が破られた」と大声で知らせた。男は更に向かいの酒場に駆け込み、やはり「逃げろ!」と触れ回ると、わらわらと店から出てきた客達と南へ向かって駆けて行く。

 <アスタロトの足跡通り>は得体の知れない侵略者に侵され、不可侵の楽園は今や悲鳴と怒声、そして力なきものを押し退ける罵声が飛び交う無法地帯となった。


 二重の外壁に囲まれたダフロイトの壁は本当に破られたのだった。


 ランドルフは嫌な予感がした。

 どこからともなく、酸が鉄を焼くような鼻をつく硝煙の臭いがしてきた。

 ランドルフはこの臭いを知っていた。それは大出力の魔力が放出される予兆だ。

 ついには空気がピリピリしてきたのを感じたランドルフは、北へ向かうことを止め踵を返した。

 嫌な予感がしたのだ。

 北の夜空が急に昼間のように明るくなるのを影の長さで知るとランドルフはアイネを強く抱きしめた。予感は的中した。昔からそうだ。嫌な予感程よく当たる。


「飛んで!」

 どこからか、若々しい声が響いた。

 うずくまったランドルフは鎧左肩の関節部分をグイっと力強く引っ張る力を感じた。

 すると、アイネを抱きかかえたランドルフはひょいと力の向かう方向<妖精の宿場亭>の中へと引っ張り込まれていた。自分でもその力に抗うことはせず身を任せたとはいえ、鍛えられた体は鎧に包まれ軽くはなかったし、ましてや年頃の少女を抱えている。それをたった一人の男が力任せに引っ張り込んだのだから驚きだった。


 くるんと癖のある髪の男は、大隊長を引っ張り込んだ勢いを殺さず通りに躍り出た。北を確認すると「先生!」と宿場亭の中の純白の外套の女性に声をかけた。

 それは丁度夕食の時間を過ごしていたアオイドスとアドルフの二人だった。


「わかってる」


 アオイドスはそう云うと、その場へ左膝を付き衝撃に驚いて目を覚ましたアイネに「大丈夫?」と声をかけながら、素早く床に人差し指で何かを描き始めた。

 すると指先の軌跡を追うように、蒼白い細い光が幾何学紋様を浮かび上がらせ、それに少しだけ間をおいて、吟遊詩人の呟く言葉がその上へ複写される。

 それは魔術師が使う術式だった。

 なんとも幻想的な光景だった。

 ランドルフは魔術のことは知ってはいるが術式の施される瞬間が、こんなにも美しいものだとは思いもしなかった。

 魔術とは戦士達にとっては大量に人の命を奪う殺戮の力。

 その印象だけが頭にこびりついている。

 しかし、その認識は間違っていない。

 そのこともランドルフは次の瞬間に知る事となる。

 素早く術式を描き終えたアオイドスは立ち上がり「アドルフ君構えて!」と叫ぶ。いつの間にか手にしていた節くれた樫の木の杖で術式の中心をコツンと突いた。

 それを合図に<アスタロトの足跡通り>を警戒したアドルフは左腕を前に突き出し腰を落とす。すると、開かれた左手を中心に蒼白い光が放出さ野伏を中心に<妖精の宿場亭>を包む半球体の壁が築かれた。


「来ます!」


 目の前にどのような脅威が立ちはだかっているのだろうか。アドルフは眉間に皺を寄せ眼前の何かを突き刺すよう睨み歯を食いしばる。

 魔力の壁は何者もその内に侵入を許さない絶対の壁だ。逃げ惑う市民がその存在に気が付かず激突し、ある者はその勢いに脳震盪を起こしその場に転がってしまう。アドルフは勿論それに気がついていたが、その視線を目前から離すことはなく、助けの手も差し伸べはしなかった。


 魔力の壁はアドルフの体を媒介に魔力を放出し顕現する。

 余所見をした途端にその壁は姿を消してしまうのだ。

 だからアドルフは余所見をしなかった。いやできなかったのだ。

 人が壁にぶつかり転がってしまおうとも、それを切っ掛けに南へ避難するのが遅れてしまおうとも、余所見はできない。


 目を覚ましたアイネが通りの向こうで、転んで泣き叫ぶ女の子を指差し「ああ! 女の子が!」と叫んだ。ランドルフはそれに応じ、助けに出ようと駆け出したが遅かった。

 そして、アドルフが動かなかった理由を知ることとなる。

 

 ランドルフは脳を揺るがす耐え難い咆哮を耳にした。北の空を照らしていた蒼白い光は急激に収束をしたかのように見えた。それまで明るかった街並みが瞬時に暗くなり、全ての音が消え去った。まるでその周囲だけ真空となったようだった。

