獣の花道




 ——???


 ここはどこだ?

 アッシュが寝転がるのは、何処までも広がる水面の上だった。不思議と水面は堅い。

 視界を遮るものはなく、押しつけがましく広大なそこは、見方によれば狭くもあり、どうにも曖昧な空間だといえた。

 何か記憶の端でも掴みたく周囲を見渡す。空を見上げる。鈍色の雲海が広がり地平線なり水平線なりに交わるまで広がり、きっとその先もそうなのだ。


 しかし。

 驚くことに、それはそこにあったのだ。はたして雲の中にはが浮かんでいた。世界の瓦礫。厩舎に馬車、城に豪華絢爛な館、スラム街の長屋、食卓に銀の燭台に木のスツール。あらゆるものが雲の中に浮かび解体され最後には青色の粒子となった。その隙間から、ふらりと顔を出したあらゆる生物と植物、海や川、山までもが、ゆっくりと皮を剥ぐように表層を捲られ粒子へと姿を変える。


 アッシュの横を掠めていくものがあった。

 それは、様々なヒトであった。水面には触れない高さで、いつの間にか揺蕩うそれも皮を捲られ中から粒子に姿を変えた。


「さて、これは何の冗談だ」

 あちこちに揺蕩う粒子を掻き分けたアッシュは黒鋼の両手剣を担ぐと外套を整えた。再びぐるりと見回してみる。解体されゆく様子があちこちにうかがえる。それ以外は何もない。その様子を歯牙にもかけないのは、先程から頸をピリピリと刺激する何かを感じたからだ。

 そして、その正体は直ぐに姿を現した。

 揺蕩うヒトに馬、猫、犬。様々な生き物の残滓を掻き分けて<宵闇>の前に現れたのは——随分としょぼくれた白狼であった。


「よもや、かような邂逅もあるのだな」

 声の主は目前の白狼だった。

「やっと、お喋りのできるお友達ができたと思ったら、なんだ、お前、ネリウスに取り憑いていた魔女の獣だろ」

「さあどうだろうな」

「とぼけるなよ狼」

 黒鋼が青色の粒子を掻き分け狼に向けられた。

 白狼は押し黙り、トボトボと歩くと黒鋼に流れる光の露を眼前に見た。そして鼻先に向けられた切っ先を視界の下に置くようにアッシュを見上げた。


「儂はあの魔女の下僕でも、ましてや飼い犬でもないからな」

「ああ、そうかい。それじゃ訊くが狼。一体全体ここはなんなんだ」

「さあな。儂にも皆目見当がつかぬ。だがしかしだ。さしずめ、世界の成れの果て、終末の贋作。そんなところだろうよ——」



 ——大雪像祭 翌日 ダフロイト警備隊本部。


 宵闇の鴉が警備隊本部に担ぎ込まれたのは今朝方だった。

 あれから随分と時間が経ち、すっかり陽の光が西に落ちた。エステルは片時もアッシュの傍を離れず顔を眺めた。アッシュは瞼を閉じたまま寝息を立てている。

 これからどうするのか? アッシュが目を覚ましたとしても、その後は? きっとそれでお別れになるはずだ。借りを返すまで着いていくとでも云うのか? それこそ、バッサリと断られておしまいだろう。きっとそうなのだ。

 私を助けたのなんて、きっと行きかけの駄賃。いえ、駄賃にもならないか。エステルは朝も昼も食事も水分も摂らず、そんなことを堂々巡りに考えていたのだ。


 ——コンコン。


 背後の扉が静かに開いた。

 顔を覗かせたのはランドルフだった。

 手に持ったトレイには暖かなスープと簡単なパンが乗せられていた。


「エステル、大丈夫ですか? 少しは口にしましょう」

 ランドルフは、ヒョイとトレイを軽く上げてみせた。

 エステルはそれに「ありがとう、でも——」と俯く。ランドルフは彼女の気掛かりを察してはいたが「駄目です。少しは食べてください。じゃないと身体を壊します」と顔をしかめて見せた。

 スープのいい匂いがエステルの鼻腔を刺激した。

 グゥゥ——どこからか腹の虫が鳴くのを感じる。

 ランドルフはトレイをそっとサイドボードに置くと、わざわざ大きな音をたて、暖炉の中でパチパチと音を立てる薪を掻き回した。

 新しい薪をくべていたから、きっとは聞こえていない。


「ありがとう、ランドルフ」

「何がです? それよりもスープを飲んでみてください。覚えていますか魔術師のルカ。あのブヨブヨ頭をやった。ええ、あの娘が準備してくれたのですよ。あいつ、ああ見えて家庭的なヤツなんです。ただの本の蟲じゃないんですよ」


