第6話 友達

もう暑いと思える日が多い。少し歩いただけで背中に汗が湧いてくる。

小高い丘を登って振り向くと海が見える。こんな田舎でも海があるだけでずいぶんましに思える。

「久しぶり」

声に振り向くと能間が長い髪をかき上げて窓から俺を見下ろしていた。パジャマ姿の彼女は左手で頬杖をつくと一言いう。

「掃除してほしいの」

戸棚を片づけ、たまった洗濯を出し、じめじめとした布団とシーツを天日に干す。

彼女はまたバナナケーキを焼いていた。一人で食べるにはかなりボリュームがあるがと聞いたが、冷蔵しておけば2日は持つという。

居間を薄暗くし、中学校の視聴覚室のようなスクリーンに映像が映し出される。

『リヴァー・ランズ・スルー・イット』だった。

俺はブラッドピットの川での美しい所作を眺めていた。フライラインが空をうねり水面に投げ込まれる。形を変えながら移動していく澄んだ水と、フライに食いつく魚。

映画が終わると、俺達は紅茶と共に話をした。

「フルーチェを食べたことは?」

「ないわ?どんなもの?」

「何と言うか、ヨーグルトのような、何と言えばいいかわからないけど」

「それがどうしたの?」

「いや、俺は小さいころよく食べていたから、どうかと」

「私はその、特に」

俺は彼女の目の前に座り、スプーンに口をつける。

しばらく沈黙が続いた。彼女は首を左に振り、ただ絨毯の絵柄を数えるように眺めている。

「ワルツを踊ったことは?」

「ワルツ?」

「ええ」

「いや、ない」

「じゃあ、ダンス自体は?」

「それもない。どうして?」

彼女は柔らかな笑みを浮かべる。

「今日、夕食後に踊りましょう」

「夕食後?」

「ええ、用意してあるの」


乾杯は赤ワインで行われた。ダイニングテーブルに向かいあって小さくガラスの音を鳴らすと、体験したことはない古き良き時代が脳裏に蘇ってくるのを感じた。

「あんたと酒を飲むのは初めてだ」

「あらそう」

彼女は口を手で拭く。

「じゃあ、何か話したら?」

「何を?」

「アルコールを入れないと話せないことだってあるでしょ」

「上司みたいなこと言うんだな」

彼女は袖をまくってシェパーズパイを取り分ける。

「じゃあ、少し質問をしてもいいか」

「どうぞ」

俺は椅子に座りなおして言う。

「あんたと一緒に見る映画って、いつも思うんだが、何だかあれが無いな」

「何」

「セックスシーンがない」

「ええ、だって気まずくなるでしょ」

「別に家族で火曜サスペンス見てるわけじゃないからいいだろ、別に」

「違う。家族だろうと誰であろうと気まずいのは大差ないじゃない。言ってしまえばあんなのはただのポルノよ。セックスシーンを複数人で共有する意味が分からない」

彼女は茹でたグリーンピースをスプーンですくって口に入れていた。俺はシェパーズパイを食べ終え、パンを半分ちぎって口に詰め込んだ。

「質問はそれだけ?」

「とりあえずは」

「バカな男」

能間は人差し指を立て、自分の頬にあてる。少ししか飲んでいないというのに頬はひどく赤らみ、目は少し緩んでいた。

「ではあなたに質問」

「どうぞ」

「ここ最近はどうしてたの」

「特に何も。どうして」

「あなたの友人よ。ほら、この前話していた」

俺はワインを飲み干して、ブロッコリーをつまんだ。

「いや、飲みには行ってる。ただ、それ以上じゃない」

「この前は違うでしょ。昼間から飲むわけない」

「まあ、そう」

「どこに行ったの?」

「別にそこまで言う必要はない」

俺の態度を察したのか彼女はそれ以上は聞かなかった。しばらく食器のカタカタとした音だけが響いていた。

「わからないんだ。そういった経験がないから。どういった感情がそうなのか」

能間は微笑しながら頬杖をつき、その澄んだ目で俺を見た。

「じきにわかるわ」


夕食後、皿を洗っていると能間はキッチン台に肘をついた。

「スーツとドレスがあればよかったんだけど」

「そんなに本格的なものなのか」

「いいえ、よくあるでしょ。アメリカ南部でやってそうなゆったりとしたダンスよ」

彼女は横目で俺を見て、口角を上げる。皿をふく俺に向かってうやうやしくお辞儀をする。俺は手を拭き、冷たい右手を差し出す。彼女はその手を左手で取り、俺の肩に右手を添えた。

流れ出したレコードを背に俺達はゆらゆらと踊り始めた。まるで映画で老夫婦がするようなゆったりとしたダンスだった。

「アマポーラか」

「ええ」

「いいな」

シャンデリアの淡い光に照らされて、影がつられて踊っている。

フローリングの板が靴に押されるたび心地よい音を響かせた。

「クラーク・ゲーブルとヴィヴィアン・リーみたいね」

「『風と共に去りぬ』にこんなシーンあったか?」

「わからない。でもそんな感じがするわ」

ヴィヴィアン・リーは微笑み、そして俺の胸に横顔をあてる。

俺の中の疑念が、そこらをちらついた。それはどうしようもなく膨らんでしまっていて宇宙に飛び出しそうな風船のように張りつめていた。

音楽の流れにそって、円を描くように踊る。

「一つ質問していいか」

「どうぞ」

「君は誰だ」

彼女は俺の胸に身を預けたまま、心臓の音を聴いていた。

「君が誰なのかわからない」

彼女が俺を見上げる。なめらかな髪。陶器のような肌。人形のように整えられた顔。

俺はその薄茶色の瞳に映る自分を見た。

「私はここよ」

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