 そしてその現象は突然揺り返す。

 壁の向こうから轟く脳を揺るがす咆哮と共に、音は現世に戻り、明かりという明かりは輝きを取り戻した。次の瞬間、堅牢なダフロイトの北の大門が吹き飛び<アスタロトの足跡通り>に蒼白い巨大な閃光が迸る。


 アドルフは迫り来る閃光から目を背けることなく眼前に集中をしたが、視界の隅に飛び出そうとしたランドルフの姿に気が付いた。

 魔力の壁は外からは不可侵の絶対的な壁となるが、内から出ていくのは簡単だ。そのまま飛び出せばいい。しかし、一度出てしまえば戻れない一方通行。この瞬間に出ていくことは自殺行為だったがランドルフはそれを知る由もなかった。


 だからアドルフは舌打ちをし体を少し後ろにずらしランドルフを遮った。

 行く手を遮られたランドルフはアドルフをキっと睨みつける。その瞬間だった。<アスタロトの足跡通り>は閃光に飲み込まれた。


 できるだけ。

 可能な限り。

 多くの命をこの魔力の壁の内側に。


 師と仰ぐ吟遊詩人の魔術は偉大だ。あとは自分が上手く制御しなければならない。アドルフはそんなことを想いながら左手を振り上げ、媒介となった自分は上手くそれをできた筈だった。魔力の壁の中にいた人々は耳を塞ぎうずくまってはいるが、みんな無事だ。


 巨大な魔力の奔流は人を焼き、急激に巻き起こった燃焼は周囲の空気を急激に奪った。崩れ落ちる建物はまるで夢の中の出来事のように音もなく崩れ去っていく。全てが引き伸ばされた時間の中の出来事のようだった。

 焼かれた肉塊はゆっくりと次第に白い骨を露にし黒く煤けて一瞬蒼白い炎をあげると消えていく。建物は奔流に飲まれる前から衝撃に晒され、嵐の中の巨木のようにしなった。遂には耐えきれなくプツんと凧糸がきれた凧のように吹き飛んだのだ。


 集中力を切らせたらこの中の命も消し飛んでしまう。だからアドルフは集中をした。うまくやった筈だったのだ。しかし、ランドルフに気を取られた一瞬が足を引っ張った。奔流が途切れるまでの時間に耐えきれなくなってしまったのだ。

 左手の革手袋から白糸の煙が立ち昇るとアドルフの腕が小刻みに震え始め、そして遂には右膝を折ってしまった。


「アドルフ君!」


 アオイドスの悲痛な叫びが轟いた。

 もうすぐだ。閃光の白みが闇夜に溶ける。

 魔力の壁はビリビリと音を立て、奔流の熱量と圧力に今にも崩れ去ろうとしている。あと少し、あと少し耐えてくれ、アドルフは願いながら力を振り絞り一度は落とした右膝を立て、奔流を押し返さんとその場に踏ん張った。

 魔力の奔流が闇夜に溶ける先が見えてきた。永遠に思えた破壊の流れももう終わる。アドルフは歯を食いしばり最後の衝撃に備えた。


 魔力の壁を飲み込み過ぎ去った奔流は、とうとう通りの南で闇に溶けて途切れた。しかし、それを追いかけた衝撃波は、瓦礫という瓦礫、骸に馬車、通りに転がるあらゆるものを破壊的な勢いで南に運んで行く。魔力の壁はそれに堪らず、激しく砕け散った。

 魔力の残滓が夜空に溶けてなくなり、ようやく現実が戻った。

 だが、その現実とはダフロイトの夜を煌びやかに飾った暖かな光でも絢爛な建物でも、着飾った貴族達の談笑でもなく、業火と泣き叫ぶ声に死にゆく人の断末魔。

 それに瓦礫と焼け焦げた死屍累々だった。



「アドルフ君、大丈夫?」

 アオイドスは急いでアドルフに駆け寄った。

 通りの北側は壊滅的な状況で南も通りの半ばまで吹き飛んでいる。アドルフの背中に手を当て周囲を見渡したアオイドスはその惨状に目を細め、かぶりをゆっくり横に振った。


「アドルフ君?」

 反応のないアドルフにもう一度声をかけ、今は力なく跪いている姿に目をやると、吟遊詩人は手を口に当て絶句した。アドルフの左腕が消し飛んでいたのだ。そして野伏は苦痛と戦っている。

 宿場亭から慌てて駆け出してきたランドルフは、その様子を目の当たりにすると動転し「すまない、すまない」とただただ連呼した。

 ランドルフはわかっていたのだ、この青年は自分があのまま飛び出たら、消し飛んでしまうことを。だからこうなる事を覚悟のうえで身を挺し自分を遮ったのだと。しかし、それでも幼い子供が泣き叫ぶ姿をそのままには出来なかったのだ。

 では自分はどうすれば良かったのだろう。

 答えは出なかった。

 今はいつの間にか駆け寄ってきたアイネの手の温もりを右手に感じ、ああ、コービーの子は助かったのだと半ば安堵することしか出来なかった。


「助かってよかったよ。あのまま飛び出してたら、その子は一人ぼっちになっちゃうもんね。本当よかった」

 アドルフは息を切らせたが、ランドルフの肩に右手を置き軽く叩いてやった。

 

「ちょっと動かないで、時間がないわ。腕を再生するから息を整えて。魔力はまだ残っている? 幻肢痛がくる前に左腕を想像して」


 動転した吟遊詩人だったが、すっかり落ち着きアドルフにそう云うと懐から小瓶を取り出した。そして、小瓶から指先に液体をつけるとアドルフの左肩に何かを描き出し、小さな声で呟く。

 するとそこから緑色に輝く粒子が最初はフワッと踊り出し次第にその数を増やすと、くるくると回りながら伸びていった。


「くっ!」アドルフは苦痛に顔を歪め堪らず俯いた。


「一時的な幻肢痛よ。すぐ良くなる」

 アオイドスは口早に伝えると、また小さな声で呟き始めた。すると緑色の粒子は次第に左腕の形をなし、ついにはそこにあった筈のチュニックの袖まで復元してみせたのだ。


「先生ありがとうございます。危うく白目を剥いてぶっ倒れるところでした……」


 アドルフは元に戻った腕を回し、手を開いたり握ったりと感覚を確かめる。

 復元をするのが少々遅かったのか、一度は無くなったことを覚えた身体が、再生された腕に拒否反応を示し痛みを感じた。しかし自身の魔力をゆっくりと神経に通し途切れた感覚を丁寧につなぎ合わせると違和感は程なくなくなった。


「き、キミ、ありがとう——」

 ランドルフは目の前で起きた理解の範疇を遥かにこえる出来事へ目を白黒させたが、それでも自分と友人の娘の命を身を挺し守った青年に一言をかけなければと、恐る恐る感謝の意を伝えたのだ。小さなアイネもランドルフの背後にくっついて歩き、小声で「ありがとうお兄ちゃん」とアドルフに声をかけた。


「僕はただ媒介になって、いい具合に魔力の球体を動かしただけですよ。あれはあれで、結構力を使うもんで普段から体を動かしている僕みたいなのが都合よかったんです。それよりも、先生の、アオイドスの<障壁>が無かったら今頃みんなお陀仏でした。ですから、お礼なら先生に」


 アドルフは二人に微笑んでそういうと、立ち上がり素早く北に目を向けた。ランドルフとアイネはアドルフの横に立つアオイドスにも感謝の意を伝えた。


「いいのよ。もののついでだったし、気にしないで頂戴」

 吟遊詩人は二人をどこか寂しそうな目で見つめ、小さな声でいうと外套を翻してゆっくりと街道の向こうに視線を向けた。


「先生、そんな言い方しなくても……」

「悪気はないのよ。でもね、やっぱりこういうのには慣れていないのよ。ごめんなさい」


 何を思い出したのか、吟遊詩人は消え入るような声でそう云うと俯き続けて何かを口にした。なんと云ったかはアドルフは聞き取れなかった。でも、そこはかとなく寂しげな吟遊詩人が口にした言葉は想像できたような気がした。


 だからもうそれ以上は声をかけなかった。


「さてと、僕はアドルフ・リンディ。そしてこっちが、僕の師匠のアオイドス。吟遊詩人です。師匠といっても僕はフリンフロンの野伏なので、人生の師匠といったところです。それで……」

「ダフロイト警備師団のランドルフと、こっちが友人の娘でアイネです」

 気を取り直し努めて明るく話し始めたアドルフが言葉に詰まると、ランドルフは慌てて名前を告げた。するとアドルフは微笑みながら言葉を続けた。


「宜しくお願いします、ランドルフさんにアイネ。それで……もう時間がないので手短に話しますね。ここから北は壊滅しています。通りの南は瓦礫の吹き溜まりになっている。ですから東でも西でも迂回をして南に逃げてください。しばらくしたらフリンティーズに駐屯するジーウ魔導師師団とイスカル騎士団が事態の収集にやってくる筈です。彼らのところに身を寄せてくださ——」


「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 ランドルフは慌ててアドルフの言葉を遮った。

「北はもう壊滅しているというのは、さっきの光のせいか? この惨状を見れば察しはつくが、それでも私は警備隊の大隊長だ、任務を放棄はできない。この子の保護者も北の厩舎にいるはずなんだ」


 受け入れ難い現実で、紛うことなき現実。


 ランドルフはそれを理解しているはずだが、どこか淡々と頑なに現実を受け入れることを拒否しているようだった。しかし、それはどう足掻いても変えることはできない現実、アドルフはゆっくりと首を横に振って見せた。