 エステルは銀のスプーンで、皿の中でゴロゴロとしている野菜と肉を少し横に分けてから白くトロトロとしたスープを掬って口へ運んだ。

 あれから何も口にしていなかった。

 だからスープの温かさが胃に染み渡り、身体の芯がポッポとし始める。するとどうだろう、俄然食欲が湧いてくると云い忘れた「いただきます」を口にし、パンをむしり口に放り込む。


 エステル・アムネリス・フォン・ベーンは、マナーのない食べ方はきっとしない。でも今はただのエステル。食べること。それがこんなにも幸せなことなのだと生まれて初めて実感をした。そしてアムネリスでもベーンでもなく、ただのエステルとして食事を準備した隊員へ、心から感謝をした。気を遣い何を食べてるのかもわかりもしない館での食事はクソくらえだ。


「ルカにお礼を。生まれて初めてこんな美味しいスープを頂いたわ」

「そんな、大袈裟な。でも、きっと喜びます。ルカにそっくりそのまま伝えます」

「お願いします」エステルは微笑むと、ささやかだが世界一の食事を懸命に楽しんだ。

 その部屋は銀の燭台もレースのクロスもビロード張りの椅子もない、ただ角灯が明かりを灯す寂しい仮眠室であったが、今このひとときは、どこの迎賓館にも引けをとらぬ温もりと優しさに包まれている。





 ジルハードが本部に担ぎ込まれたのは、西に陽が落ちて直ぐの頃だった。

 橙に染まった街並みはそろそろ藍色の帷に溶けだして、儚げな影を落とし始める。少しすれば宿場街の宿屋が鎧戸をあけ酒客を呼び込み、通りでは街灯が灯される。


 意識呆然としたジルハードが警備巡回の小隊が壊滅したことを伝えたのは、エステルのささやかな食事が終わる頃だった。ランドルフがその報告をうけ「失礼します」と血相を欠いて仮眠室を飛び出していったのはつい先ほどだ。廊下が随分と騒がしくなり、幾つもの鉄や皮のブーツが板の間を強く踏み鳴らす音がエステルを随分と不安がらせた。


 再び仮眠室の扉が勢いよく開けられた。顔を覗かせたのは綺麗なブロンドと、ぶかぶかなローブが印象的な魔術師のルカだった。


「アムネリスさん、隊長から伝言です」

 エステルはルカの表情から外はのっぴきならぬ状況なのだろうと判断をした。そして「はい」と、ルカの言葉の前に身の回りの支度を始めた。


「たった今、外壁北門が所属不明の軍に破られ、内壁に取りつこうとしているようです。きっと街に雪崩れ込んでくるはず。ですので——」

「脱出ですね」

「はい、しかし——」

「大丈夫、アッシュは置いていきません。私がなんとかします」


 エステルの意志は強かった。

 これ以上は失礼にあたるとルカはエステルの真っ直な表情から察し「そうおっしゃるかと思いまして、これを」と紫色の液体が詰まった小瓶をエステルに差し出した。

「役に立つかわかりませんが、姿消しの薬です」

 ルカは小瓶を手渡すと続け様に「ご武運を」と残しその場を走り去っていった。

「ありがとう、ルカ」魔術師が颯爽と駆け出した跡にエステルは声をかけ、小瓶を握りしめた。

 

 きっと外は心無い侵略者のおかげで、蜂の巣を突っついたような騒ぎとなっている。

 そんな時に自分は何をしているのだろうか。外へ撃って出て共に戦うこともできない。このもどかしさは何だろうか。こんな気持ちになったのは生まれて初めてだ。それは、自分一人で生きているのではなく、誰かに助けられ生きているのだと実感をした瞬間でもあった。

 煌びやかなエイヤの館で想いもない男の伴侶となり、自分を道具としてしか見ない家族——男どものいいなりにとなり、そして、何よりも自分を捨てた生活の中では一生分からなかった気持ちだ。その場へ立ち尽くしたエステルは、手を開き小瓶を見つめてもう一度「ありがとう」と溢した。


 その時だ——ガサゴソと背後から衣擦れの音が微かに聞こえた。

 赤髪の姫は顔を綻ばせ、急いで振り返った。

 果たして、そこには起き上がったアッシュの姿があったのだ。


「アッシュ——気がついたのですね!」

 エステルの大きな瞳から大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。

「もう目を醒さないかと——」

「ここは?」

「ここは——」

 エステルはベッド脇に駆け寄り、勢いよく椅子に腰をかけるとアッシュの手を握りしめた。顔をくしゃくしゃに、事の顛末を足早に説明し今の状況も伝えた。


「随分と世話になったみたいだな」

「いいえ、私こそ命を救って頂きありがとうございます。なんとお礼を云って良いのか」

「礼? おかしな事を云う奴だな。お前も俺を助けてくれただろう。お互い様だ。あのままアレクシスにやられていたら、どうなっていたか俺にも想像がつかなかった。本当に助かった」

