泥の神



 

 白狼いわく世界は丸めた泥を薄く引き延ばしたようなもの。

 その泥は器の中身がそこに触れさえすれば、それに呼応し相応しい形でそこにのだそうだ。いってみれば僕らは、その世界の泥人形な訳である。では、その中身とやらは、あの雲らしきものがソレで、雲は質量がないのか引力に影響されていないのかは知らないが下に降りてくる気配はない。今の所は。


 じゃあ、無理ではないか——それでは世界は始まらない。


 そう、そこで僕の出番らしい。

 バーナーズの云った血筋が持つ力、想いを強く持つというは実際のところは強い引力のようなものなのだそうだ。だから、あの雲の一切を手打ち網にかかった魚群を手繰るように、引き下ろすことが出来る。

 なんという御都合主義か。

 しかし、これは太古から語り継がれた人類、いや宇宙の記憶でくだんの魔女はそれを何度も繰り返し、なぞらえているのだそうだ。それがなんの為かは知らないが僕は繰り返されるたびに呆けてこの場に立っているという訳だ。



「それでね、バーナーズ——

 ぽっかりできた隙間に、僕は、するりと言葉を滑りこませた。

——僕がそんな特別な力を持っているなら、この先どうすれば良いのかな?」

「ふむ。魔女は何度目かの選択をせまり、お前は何度もそれを受け入れて何度も同じ選択をしている。だが今回は何かが違うようだ。魔女はいつになく焦っているようだな」

「だから、バーナーズ——」

「分かっておるわい。今からお前にあの鴉を戻す。何から何までの記憶に感情が凝縮され襲いかかるから相当に辛いと思うぞ。辛抱してくれ。それが終わればまたに戻り、最後の選択を——」


 白狼は歯切れ悪く、いや寧ろ歯切れ良くそこで言葉を切り落とした。すると、怪訝に目を細め僕の向こうに視線をやった。赤黒い瞳の縦線がキュッと細くなり何かを捕らえた。僕はそれに気がつき、ゆっくりと後ろを振り返る。


 それまでは、<原初の海>は静寂に包まれていた。


 聞こえてくるのは雷らしきものの遠鳴りだけだったが、どうだろう、僕とバーナーズがを見ると世界は騒々しく音を立て始めた。それが、何かの多種多様な言葉であることに気がつくには、そう時間はかからなかった。

 を見るとバーナーズは、かぶりを廻らせ言葉に耳をそばたて、これまで見せたことのない表情——鼻面に皺を寄せ口角から牙を覗かせ、威嚇のそれを見せた。一転した状況に思わず「バーナーズ?」と様子を伺ったが、白狼はそれに答えなかった。


 はたして、その視線の先にいたのは——


「あら、バーナーズ。お久しぶりね」

 華奢な身体のラインを、ふんわりとした白いワンピースに見え隠れさせながら、白銀の魔女は<原初の海>を歩いてきた。膝下で裾を揺らし白磁のような白い足を優雅に——爪先から——降ろして歩くその姿は、そこはかとなく白いフラミンゴのようであった。

 軽やかに足を運ぶ彼女の爪先には青海波せいがいはのように幾つもの水紋がリズミカルに描かれ、そして遠くで重なると弱々しい新たなそれを生み出しては弱々しく消えていく。そうやって彼女は僕らの前にやってくると、背中で両手を組んで「うんうん、まだムニンは戻っていないよね」と鈴を小さく鳴らしたような声で、そう云ったのだ。

 

「なぜお前がここにきた」白狼は牙を剥き出したまま唸るように訊ねた。

「あら、来たら悪かった?」

 魔女は楽しそうに猫目を爛々とすると白狼にやり返す。そして、小ぶりな口に可愛らしく笑みをつくると、優雅に人差し指を空に向け、ゆっくりとそれを降ろしていく。するとどうだろう。指先に溜まった珠のような光が<原初の海>へ溢れていく。珠の光は水面に姿を打つと大きく上下に揺れた。


「歩き回ったから疲れちゃった。申し訳ないけれど座らせてもらうね」


 どんな我が儘だって許される。そんな自信に満ち溢れた笑顔で魔女は云った。揺れる水面の頂点を、ヨイショと摘み引き上げる。


 ところで、ご存知だろうか?

