第8話 幸せな結末

髪を後ろで束ね、自分の顔を何度も左右から確認する。

歯を磨いているときも、顔を洗った後もわたしはその充血気味の目で自分の顔を見つめていた。

家(アパート)を出て直ぐにむっとした湿気に襲われる。セミがどこかで鳴いている。闇に白い光がともっている。

しばらく歩くと、背中に汗が浮かんでいることがわかった。黄色い照明があたりを照らし、赤や、白の祭り屋台がそこらじゅうを敷き詰めていた。

「おお、佐藤」

彼は私の服装を見て腑抜けた挨拶をする。わたしは右の袖をつまんで見せた。

「どう?」

「ええ感じ」

倉本君はお世辞か、それとも本気なのかよくわからない返事をする。

「こんなの久しぶりじゃない?」

「小学校以来かな」

「えっ、わたし中学も高校も行ってたよ」

「男は変な恥ずかしさを持つから」

彼は目をそわそわと何処かへ向けている。誰かの落としたタコせんのかけらがこなごなに割れていた。子供がわけもなく走り回っている。

「スーパーボールすくいってさ」

「うん」

「持って帰ったスーパーボール見ていらないなって」

「わたし、よく金魚すくいでよくそうなってた。家に水槽なんてないでしょって。あれどうしてたのかな。お店に返してたのかな」

「金魚か。大人になってみれば子供って先の事考えてないよな」

わたしはスーパーボールすくいの前で立ち止まった。カラフルなポップとそして年配の主人。小さな男の子が一人、その薄い膜をボールに慎重に近づけていた。

倉本君は前かがみになってその様子を見ていた。水面に斜めに入れられたポイは勢いをつけて引き上げられる。ボールは一瞬宙に浮いたが、すぐに水面へと引き戻される。やわらかい膜は破け、そしてぱっくりと穴があいた。

「やってみる?」

わたしが言うと彼は頷く。

店主からポイを受け取ると、彼はまず膜を水に浸しそのまま水中に沈め、浮遊するスーパーボールの群れを漁網のようにすくい出す。

膜は破れたが、ポイのフレームに引っ掛かり二つのスーパーボールが小さなバケツに入り込んだ。赤と青。

「やった」

わたしが言うと、彼は絵になる微笑を浮かべる。

屋台から離れ、少しして赤と青のスーパーボールがわたしの右手にもたらされた。濡れていた水の感触が残っていてわたしは自分の熱い手でその感触を確かめた。

「花火はいつから?」

わたしは聞く。

「ごめん、覚えていない」

「そっか」

「去年も花火はあった?」

今度は彼が聞く。

「去年はなかったはず。よくわからないけど」

「そうだった。地元じゃ花火なんて打ち上げてなかったから」

「平地限定だよね、あれって。でも一回、池田の花火を高台から見たことあるよ」

「え?何丁目から?」

「2丁目から。わざわざ車で連れて行ってもらって」

人間が本当に楽しい瞬間は人と喋っているときかもしれない。わたしと彼はただ歩いていて、そして喋っていた。時間は1時間が30分に思えるくらい心地よいスピードで過ぎていく。


海岸のコンクリートの階段に腰を下ろし、ただ海を眺めている。暗い水平線の向こうに海沿いの町が見えた。それは光の粒の集合体で、夜の星々よりも明るく空を照らしていた。

「仕事はどう?順調?」

彼はコーラを右手に持ち、左手を支えにしていた。

生暖かい風が吹く。波が反復する。

「順調じゃないの」

「え?」

「全然順調じゃないの。わたしいつもへまばっかりで、怒られて、自分が嫌になって。でもそんなでも、月並みな表現だけど頑張りたいなって最近思えるようになってきたの……その」

わたしは彼の目を見る。茶褐色のその目にわたしは映り込んでいる。

大きな破裂音がした。暗闇に放射状に線が引かれ、そして消えていく。

花火は何度も上がり、そして消えていく。わたしの小さな声ではどうしようもないことだった。それはこれまで見たどの花火よりも大きく、そして見事だった。


最後の花火が放たれて、祭りが終わっても、わたしたちはまだ海と陸の境界を歩いていた。話はさすがに尽きてきている。暗い海に光る船を見て、それを話しの題材にするほどだった。

でも、なんだか帰る気にはなれなかった。

松で覆われた遊歩道を歩いて、そしてしばらくして彼が振り返る。

「そろそろ帰る?」

彼が聞く。

「……うん」

「そうか」

倉本君はポケットに両手に突っ込んだまま地面を見て苦笑する。

「佐藤は、明日仕事?」

「うん。日曜の夜って、一週間で2番目につらい」

「一番つらいのは?」

「明日の朝」

わたしは後ろでに手を組んで指を絡ませた。

「佐藤」

「うん」

「もう少しここにいよう」

「うん」

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