第9話 僕らが旅に出る理由

雨でぬかるんだ脇道を抜け、アスファルトの坂を上りきると、風見鶏が屋根のてっぺんで鎮座する、大きな洋館が見えてくる。俺が鉄製の柵を開け、重厚なドアに二回ノックをするとパジャマ姿の女性が現れた。

「久しぶり」

「久しぶり」

「2週間とか、そのくらい?」

「もっとじゃないか。あ、傘はここに掛けておいていいか」

「まあ、いいけどちょっと汚れるの嫌かな」

「じゃあ、外に出しておこうか」

「いえ、いいわ」

能間は眠たそうに目をこすりながら、キッチンへと向かう。

「コーヒーはいい」

「私が飲みたいの」

「……そうか。その一つ聞いていいか?」

「どうぞ」

「いつ引っ越すんだ?」

「明後日」

「そうか」

ヤカンが火にあてられる音がする。能間はくしゃくしゃの長い髪を後ろに払い、両手を腰につけてヤカンをじっと見ている。

「今から朝食か?」

「ええ、あんたも食べる?」

「いや、まあ、じゃあおかまいなく」

「じゃあ、コーヒーも?」

「ああ」

心地よい朝だった。少し前までの暑さが消え去り、空は夏よりも青みを増したように思えた。冬を感じさせる空気はフローリングの床を冷やして、能間は素足をじたばたさせながら歩いていた。

朝食は以下のようなものだった。

・カリカリに焼いたベーコン

・スクランブルエッグ

・キャベツとニンジンのサラダ

・フレンチトースト(はちみつがやけに多かった)

食事にありつくころには10時を過ぎていた。俺はコーヒーから香りだつ湯気を見ながら、不思議な心の平穏を覚えていた。

「朝食をゆっくり食べるっていいな」

「ゆっくり食べてないの?」

まだ少し眠たげな顔で彼女が聞く。

「そりゃ、まあ平日は会社だし食べないことも多い。休日は……なんだろうな。こんな豪勢な食事は食ってないよ」

「別に豪勢じゃないわ。平日でもなんでも朝は食べておかないと」

「まあ、だから俺が言いたいのは、ここでゆっくり朝食を食べてることが幸せだってことだよ」

能間はフレンチトーストを口に含んだ。それが会話を途切れさせ、少しの間食器の音だけが響き渡る。

このがらんどうのダイニングに、そして本のない書斎。もぬけの殻寸前のこの館にただ一つ生気があるとすればこのテーブルだけだった。

「ありがとう」

フレンチトーストを食道に流し込んだ能間が言う。

「え?」

「さっきの言葉。嬉しかった」


俺がここに来たのは、久しぶりにあの劇場で映画が上映されるからだった。『冷静と情熱のあいだ』という映画だが、俺はこの映画があまり好きではなかった。だが、なぜか惹かれるものがあり暇があれば繰り返し見ていた。

今回、あのバレエの劇場で上映されるということで、俺は能間を誘おうと思ったのだった。彼女に映画の事を話すと一言「あの映画はあんまり好きじゃないわ」と言われた。

「ケーリー・チャンは日本人だったかしら」

「いや、香港から来た留学生だったはず」

「ああ、そう。じゃあなんであんまり好きじゃないんだろう」

「あんまりおぼえていないのか」

「うん。だからなんでケーリー・チャンはこんなに片言なんだろうってずっと思ってた」

「それが好きじゃない理由?」

「そう」

彼女は秋にはまだ早い厚手のジャケットを羽織り、時計を身に着け(なんと懐中時計だった)、そしてニコンのデジタルカメラを手に持った。

「なんでカメラ?」

「一応、この街を残しておこうと」

「へえ、意外だな。そういうの全く興味がないと思ってた」

俺は嫌味で言ったわけではなかったが、能間は俺の言葉を無視してさっさと玄関を開ける。俺は慌てて後を追った。


坂を下っていくと、太平洋が近づいてくるのが分かる。俺は小さいころ瀬戸内海しか知らなかったから、初めてこの海を見た時、このどこまでも続く水平線に恐怖を覚えたものだった。

暫く歩くとあの公園が現れた。滝は相も変わらず音を立てて落ち、寒々しくなってきた空気をさらに冷ますかのようだった。

「秋は好き?」

「冬が好きだ」

「私も」

「理由は?」

「なんとなく、きれいでしょ」

水に囲まれたガゼボに座り、しばらく公園を俯瞰して眺めていた。父親が子供を股の間に座らせて滑り台をゆっくりと滑り降りていく。少女が飛び石を慎重に渡っていく。俺は妙にセンチメンタルな気持ちになり、少しうつむいた。

と、同時にフラッシュがたかれる。

「なんだよ」

「これも残しものだから」

彼女はデジタルカメラの画面をのぞき込む。俺は立ち上がり、後ろから画面を見た。

ありきたりな風景ばかり。海と、少しうねる道と、そして成金趣味な住宅と。

「不思議ね」

「何が」

「カメラの向こうは何でも遠くみえる」

「……ああ」

彼女は図書館をファインダーに写し取る。何処のだれがデザインしたのかわからない角ばったデザインの図書館は小さく、遠く、彼女の手に収まっている。


中学校の体育館にあるそれのように小さくちゃちなスクリーンに映し出されたのは東宝の二文字と、そしてケリー・チャンの指先と、そしてフィレンツェの町並みだった。俺たちのように若い観客はおらず、ただマナーよく座席に腰掛け銀幕を眺めている。

映画が始まって暫くして、俺はこの映画の映像と音楽が好きなことに気づいた。話の内容は良いとは思えない。どれだけ万人に受けたかもわからない。ただ、流れていくイタリアの日常と言う名の非日常と、それを包み込む感傷的な音楽が、この作品をこの作品たらしめているのかもしれない。

俺はそんな素人くさい品評を頭に思い浮かべながら、映画の中で過ぎてゆく矢のように早い時間を、ゆったりと腰を椅子に沈めながら眺めていた。

映画はエンヤのエンディング曲で終わりを告げる。

俺が右横を見ると、能間も俺の方を見ていた。その瞳には間違いなく俺がいて、そして俺の瞳は彼女を映し出している。

「やっぱり、ちょっと苦手」

彼女はゆっくりと俺に近づき、耳にささやく。

「でも、良い映画だわ」

クレジットは終わりに近づいていた。


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リリシズム キツノ @giradoga

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