第4話 Rain
シェルブールの雨傘のカトリーヌ・ドヌーヴはいつ観ても俺は魅力的に思えない。
能間朋絵が言うには、この頃のドヌーヴは美しさではだれにも引けを取ることは無いらしい。イングリッド・バーグマンやグレース・ケリーよりもだろうか。俺が二人の名前を挙げると、彼女は言う。
「グレース・ケリーは少し色気がありすぎるし、イングリッドは大きすぎる」
映画を観ている頃から雨音は気になっていたが、分厚いカーテンを開けてみると世界が変わっていることに気が付いた。
「雨、相当ひどいな」
「177で言ってたわ。今日はずっと雨だって」
「177とか使ってるのか?」
「そりゃ、天気が分からないと何も行動できないでしょ。公衆電話は近くにあるし」
それで十分。彼女はそう付け足す。
何か疑問に思ったこと、例えばあの映画に出た人間が誰だったとか、コーヒーの起源だとか、電子レンジの相場の価格とかがあったとして、能間は頭の中を一通りめぐらして、分からなければ図書館か自分の本棚で調べ、それでも分からなければ分からないままにした。この場合、電子レンジの相場がその一例だった。
少しゆったりと安楽椅子に腰かけていると彼女は立ち去り、しばらくしてペペロンチーノと共に姿を現した。
「食べる?」
俺は頷いてダイニングへ向かう。
長いダイニングテーブルには何脚もの椅子がしまわれているが、使われているのは一つだけ。俺は掃除およびテーブルクロスの洗濯とカーペットの取り換えの為にこの部屋に一度入ったが、食堂として利用するのは初めてだった。
「料理、上手いんだな」
ペペロンチーノは、ニンニクと唐辛子だけの簡素なものだったが、中々旨かった。
「私はただ作っているだけ」
「ただ作っても下手なやつもいる」
「いいえ。そういう人はちゃんと作ってないのよ。塩の量、茹で時間、全てしっかり管理すれば、つまりレシピ通りに作ればどんな人間でも料理はできるわ」
「そうか」
「そう。でなければこの本の作者はただの嘘つきよ」
彼女はこの空間に似つかわしくない主婦が写る本を見せた。自分の母親によく似た女性だ。
「小林カツ代か」
「ええ、まあ」
「じゃあ、この前のケーキも?」
「この前?」
「あのバナナケーキ」
彼女は首を傾けて、天井にぶら下がる小さなシャンデリアを見上げる。
「そうね、あれはそうね。どうして?」
「母親が良く作ってくれたから。なんか懐かしくて」
「私の場合、祖母が」
彼女の口から家族のことが語られるのは初めてだった。
「あんた、今日は何か予定があるの?」
話が急に変わる。
「いつも予定がないみたいに言うなよ」
「いつもあるの?」
俺は昨日からの休日の実績を思い出す。起きて、部屋の掃除をして布団を干して、買い物に出かけ、ジムに行って汗を流し、寝て、起きて映画を2本観て寝る。
「こまごまとなら普通に」
「そう。じゃあ今日はこまごまとはしてないわけね」
「まあ、なんとういうか友人と動物園に行くんだ」
「こんな雨の日に」
「こんな降るとは思ってなかったけど、仕方がない。でもちょっとやんできたな」
薄暗い部屋にくぐもった光が差し込んでいる。能間は足をゆらし、ペペロンチーノの残り粕をつついている。冬の雨は冷たく、退屈で空虚だ。
俺は当然のように傘を忘れてしまった。雨が小降りになっていたので速足で帰宅し、車に乗り込んだはいいが、動物園の駐車場に車を止めてから傘を忘れたことに気が付いた。
佐藤は入場ゲートの前で待っていた。少し濡れた俺の上着を見て心配そうに「傘は?」と聞く。
「忘れた」
「雨なのに」
「変だよな」
「変だよ」
彼女は苦笑する。
幸い動物園の遊歩道には屋根がついていてある程度の雨ならしのぐことが出来た。
佐藤はパンダのイラストが描かれたチケットを片手に握りしめ、折りたたみ傘の引っかけ紐に左手に通している。象の親子の脇を通り過ぎてパンダを見に行くと長い行列が出来ていたので引き返してまた歩く。大きなドーム状のブースに着くとイルカのショーが行われていた。
「体操競技みたい」
佐藤が言う。宙をくるくると舞うその姿は確かに体操選手のようにも思える。イルカが水中から飛び出る度に起こる拍手と、70年代の古臭い曲が混ざり合い、不思議な高揚感があった。
ショーは直ぐに終わった。およそ長いステージでもなかったし、俺達が来たのは終盤だった。佐藤はドームを出てしばらくして言った。
「わたし、あんな感じが多いの」
「ん?」
「ああいう機会というか、めぐりあわせというか、そんなのが悪いなぁっていつも思う。この前もあったでしょ。有名な野球選手が同じ店で食べてたけど。すれ違って」
「イルカのステージは1時間後にある」
「そうだけど……」
「また見ればいい」
俺は口ではそう言いながら、なんとなく彼女の言う言葉がわかった。自分がどこか外にはじかれたようなそんな寂しさが。
雨足が強まってくる。カバの住む池に雨粒の跡がいくつもできる。ライオンの鬣が濡れ、寒そうに体を震わせている。世界に数頭しかいないホワイトタイガーはこちらに背を向けている。
大き目のバスが園内の半分ほどを周遊してくれたので俺は正直もう満足していた。佐藤はバスのアナウンスにいちいち反応しながらいくつもの動物を写真に収めていた。
「ジュラシックパークみたい」
肉食動物のエリアの厳重な柵を見て彼女は興奮して言う。ラプトルのように逃げ出さないか心配になる。
「やっぱり」
「うん?」
「写真にするとこんなに小さくなるんだね」
彼女が身を寄せて携帯の画面を見せる。小さなサイがじっとしている。
バスを降りると雨がさっと引き始めた。子供向けの遊具の間を通り過ぎ、売店の入った建物をぶらついていると出口近くに来てしまっていることに気が付いた。
「パンダ、見に行こうか?」
彼女は頷く。
俺達はパンダのブースに急ぐ。細長いテントが雨で濡れたアスファルトの中に一筋の道を作っている。海に似た雨の匂いが寒々しさを増幅させている。
パンダのブースに入ると行列時の誘導係の人だけがぽつんとそこにいた。いつも混んでいるパンダへの道がそのときだけがらりと空いていた。
果たしてパンダはいた。彼(彼女かもしれない)は少し薄汚れた体を木製の足場に体を預けながら足をだらしなく広げ、笹を両手で支えながらつまならそうに食べていた。
「これはめぐりあわせだよな」
佐藤はぱっと笑う。俺はその笑顔がとても美しいと思えた。
しばらくパンダの不格好な姿を見ていた。佐藤は写真を撮ることはしなかった。
小さな手が俺の左手に入り込む。柔らかな感触と、確かな熱さを感じる。
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