 太古に存在した浅草のマジシャンは布の中から、ボールや鳩に犬や猫、そして美女を産み出したのだと文献に記載される。その光景は、ちょうどそんな感じで、摘み上げられた水面が一脚の白い椅子となり魔女の小降りな臀部でんぶを乗せ水面に落ち着いたのだ。


「ちょっと、何それ手品?」と、僕。至って真剣だ。

「そんなわけあるか、阿呆」と、バーナーズは鼻面で僕を小突く。


 これはマジシャンの奇跡を目の当たりにしたオーディエンスの正しい反応ではない。どちらかといえば、浅草のコメディアンの文脈に近い。

 兎に角、夫婦漫才ということではないのだけれども、元は僕の一部だったというバーナーズの的確で鋭い指摘は、髪の一本の隙間も開けずに僕へ向けられた。確かに。この状況でそれを手品だという僕もズレている認識はあるけれど、なんというか、もうその不思議な光景にはその一言しか出てこなかったわけだ。


 魔女は楽しそうにそのやり取りを眺めると、クスクスと微笑み僕らにどこか愛おしそうな眼差しを向けた。


「ナキトとバーナーズがこうやって並ぶことって今まであった?」

「いや、ないな」ふてぶてしく白狼は答える。

「そう」魔女はそれに憮然と漏らす。

「ああ、そうだ」

「少し前かな、私ね——」

「おい魔女」白狼がズイッと前に一歩踏み出し魔女の言葉を遮った。

「何よ、くたびれ狼」鈴の音は一転し、銅の鐘の音となり重々しく魔女の口から溢れた。

「言葉遊びはよせ。なぜここに来たのかを訊いておるのだ。それに答えろ」

「あら、せっかちな男はモテないって陽菜ちゃんが云ってたわよ」

「だから、それをよせと云っている」


 ふん——魔女は口を膨らませ、そっぽを向いて鼻を鳴らした。


 僕はなんというか、こういう雰囲気がともかく苦手なようで胸をワナワナとさせた。

 ちょっと二人とも——と割って入りたくなる衝動に駆られるが、しかし、この狼と少女の間に流れる如何ともし難い、目に見えない刃の嵐のような空気を押し分けていく気概はどうにも湧かなかった。そんな臆病な僕の心中を察しない二人は言葉を重ね合う。


「私がここに来た理由なんて一つよ。これは何度も行われてきたヒエロスガモスで私はその花嫁。そう、主役よ。黙ってバーナーズ、あなたの意見は訊いていない。そう、今回はいつものとは違うの。これまで私が観測してきた<原初の海>とは別の海からやってきた泥棒猫のおかげで、もう一つの可能性が生まれたの。そう、もう一つ別の海を見つけたのよ。これはその海をリードランに書き換えるための祭壇なの。そのために私は——」


 魔女はそう云って強く足を踏み鳴らした。

 水面はキラキラと飛沫をあげ、目をキッとした魔女との間に水のカーテンを作った。気のせいか僕にはその双眸が青く濡れているように思えた。すると、言葉を遮られた白狼は呆れた顔で静かで重苦しく言葉を挟む。


「だが、魔女よ。そんな与太話を誰が信じるのだ。この状況だ、世界が砕け再びここから始まるというのは信じても、それを書き換えるなどと、なんだナキトは泥の神だとでも云うのか?」

「いいえ、それは間違った解釈よ」


 魔女は静かにそう云うと手のひらを耳に当てて言葉を続けた。

 

「聞こえる、この騒めき。これはみんなこれから神と呼ばれる事柄の。バーナーズ、あなたと同じ。あなたも騒めきの中から名を与えられたでしょ?勝手に名付けられ神となった存在。神なんてそんなもの。でもね、ナキトは結局それが騒々しくて、嫌で、なかったことにしちゃおうとするの」


 魔女はそう云うと、椅子から立ち上がり、くるりと踵を返し、一歩二歩と遠ざかった。水面の椅子はそれに合わせ、静かに還っていく。


「答えになっとらんよ」遠ざかる魔女を赤黒の瞳は一時も離さない。


「いいえ、それが答えよ狼。だからナキトを神なんかにはしない。ナキトが思い描いた<世界の卵>から神が生まれて新しい世界を形造るの。ナキトはそこで普通の人間として暮らせる。私もそう。花嫁としての役割を終えれば普通の人よ。だからそこでもう一度ナキトに出会って恋をするの。もしかしたら失恋しちゃうかもしれないけれど、最後にはやっぱり二人は結ばれるの」


 もう一度、ふわりと裾を揺らし踵を返した魔女はこちらを向いた。

 流れた銀髪が綺麗に半円を描き背に戻るその様は、絹の布をふわりと肩にまとわせるように軽やかで上品さを感じる。


 どうも僕はその姿に目を奪われてしまっていた。


 もしかしたら、彼女のその歪んだ好意にどこか気持ちを引っ張られているのかも知れない。言い換えれば、それは「チョロい男」ということなのかも知れないが、振り向いた彼女の瞳から溢れた一筋の涙が、その原因であることは間違いない。


