第7話 電話ボックス

水出しのコーヒーを作ってみた。製氷皿の氷をコップに入れ、8時間で溶けだした茶色い液体を氷の谷に行き渡らせる。旅行ガイドブックを片手にジャズのBGMを聴いていると(この表現は少しおかしい。ガイドブックがメインでサウンドトラックは流しているだけだ)、電話が掛かってきた。

「倉本君」

佐藤だった。

「おお」

「明日って暇?」

「ああ、……花火があるな」

「もう誰かと約束しちゃってた?」

「いやいや、そんなことない」

「じゃあ、明日のいつがいいかな?花火自体は8時からだって」

「出店が6時くらいから出てたから、1時間前くらいでいいんじゃない」

「じゃあ、決まりね。明日の7時に鳥居の前に集合で」

やけに手際がよかった。俺は布団に寝っ転がり、90度傾いた時計を見やる。

7時から8時の間を秒針が通り過ぎていく。俺は秒針の音を頭の中で鳴らしながら胸の苦しさを感じていた。だが、コーヒーに含まれるカフェインの効果もむなしく俺は心地よいまどろみに包まれていく。自分の匂いと超冷感布団に包まれながら、俺は車に乗り、郊外の道を走らせていた。

佐藤が助手席に乗り、窓にへばりついて景色を眺めている。街は小さく、田園にぽつりと現れ、そして青信号と共に消えていく。

「あ、おたからやがあるよ。こんなとこにもあるんだね」

「コロッケの顔のやつ?」

「そうそう、浜村淳のやつもあるかな」

「さすがに関西ローカルやろあれは」

ゆるい坂道を抜けていく。脇目にちらちらと外を見やると、鮮やかな青色の丘が緩やかな勾配をつけながら流れていき、心地よい閉塞感がある。坂道を登りきると道の端に観光客向けの駐車スペースがあり、俺はそこに車を止めた。

「ありがとう」

佐藤は口癖のように感謝の言葉を呟いて、外に出る。観光客は少なかった。俺が車の外に出ると、佐藤は展望台の木製柵の中さんに足を掛け、景色を見下ろしていた。

「綺麗だね」

「うん」

「こんなところに住んでみたい」

「ここはここで大変かもな」

「そうかもしれないけど、この景色が見られるなら大丈夫かも」

丘は緑や・薄橙のパッチワークが施された丘は先々に針葉樹の森を添わせながら東へと向かい、そして残雪の残る峰々へと続いていく。青い空と山の麓に挟まれたその白い連なりは、まさに神が住まう場所にふさわしかった。


俺たちは丘の上にある小さなペンションに泊まった。砂利の駐車場に車を止めて、木製の端々がくすんだ白い扉をノックすると、主人らしき女性の声がした。

「どうぞ、上がってください」

そう言って招き入れた女性は、よく知った顔だった。

能間朋絵

彼女はその落ち着いた声で施設内を簡単に紹介し、最後にルームキーを渡してくれた。

「夕食はいつ頃にいたしましょう」

俺と佐藤は顔を見合わせる。

「わたし、温泉行ってみたい。この辺りにあったでしょ」

「うーん。じゃあ、7時くらいで良い?」

「うん、そのぐらいで」

俺と佐藤は同じタイミングで能間に対して顔を向きなおした。

「では、7時で用意しておきます」

俺達は温泉で体を休ませ、そして夕食を堪能した。スペアリブが美味しいと佐藤が言うと、能間は笑顔で感謝の言葉を述べる。食事を終え、部屋に戻ると深い闇を遮るようにカーテンを閉め、少しばかり話をした。佐藤は眠たげで、俺は早めに電気を消した。

トイレで目を覚ます。手洗いのためにダイニングを通り過ぎると、能間が暖炉の傍で本を読んでいた。

『失われた時を求めて』

手洗いを済ませても彼女は安楽椅子に腰かけ、その長い髪を耳に掛け冷たい暖炉で100年以上前のフランス文学に耽っていたが、俺の存在に気づくと飛び起きたように安楽椅子から立ち上がり、本を胸に挟んで謝罪をする。

「申し訳ございません。起こしてしまいましたか?」

「いえ、そんな」

俺は彼女の腕に隠された本を見やる。

「……失われた時を求めて」

「よくご存じですね」

「海外文学がお好きで?」

「ええ、特にフランス文学が」

眠れないならと言って彼女は俺をソファに座らせると、カモミールティーを入れてくれた。甘い匂いが白い湯気と共に香る。暖色の明かりが夕日のように部屋の隅々を照らしていた。

「ここは初めてですか?」

「ええ、そうです。ずっと来てみたかったんですよ」

能間は向かいの椅子に座り、熱いカップに口をつけた。

「わたしも、こっちの出身ではないんです。それこそ、そう。ずっと憧れていたわ」

彼女は椅子の肘かけに右肘をたて、その細長い指先で右頬を支える。

「フェリーで1日かけて向かったの。一番安い、ドミトリータイプの部屋ね。そして飽きるくらい海を眺めた。港に着いて、真っ直ぐな一本道が現れた時は、ただただ嬉しかった」

能間は厚いカーテンに覆われた窓を見て、そして俺を見る。

「ここは夏も良いけど、冬が一番良いのよ」

「冬?」

「ええ、想像してみて」

俺は雪原を思った。まだ誰にも踏み固められていない白銀の世界に小さな足跡が出来ていく。丘の頂上に立つ杉は朝日に照らされ、枝葉にかかる雪をゆっくりと溶かしている。


「もしもし」

「もしもし、何してたの」

「寝てたんだ。お前もこんな時間に何してんだ」

「あんたに電話を掛けてるの」

「公衆電話で?」

「うん」

「何円入れたんだ」

「100円」

「じゃあ、どれくらいだろう」

「わかんない。でも短いのは確かね」

「そうか」

暫し沈黙があった。

「時々『自分はこれしかできない』っていう人いるじゃない」

「ああ」

「でも、何もできない人からしたらそんなの嫌味でしかない」

「うん」

「だから何だって話だけど、一応前置きとして」

「ああ、なんか調子悪いなお前」

「そう?電話だからよ。対面だとちょっと」

「話がしづらい」

「そう、実は人に電話をしたのも初めてよ」

「まじか」

「で、ひとつ思ったんだけど」

「うん」

「竹野内豊か反町隆史どっちが好きかなと」

「またあれだな、うん。また昔の女子高生がしそうな話だな」

「で、どっち?」

「反町」

「滑舌が悪いじゃない。あとかっこつけすぎ」

「昔の話だろ。確かに20代はかっこつけてたけど」

「そうね」

「ああ」

彼女はまた無言になる。

暫く夏の虫が鳴く声が響いていた。俺は壁掛けの時計を見る。長い針はどのくらい回っただろう。

「私、引っ越すことにした」

小さな声で彼女は言った。

「いつ?」

「すぐに」

「何故?」

「そう決まったからよ。だからその挨拶を」

「会社で転勤するやつみたいな感じだな」

「まあ、似たようなものよ。知らないけど」

「どこに行くんだ?」

「遠いところ」

要領を得ない返事がいつもの口調で返ってくる。

俺はフローリングの、脱ぎ捨てられたズボンを見る。俺はなんとなく、何を聞いても無駄だと感じていた。

「ねえ」

「ああ」

「一つ言っときたいんだけど」

「うん」

「私はあんたのこと、友達と思ってるわ」

俺の脳裏に電話ボックスで話す能間が映った。季節違いのパーカーを着て、長い髪と耳の間に受話器を入れて、少し体を左に傾けている。

「俺もだ」

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