第5話 パタゴニア
俺は学生の頃、TOEICの試験を受けるために神戸に行ったことがあるが、その時あまりにも手持ちの金が少なかったので(確か数百円だったと記憶している)自転車で何十キロという道を漕いだ記憶がある。恐らく学園都市がゴールであったと思うが、試験の結果は別としてあの馬鹿馬鹿しい道程は退屈な学生生活に一つのメスを入れる出来事だった。
俺は何度目かの能間邸での映画鑑賞の後、そのことを能間に話した。映画は『パーフェクト・ワールド』だった。ケビン・コスナーは血まみれで死んでいた。
彼女は海に突き出た岩礁の上で縮こまるように両足を椅子の上に乗せて、そしてコーヒーを口に含む。
「神戸ってどんな所なの?」
「良い街だ。観光名所が密集しているから……異人館は知ってるか?」
「知らない」
「一度行ってみたら良い」
能間はコーヒーに顔を浮かべて呟く。
「私はこの街から出ていけないわ」
「どうして?」
「この家が死んでしまうから」
俺はそれ以上なにも聞けなかった。
白いカーテンが押して返す波のように風で膨らみ、そしてしぼんでいく。
しばらく静寂が続き、彼女の口を開く音が響いた。
「いつか、北海道に行ってみたい」
彼女はコーヒーカップを置き、そして窓を見る。
「あんたはどうなの」
「え?」
「もう、いいわ」
彼女は機嫌悪そうに、椅子にもたれ掛かった。
俺はどうしようもなくソファに身を沈めて近くにあった本を掴んだ。
『パタゴニア』
ブルース・チャトウィンが三十四歳の頃に巡ったパタゴニアについて記した紀行文であるが、その趣は他の紀行文学とは違ったものである。
紀行文学といえば行く先々での風景や描写、人々との交流を通じて作者(つまり旅人)が感じたことなどをつづるものであるが、この作品ではそういった要素はほぼ排除されている。書き連ねているのはパタゴニアにまつわる何十にもわたる小さなエピソードたちである。『明日に向かって撃て!』のポールニューマンとロバートレッドフォードが演じた人物(名前を忘れてしまった)がパタゴニアに逃亡していたというエピソードもあったと記憶している。
俺はいつかこの本について能間と話したことがある。この特異な紀行文に対して能間は終始否定的で、俺は閉口した。だがその文体については美しさをえらく称賛していた。例えばと言って彼女が抜粋して見せた部分は確か、車窓から見た、空と地平線が混じりあう風景だった。
「何故北海道なんだ?」
彼女は姿勢を変えず、睨みつけるように俺を見る。
「海外は難しいからよ。日本だとパスポートいらないでしょ」
あと、と続ける。
「地平線がもしかしたら見えるかもしれないから」
俺は彼女を見る。能間はその薄茶色の目で見つめている。
「あくまで可能性よ」
彼女はまた視線を外し、目をつむる。
俺は北海道の光景を思い浮かべた。その光景は札幌のニッカウヰスキーであり、テレビ塔から見た大通公園だった。
能間は退屈そうに椅子に深く座りなおす。右手で右頭部を支え、左手はだらりと下げている。その目は火がついていない暖炉をじっと見つめていた。
俺は能間邸から出て、自宅から帰る途中、ふと寄り道をしたくなり海へと向かった。天に敷き詰められた雲から大粒の雨が降りてくる。アスファルトのくぼみに水が溜まり、それを避けて車が道をそれる。駅前の飲み屋街を通り過ぎ、人がいない真っ暗な海に出る。
コンクリートの階段に腰を下ろし、ただ暗闇を覗いていた。他に人は誰もおらず、一定のリズムで刻まれる音が生暖かい夜に溶けていった。
俺は地平線を思った。砂漠の光景が目の前に広がっている。西に沈む夕日が地上に溶け、雲雲を赤く染め上げていた。
砂漠を横切るまっすぐなアスファルトの道は遠く向こうで一つの点となって、太陽と重なっていた。
仕事終わりに佐藤と会う約束をしていたが、どうしても今日中に終わらしておきたかったことがあり、かなり遅れてしまった。俺は仕事の合間に彼女に短い文章で連絡をとったが、答えは「いいよ」だった。
数十分後、彼女を駅前のロータリーで見つけた。仕事の後だというのに身なりは整えられていて感心してしまう。
スポーツに興味がないのにスポーツバーに入り、カクテルを頼む。アスレチックスとエンゼルスが試合をやっているが、アスレチックスはどうしようもなく弱い。
「仕事は?」
俺はいつものように聞く。
「順調だよ。うん」
彼女は下を向いてソルティドッグに口をつけた。
「ピザも頼む?」
「ピザ?ああ、これか頼もうか」
俺は店員を呼んで注文したが、その間に佐藤のソルティドッグは半分にも満たない量になっていた。
「アスレチックス、弱いね」
「ああ、昔は強かったのにな」
「メジャーリーグ好きなの?」
「いや、映画で観たんだよ。マネーボールって映画で」
「本当に映画が好きなんだね」
「そんな、そうかな」
ピザが来る。彼女はまたカクテルを頼む。とほぼ同時にテーブルに置かれたピザに面食らった。500円もしたのにピザ一切れ。しかも宅配ピザで言うSサイズくらいだった。俺達は店員が引くのを待ってから静かに笑った。
彼女はまた故郷の話をした。俺の家から少しいった所に有名な霊山があり、麓からケーブルカーが伸びていたのだが、それが廃止されるとのことだった。家族でよくその山には登っていたのだが、ケーブルカーはあまり使用したことが無かった。ただ、あの山の一部が腐ってしまうようで、なんだかとても寂しい気持ちになる。
「わたし、よく行ってたな。登るのは楽しいけど、降りるのはめんどくさいの。だからケーブルカーに乗せてもらってた。この前行ったら強気な値段設定にびっくりしたけど」
「それぐらいの金をとらなきゃ維持できないくらい客が減ってたとかかもしれないな。あの、ケーブルカーで流れるアナウンス覚えてる?左手に見えますのは……みたいなやつ」
彼女はカクテルを片手ににっこりと笑う。
「わかる!テンポが少しずれてるからどこのこと言ってるかわからないやつやんね」
同級生と言うだけでも、この辺境の地での繋がりには十分だった。あの麓に立つ古民家も、かたかたと音を立てるワンマン電車も、ここでは俺達しか知りえないものだった。騒がしい野球の実況に耳を傾けながら、俺はカルアミルクを口に含む。
甘く、そして柔らかな味がする。
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