六十五番目の狼
黒鳥が空を滑る。
鈍色の雲海を背に翔ぶ姿は翼が重たく踠くようだ。
でも軽やかな印象もある。
よく見れば、鳥は
ところで、寝そべるとはいうのだけれども、ここは凪の海原。だから浮かんでいると云うべきではないのか? 否。寝そべっているで正解だ。僕の背には何か硬いものしか感じられない。
もっというと、僕の傍で威風堂々と佇む山のような白狼は、前脚を立て座っている。だから僕は——しつこいようだが、寝そべっているで正解だ。
「それで——
成田山の除夜の鐘のように鈍い重厚な声が降ってきた。
寝そべりながら斜め四十五度に目を向け、その主を見れば、どうだろう赤黒い瞳が僕を見下ろしていた。
——なんで、こうなった」
そう。白狼は人の言葉を話すのだ。
これがバーナーズだ。
六十五番目の狼。
七つの獣の一角。
神喰らい。
魔女の敵。
狼に名前はなかった。
正確には名前はあったのだが魔女に奪われたのだ。名前がない故に分別を持たず思うがまま怒りを周囲に撒き散らし、死を呼び込んだ。だから僕はこの厄介者に名前を与えて縛ったというわけだ。
それ以来、何があってもバーナーズはこの巨躯の白狼という<写しが身>を解こうとはしなかった。
<写しが身>とはバーナーズの言葉だが、どうやらそれが意味するところは、僕らの世界で云うところの<シェル>つまり、仮想世界での自分。古い言い方をすれば<アバター>とか<キャラクター>という概念と一緒のようだ。
「それで、なんでこうなった」
兎に角、そんな訳でバーナーズはしっかりと不服そうに、まるっきり不機嫌さを隠すことなく、そう僕に訊ねてきたのだ。
それに僕は答える事なく焦点を白狼から外した。奥に広がる雲海を眺めたのだ。黒い鳥が今度は滑るよう直上で旋回し始めたからだ。相変わらず
どうにもあの黒いのから目が離せない。
何かを考えようとすれば、それを合図に磁石が引っ付くかのように目線を持っていかれる。もう少し分かりやすく云うのであれば、くっついて欲しく無いのにオブジェクトがガイドラインにスナップするあの感じだ。そうなって欲しくないのになってしまうあの感じは、どうにも苛立ちを感じてしまう。
側からみれば呆けているように思える僕にバーナーズは苛立ちを感じ、赤黒い瞳を僕の視線に合わせ、奥を覗き込むようにグイッと顔を近づけた。黒い鳥の姿がカシャっと消え、しかめっつらの狼が視界を埋めた。
「ちょっと、近いよ。顔を退けてよバーナーズ」
僕は思わず自分のことを棚に上げ苦情がましくそう云った。
「なんでこんなことになったかを訊いている」
こんなこと? 一体なんのことなのかちょっとよく分からない。そんな顔をする僕へ白狼は腹の底から溜息を漏らした。訝しげな顔を落とした白狼は、先ほどから顔を避けるように視線をズラす僕の行動に気が付くと、ゆっくりと空を見上げ「嗚呼」と小さく漏らした。
「記憶の鴉か」
「記憶の鴉?」
「ああ。存在としては儂と同じ、かつてお前であったものだ」
「難しいことを云うね」
「そうか? そもそも儂はお前の
「やっぱり難しいね」
「そうか?」
「うん、そうだよ」
「いずれにせよだ。あの鴉を呼び戻せば全てを思い出す」
なんとなく投げやりな答えに続きがあるのかと待ってみるが、どうもそれで終わりのようだった。なので、話題を切り替えてみることにした。そもそも君はなんなのかと。
白狼は僕にそう訊ねられると、ゆっくりと真正面にいる僕へ鼻面を近づける。やっぱりゆっくり、深く鈍い声で、一字一句を刻み込むようにこう答え始めた。
「憤怒。つまりお前が抱いた怒りの感情とその記憶だ。あの鴉が抱くのは他人に与えられたものだが、儂はお前が抱いたそれそのものだ」
「ごめんバーナーズ———
あまりにも近い鼻面を押し返しながら僕はそう断りをいれ、言葉を続けた。
———何云ってるのか全然わからないや」
そして、はにかんだ。
がふぅ。
イヌ科の生物というものはネコ科と比べ表情が豊かだと思っているのだけれど、ここまで露骨に呆れたという表情を浮かべるのを見ると、イヌに似た巨人か何かがそうしているのではないかと疑ってしまう。その溜息もそうだ。あからさますぎて、僕は小さく笑いを溢してしまう。そういう場面ではないことはわかっているのだが、なんだか可笑しく思ってしまうのだ。
呆れた顔の白狼はそんな僕を他所に小言をいうように続けた。
「リードランのことは覚えているか」
「勿論、覚えているよ」
「では、超人工知能とバイオノイドのパッケージ化に成功したエンジニアの名は?」
「え? 乃木希次——そんなのは常識でしょ」