「いいえ、そんな」

「ところで、北の外門が破られたと云ったな」

「ええ。その伝言は今しがた。まだそれほど時間は経っていません」

「そうか——ダフロイトを攻めるなんてな。相手はどんな奴らか、わかるか?」

「いいえ、ただ、騒ぎの中で解放軍の名も聞こえたから、十中八九そうかと」

「なるほど——何が起きているんだ? どうにもアイツらの行方を追うと予想外のことが起こるな」

「アイツら?」

「ああ——なんでもない。こっちの話だ」


 アッシュはそう云うと、これまで昏睡状態だったのが嘘のように、ベッドから軽やかに降りた。すると小さな悲鳴が聞こえた。


「アッシュ、ふ、服を着てください」

 一糸纏わぬ姿で鍛え上げられた全身をさらけ出したアッシュを、エステルは両手で顔を覆い——指の隙間から覗き見ると耳の先まで真っ赤にした。

 長兄のアルベリク、次兄のアロイスのそれを目にしたことはあるが、それは御丁寧に鍛え上げられた身体。しかしアッシュのそれはどことなく違うように思えた。荒々しく活力にみなぎり、これもまた生まれて初めてみるものだった。


「なんだ、男の裸がそんなに珍しいか?」

「あ! いえ! 失礼しました!」


 エステルは、慌て振り返りアッシュに背を向けた。

 アッシュはそんな世間知らずの姫の挙動に目もくれず、丁寧に畳まれた服を着込み、そして装備を身に付けた。


「恥ずかしがることもないだろ。面白い奴だな」

 黒鋼の籠手のベルトを締めながらアッシュは、小さく笑い、最後は外套を着込み「もういいぞ」とエステルの背中に声をかけた。


「あ、はい(面白い奴だなって、普通恥ずかしいものでしょ? こんなの)」

 エステルは、そこはかとなく憮然とした気持ちでそう云と椅子の上でくるりと回り、もう素っ裸ではないアッシュに目を向けた。


「それでですね、アッシュ」

「ああ」

「ここから脱出をしてくれとランドルフ大隊長からの伝言で、急いでここを出ないと」

「そうか、それならお前は南に走ってフリンティーズまで逃げるんだ」

「え——あなたは?」

「俺はことの顛末を見届けなければならない」

「だったら私も——」

「ん?」

「私も同行させてください。どのみち——」


 エステルは言葉を詰まらせた。

 どのみち——どのみちなんだと云うのか? エイヤに戻るとでも云うのか? いや、もっと別の理由があるはずだ。借りを返す? それもそうだが、でもそれは法弁だ。

 どのみち——なんだと云うのだろう。


「どのみち——」

「ささっとしろ、外の様子がおかしいぞ」

 先ほどまで通りの灯だけがポツンポツンとしていた窓の外が薄らと蒼く染まっていた。それは砦でルカ達が放った奔流と同じ色だ。骸の巨人のブヨブヨ頭を吹き飛ばした破壊の光。魔力の光だ。

 慌て窓に駆け寄ったエステルは驚愕した。その光が包んでいたのは通りだけではなく、建物も空も同じく蒼く染め上げているようだったのだ。


 そして世界は弓なりに揺れだした。

 途方もない力で家屋や街路樹が北へ向かって丸くしなると、次第に本部がガタガタと音を立て始めた。


「魔導師、こっちへ!」

 叫んだのはアッシュだった。エステルのか細い腕を掴んだアッシュは力強く引き寄せ、抱きかかえそして蹲った。エステルを包み込んだアッシュの大きな身体が目の前にあった。エステルは何が起きたのか、何が起きようとしているのか、何も分からず、ただただ分厚い胸の中でアッシュの外套を握りしめていた。


「間に合えよ!」そう叫んだアッシュは片方の手で床を打ち据えた。すると、掌を中心に幾つもの青い線が広がり、幾何学模様が浮かび上がる。


「アッシュ!」

「黙ってろ! 解放戦線にこんな術式組める魔術師がいるなんて聞いてないぞ」


 青い光が本部を吹き飛ばすのと、アッシュから放たれた光が二人を包むのは、ほぼ同時だった。そしてダフロイトの北側半分は、ど真ん中に焼けただすすけた黒い筋が描かれた。

 それは、破滅への花道となり獣の侵攻を飾ったのだ。



 

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