「ランドルフさん、あなたが守るべき壁も厩舎ももうないんです。この先にあるのは破滅だけ。だから、今、あなたが守るべきなのは、そこのアイネです」


 そう云うとアドルフはアイネにゆっくりと目を向けた。

 目の前の野伏の視線を追ったランドルフはアイネの頭に手を乗せると「わかりました」と一言口にした。するとどうだろう、それまで大隊長の陰に隠れおどおどした少女は毅然とアドルフを見据え、何かを押し測ろうとしているようだった。


「なんでそんなに簡単にわかったというの? もしかしたら皆んな助かっているかも知れないでしょ? なんでお兄ちゃんはもう無理だって知っているの?」

「アイネ何を言っているんだ……」


 ランドルフの手を頭から払い退け、腰に手を当てズイっと一歩前にでたアイネは綺麗な碧眼に薄らと涙を浮かべそう訴えた。


「だってそうでしょ? 私達を助けてくれたけれども、でも、この人達はそれから門の方を見てきたわけじゃないのに、なんで全部ダメだってわかるの?」


 確かに純粋な疑問で言いたいことはわかる。ランドルフはそれでもどこかで、この野伏と吟遊詩人を盲目的に信じている部分があった。だから、慌ててアイネを制したのだ。

 そのやり取りを見ていたアオイドスは訝しげにこの小さな弁士を見つめ、何を思いたったのかアイネと目線を合わせ彼女の肩に両手をおいた。


 そして、アイネの瞳の奥を見透かさんとばかりにじっと見つめ、口を開いた。


「アイネ、いい? 時間がないからよく聞いて。正直に云うわ。あなたのお父さんが戦った、あの大男、覚えているわね? あの大男の野望を阻止するのが私達の仕事の一つ。遠く北門に居座るのがその大男。そして、あなたとランドルフの命を護るのも私達の仕事の一つ。あなたは私のように聡明で頭が良いレディーよね? だから私の言葉の意味が理解できるわね。いい? お父さんから最後に言われた通り、あなたはトルステンのところに行ってこのことを伝えなさい。あなたはあなたの役目を果たして生き延びなさい」


 アオイドスはそういうと、アイネを優しく包み込むように抱きしめた。


 アイネは吟遊詩人の胸の中で、シクシクともう堪えることなく泣き出した。吟遊詩人の言葉が意味していること、それは父がもう絶命しているということ。大男のことはランドルフと吟遊詩人に話していない。それであるのに彼女はそれを知っていた。つまり、この純白の貴婦人は全ての顛末を知っていたと云うことだ。


「アオイドスさん、なんでお父さんを助けてくれなかったの? 知っていたんでしょ?」アイネは小さな顔を吟遊詩人の胸に預けながらそう呟いた。

「そうね。それは難しい質問ね。でも私達がお父さんの加勢にいったら、みんなが助からなかったの。だから私達はここであなたを待っていた。ごめんなさい」


 本当はそうではないのだが——

 アオイドスはアイネの頭を優しく抱え綺麗な金髪を撫でると、優しくゆっくりと体を離した。そして、背後に広がる瓦礫の山の向こうへ目を向け、相棒の野伏に何か伝えるように頷き、そのまま手を振った。


「さあ行きなさい。レディーは約束の時間に余裕をもって到着するものよ。そして少し先の未来を見透かすために色々と下調べしなさい」


 

 ランドルフは急いでアイネの手を引き、西へ駆け出した。そして逃げ惑う人々に声をかけながら使命をはたすのだった。小さなレディーは吟遊詩人達の姿が見えなくなるまでいつまでもそちらを見つめた。


 

「先生、あそこまで話してしまって大丈夫なんですか?」

 アドルフは魔力の奔流が通った跡––––見るも無惨な瓦礫の山と、燃え尽きることのなかった骸がぱちぱちと音を立てて燻っている––––を目にゆっくりと北に歩いた。


「ええ。あの子は他のネイティブとはちょっと違っていたわ。あそこまで伝えておかないと、自分であの獣のところへ戻っていたかも知れない」

「なるほど……。と、見えてきましたよ」


 アドルフの視線がとうとう北の大門を破った張本人を捉えたのだ。


 全身を黒い装備で固めた戦士達の軍隊。

 先刻、北の棚田を血で染め上げてきた獣の尖兵だ。それはやはり無言でゆっくりとした速歩で周囲を警戒しながら足を進め、そして立ち向かってくる警備隊の戦士達を斬り伏て行くのだった。もうそれは戦士達にとってのそのものだった。


 こうして、ダフロイトは<リードラン解放戦線>と思しき軍団の侵略を許したのであった。そして、ダフロイトから立ち昇る延焼の黒煙が天を覆い隠したのか、はたまた何かを隠そうと天が呼び込んだのか、次第に重く分厚い暗雲が垂れ込み夜空の輝きを奪って行った。



 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る