第6話 指輪

 私は中堅職員と呼ばれる立場になりました。いつの間にか後輩は十近く年下なのです。


 私は新人さんが業務に手をこまねいているのを横目で見て、「え、そんなふうにやるの? 誰に習ったの?」と口を出していました。


 その声の嫌味なこと、薄汚く浅ましいことに、自分で心底驚きました。





「老害が」


 動物園の出口の近くで、若いカップルがすれ違い様に私たちに言い捨てました。


 それは私には聞き慣れた陰口の一つであり、長く生きてきてずっと自分で自分に言い続けた言葉でした。

 私は、少なくとも私だけはそれをぶつけられてもどうしようもない人間でした。


 ただ隣にいる彼だけはその言葉には当てはまらない、と強い反発を覚えました。




 彼とはカフェで出会いました。


 こんなおばあちゃんになって、同年代の男性と出会い、不思議な成り行きで動物園に行くことになるなんて、と今も信じられない気持ちがありました。


 しかも、死のうと決意したその死に支度の最中の出会いです。


 出会った時、彼は「心中しませんか」と言いました。 


「互いが心中するに足るか量る時間を頂戴したい。明日一日だけ、私にいただけませんか?」


 彼と歩いていて、長く抱いてきた孤独があっさりと透明な水が満ちるように埋まるのを感じました。


 最期の時にこの人といられたら、とすら考えていました。


 卑屈で自己中心な話を、愚痴を、こんなにも静かに誰かに聴いてもらえたのが初めてだと気付きました。




 私はこけた時に手首を骨折してしまい、彼の付き添いに肩身を狭くしながら病院に行きました。

 ギプスで固定してもらい、薬をもらい、今は彼と病院の中庭のベンチに腰掛けています。


 彼はひたすら黙して、帰りたがったり面倒だという顔を一瞬も見せず待っていてくれました。


 木陰のベンチで、私は彼と離れがたく感じていました。


 すると、彼のほうから目の奥に悔恨を滲ませて話し出してくれました。

 動物園で私が「お話を聞きたい」と言ったのを覚えていて、それに答えてくれようとしていることを感じました。


「……昔、木の指輪を作ろうとしたことがあったんです。ものづくりが趣味なもので……。

 調子に乗って妻に見せましたが、彼女は烈火の如く怒りました。

『そんな木の端くれと、私の欲しいダイヤの指輪。原価が一体いくら違うと思っているの!? そんなに安上がりな女だと思っていたの!? 婚約指輪くらい特別なものが欲しいのに』と。

 私は、自分の価値観を押し付けようとしてしまっていたんです……。気付いた時にはいつも時遅し、です」


 彼は掠れた声を午後の風に紛れさせました。


「だからきっと私は元妻に逃げられたのでしょうね」


 私は思わず声を張りました。


「私だって、きっとあなたに怒ります。ええそれはもう、きっと。

 きっとこう言うでしょう。『それがあなたの手で作る世界でたった一つの指輪でなくちゃあ嫌。あなたが手ずから、勾玉みたいにピカピカに磨いてくれなくっては絶対嫌なのよ』って。

 ものづくりするあなたのそばに張り付いて、じっと指輪が完成するのを待ちます。

 もしも『集中できない』ってあなたが嫌がっても、絶対そばにいて目を離さないでしょう。

 私、若い頃は我儘ばかりでしたもの」


 彼は一瞬、泣き笑いのような顔になりました。すぐに静謐な声音が紡ぎ出されました。


「それでは今度メジャーを持って来て、指のサイズを測って、指輪の設計図を二人で作りましょう。うんと豪華な、木の指輪にします。

 それでですね、指輪が完成するまでは、死ぬのは、お預けになってしまうのですが……」


 私は、うーん、と悩む振りをしてみせましたが、どうしたいかは決まっていました。


「……仕方がありません。死ぬのはいつでも出来ますが、死んでしまってはあなたのものづくりの姿が見られませんから。

 だからこれを、私が死ぬ前にしたいことに加えさせてくださいね……」


『これまで』の人生話をぽつりぽつりと零し合った後、私たちはゆっくりゆっくり『これから』の話をし始めました。


 枯れた花にも意味を見出す人があったから、枯れた花にも花言葉はつくられたのです。

 きっとそうだと信じたい感傷が私の中に、不意に吹き込みました。


 秋の訪れを運ぶ涼風が私たちを包み、額の汗を乾かして、静かに優しく髪を撫でていきました。




〈終〉





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