「ちょっと待ってよ二人とも。僕が一体なんなのかは分からないけれど、でも、僕は何も覚えていないし、何も知らない。だからこの先どうすれば良いかを知りたいんだ」


 僕は惹かれた心を懸命に手繰り寄せ、そして自分の言葉でようやく道を切り開こうという気になったのだけれど、それでも、あまりにも知らないことが多すぎる。だから、知らないことを知るために二人の間に割って入ったのだ。なんだったら抜き身の言葉の刃に切り刻まれることも恐れずにだ。


 もう言葉は要らぬとばかりに今にも魔女へ飛びかかりそうなバーナーズと、それを察した魔女の剣幕は、僕のその言葉に一旦は鳴りを潜めた。

 まるでその時間は薄く引き伸ばされた鋼のように冷たく鋭く、少しでも動けば四肢を切り落としてしまうのではないか。短くも長く、鈍くも鋭く、そして何よりも重かった。

 最初に動いたのは魔女だった。

 溢れ落ちてくる涙を懸命に手で拭い、何度か鼻をすすった。


「わかったわ。ここに辿り着いた理由は私もまたナキトの一部となって引力に引き寄せられたと思ったのだけれど、やっぱりそんな上手い話はないわよね。いいわ。じゃあ、いつも通りにあの鴉を戻して全てを知ってから話の続きをしましょう」

「なんだ妙に物分かりがいいな」怪訝な顔をした白狼がくぐもった声でそう云った。

「そうね。新郎がこんな調子じゃ新婦はたまったもんじゃないからね。ここは大人しく見守ってあげる。幸いにここじゃ時間なんて——」

「そんな無粋なものは存在しないからな」

「だからなんで僕をそっちのけで話が進むのさ」

「ああ、ごめんねナキト。それじゃ——そんな汚いティーシャツにジーンズじゃ祭壇に相応しくないから着替えなければね」涙痕残る頬をクイっと小さくあげて微笑んだ魔女はそう云うと、白狼に目配せをした。


「邪魔はしてくれるなよ魔女」

「ええ、わかっている。私が今ここに存在しているというだけで、大きな進展。これ以上、今は望まないわ」

「今は——か。まあ良い」


 白狼はそう云うと、かぶりを僕に向け、例の如く鼻面を近づけ言葉を続ける。


「ナキト、いずれにせよだ。お前はお前の全てをここで取り戻さないことにはこの先は無い。良いか、次にお前がここに立つ時はきっとこの魔女がお前を迎える。儂はお前の中に還っておるはずだ。だから、もうここではお別れだ。ゆめゆめ忘れるな、この魔女に心折られ屈することだけはするな。それはきっとお前の中に遺恨を残し、またお前は謂れのない罪に苛まれることとなる。よいな」



 バーナーズは僕の父が、乃木希次だと云った。父という存在については理解があるが、それは紐ついていない。もしあの天才エンジニアが僕の父ならば、このように子供に云い聞かせたのだろうか。

 もしかしたら、そうなのかも知れないな。僕は、そこはかとなく、そのように感じながらバーナーズの言葉を聞いていた。僕の心は決まった。


「本人を前にして、随分な言い草ね、バーナーズ」魔女はそう云うと抗議の意なのか、両手を腰に据えた。

「今更だろ」白狼は鋭く赤黒い視線を魔女に投げた。

「それで、僕はどうすれば……と何度も——」

「わかっておる。いちいちあの女が茶々を入れてくるのが悪いのだ」


 ふん——それに魔女はプイとそっぽを向いて鼻を鳴らすだけだった。


「よし。それでは、目を閉じるのだ」

「え?それだけ」

「ああ、それだけだ」

「随分と——」

「簡単か?」

「うん」


「苦難の最初というのはいつでも簡単に見えるものさ。逃げ出そうとすることも、誤魔化すこともできる。が、それは際限なく膨らむ雪だるまとなってお前を追いかけるのだ。そしてどこかでそれを打ち砕けなくなる。だから、そうならないよう気を付けろと云うわけだ」


 最後に白狼は大きく笑い、天を仰ぎ耳をつんざく遠吠えを放った。

 それは空にも届き、まるで雲を割ったように思えた。空を大きく旋回した逆さまの鴉はその弧を次第に小さく円錐を描きながら急降下する。


 僕が最後に見たのはそんな光景だった。

 そして僕の意識は得体の知れない何かに潜り込むと、次に見たのは純白の外套に身を包んだ人間の姿であった。それは月明かりの届かない大森林を、やはり純白の軍馬で駆けていた。



0_Kissing a fool (before the epilogue)_Quit



 

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