「うむ。では、脳科学を礎とした生命学者であり、量子力学の分野でも名を馳せた人物は誰だ」
「二人いると想うのだけれど、クロフォード・アーカムは素粒子の分野で——」
「女の方だ」
「ああ、じゃあ乃木寿子」
「うむ。ではその乃木希次と寿子の間に生まれた子供の名は」
「乃木
「そうだな。それはお前だ」
「ん? なるほどって云えば良い?」
「いいや」
「それで?」
「うむ。では訊ねるがお前の名は?」
「えええ! 何を今更、僕の名前は——」
昨晩最後に、口にしたのはコンビニのブリトー。
しかもダブルチーズ。
やっぱりメキシコのに比べればチーズの量は物足りないし、そもそも小さい。だから、あれはオヤツと云っていい。それは想い出せる。いや知識として持ち合わせている。
でも、それを誰と食べたのかが想い出せない。リードランから帰還してからは、誰かしらかと一緒にいたはずなのだ。しかしそれが想い出せない。想い出そうとすると目の奥が重くなり、なんだか頭の中へ薄皮が一枚貼られたような気分になってしまう。
そして、極め付けがこれだ。
「バーナーズ」
「ん?」——やっぱり大仰な白狼は、したり顔で僕を見下ろしている。
「どういうことこれ?」
「何がだ」
「自分の名前が——」
「思い出せないのだろ?」
どうやらこの白狼は全てを知っているようだ。そして、この機を待っていたようでもあった。その証拠に、したり顔をそのままに鼻面を僕に近づけ言葉を続けた。
「お前の名は乃木無人。『むじん』と書いてナキトだ。乃木希次と寿子の息子。そして、あの空を旋回するのはお前の思い出や記憶。まあ訊け、順を追って説明してやろう———
口を挟もうとした僕を白狼は制して、言葉を続ける。
———あの鴉を呼び戻せば全てを思い出し、止まっておった奔流が流れ始める。だが、そうなってはもう待った無しだ。だから先に要点を話しておくぞ。幸いにお前は知識もあり、考えることもできるからな。まずは、ここの話だ」
僕はこうなったバーナーズが何を云っても止まらないことを知っているようだ。だから、もう諦めその場に座り込むと、白狼もそれに合わせ四肢をたたみ僕に目線を合わせ話を続けた。
「結論から云うと、ここは世界が世界となる前の姿だ。お前達の世界は、とある魔女によって砕かれ、この姿に戻った。云うてみればそれは粘土細工を集めて、丸めて、そして引き伸ばしたような状態だ。魔女はそれを<原初の海>と云うておったな。今、儂らが腰を降ろしているこれがそうだ」
そう云って、バーナーズは大きな音を立てて尻尾で海原を叩きつけた。
僕の目の前にまで飛沫が飛んできたのは、意地の悪い白狼の意地悪な計らいだろう。
「そして、あの空だ。あれは空と云うよりも世界の先で幾つもの世界を包み込む宙との接地面だ。あの雲のようなものは全てがお前らの言葉で云えば、<情報>というのが一番近いだろう。あれはこの<原初の海>に降りてくると世界は再び形造られる。この引き伸ばされた泥からな」
——ちょっと待って。と、僕は堪らず白狼を遮った。
「だとしたら、僕らはなんでここにいるの?」
世界がどうのはもう今更だし、驚くことも、追求する気もないが、世界がこんな状態になっているのに、なぜ僕らだけが存在しているのか。
「うむ。
結局、僕の疑問には答えない白狼に「嗚呼、うん」と諦め口調で僕は答え、仕方なく話の続きを促した。この調子であれば、そのうちその疑問も明らかにしてくれるだろうと期待をしてだ。
「お前の血筋は、いつの世代からかは知らないが、自身を強く持つ力を持っておる。想いの強さというやつなのか、引き付ける力なのか、それはわからんが兎に角この場で存在できる特異な存在だ。そして、あの雲さえもお前のその想いの強さで書き換えることができるそうだ」
これまで意気揚々と話した白狼だったが、ここにきて歯切れの悪くなったのに気がついた僕は、怪訝な顔でバーナーズを覗きこむ。
「本題の割には随分と歯切れが悪くなったね」
「嗚呼、そうだな。正直なところ魔女の受け売りでもあるから、なかなか腹の底から話せんな。まあいいさ、そんなことでお前の一部である儂や鴉もここに存在しておる。鴉は名を持たぬ故にお前に還れる。そう言うことだ」
したり顔から憮然に。白狼の表情は四季の移ろいよりもはっきりしている。それが四季であるならば、この先に夏の嵐を呼び込み、平穏な世界の終わりと始まりを荒波で荒らすことになる。
そして、世界の種を植えるため六十五番目の狼は話しを続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます