第35話 昭和二十九年一月一日(2)

 酷い吐き気と寒気で目が覚めた。



 暗い場所だ。まだ開ききらない目を擦ろうとしたが身体が動かない……、正確には動かせずにいた。布団で眠っていたはずが今はどうやら椅子に座らされているようで、手足はしっかりと椅子の肘起きと脚にしっかりと紐のようなもので固定されてしまっているようだ。



 何が起きたのか探ろうにも、記憶は篝家の寝る直前までしかなく、間違っても寝ぼけてこんなことはしないし、僕の病気を案じてくれる鼎先生や佐々木さんがこんなことをするはずもない。羽鳥さんも違う。善太郎さんの撮影演出の可能性が浮上してきた。大田区であんな撮影をされたのだから、それが一番考えられる可能性の中では有力だろう。



 しかし目が覚めてしばらくしても善太郎さんはおろか人の気配も無い。此処が何処かなんてわからないけどひとまず、「あの、誰かいませんか」驚くほど僕の声は反響した。そういった造りの場所にいるようだ。



 足先から冷気が体温を奪ってくる。そんなことより僕の体調はどんどんと悪化してきているのが非常に不味かった。吐きそうになり呼吸も荒くなる。発熱による症状が全身を襲い、関節や筋肉がギシギシと軋んで痛む。楽な姿勢もとれず息を荒げながらぼんやりとしてくる意識をなんとか繋ぎ止めておくことに注力する。口腔の肉を強く噛んでいると堪えきれずに吐き出してしまった。咄嗟に横を向いため衣服に浴びせて悲惨な事態になるのは避けられたのは幸いだが、酸っぱい臭いが否応なしに鼻を抜けていく。



「これは……、善太郎さんの、演出じゃないですよね」



 彼が僕をこんな状態で放置するはずがない。



 すると背後の方から足音が聞こえてきたのと同時に目の前に僕の影が伸びていく。明かりを持っているのだ、近付いてくる人物は。



「忠告はしたはずだ。お前を殺すつもりは無かったが残念だ。この悲劇はお前自身の愚かな好奇心によるもの……、いや、余計なお節介か。お前の死には多くの人が悲しむが安心していい、ハンバーグにするつもりはない」



 背後の声。低く感情を持たない女性の声帯から発せられる声。



「弥生さん……、ですか?」

「そうだよ」



 短く返ってきた。



「篝家の秘めたパンドラの箱を見つけられましたか?」

「随分と探し回っていたそうだが、お前は見つけられたか、私が探していたものを」

「復讐と愛ではないですか」

「世間様は何を以て愛と言うのか。酷く曖昧で薄っぺらいものを見つけたようだ。私はそんなものを探していたつもりはない」

「そうですか? 五十嵐刑事の自宅で実のお母様を殺害して、何かを探していたのではありませんか。お母様が弥生さんに残しているかもしれない何かを」

「我が身を危険に晒してまで探し得た答えがその程度とは。警察が派遣した写真屋も大したことがない。もう一人の男、落合善太郎はどうかな。あの男は独自で何やら動いていたらしいけど、キミが死ねば腐って終わる、か」

「腐りませんよ。あの人は死に魅了されていますから。元から腐っているような人なんです」



 僕は期待している。僕が死んでも善太郎さんが弥生さんに辿り着くことを。推理小説なんて読んでいるところを見たこともなければ、謎解きが得意だという話を聞いたこともない。まったくの素人捜査になるはずだけど、いつか僕を、晴らしてくれる。根拠のない自信とそうあって欲しいという極めて実現性に乏しい願い。



「話が逸れましたね。復讐は篝家が事業として起こした人肉加工が発端。弥生さんの妹さんが加工肉にされてしまったことで、平穏な一般家族を壊され、あげくには妹さんを差し出したお母様をも殺さなくてはならなくなった。その連鎖の根幹たる篝家とその後援者や関係者をハンバーグにして殺してみせた。まずは間違いありませんか?」

「復讐に関しては、な。次の愛について聞かせてくれ」



 僕は直感した。愛を否定していたけど存外的外れでないのかもしれないと。最悪の症状で頭も回らないし、喋るのもとても怠い。しかし話さなければならない。僕が組み立てた弥生さんの根幹を。



「楓さん……、弥生さんのお母様が殺された現場には、彼女の血でさようなら、と書かれていましたが、それは弥生さんからのお母様に対する別れの挨拶ですよね」

「証拠が提示されていないから是とは頷けないよ」

「では置いておきます。ツゥ……」

「辛いか」

「とてもしんどいです」

「すぐ楽になる」



 それは解放とか処置という意味ではない。



「篝家のパンドラの箱を見つける、弥生さんは警視庁にその文言を送りました。弥生さんにとって、パンドラの箱に残る希望が知りたかったのでないですか。だから、パンドラの箱を用いたのでは?」

「疑問形で話すな。お前の推理を話せ」

「弥生さんはとても頭が良いそうです。学者が考えるような仕掛けを思いつき、それをおもちゃに組み込めるくらいに。そんな出来の良い頭を持っている人がわざわざパンドラの箱に例えてまで、何かを探ろうとするはずがありません。もちろん災厄は復讐であるのはご自身でもわかっているはずです。では、何を探しているのか。それは最後に残った希望だと考えます」

「それが愛だと言うのか」

「心臓を箱に収めていたのは、もしかしたらそうなのかもしれない、とご自身でも気付いていたのではないか、そう思いました」

「戯れ言だが続けろ」

「ではその愛は誰に対してか。お母様に対する愛か、亡くなった妹さんに対してか、僕にはそこから先がわかりません」

「結局は見つけられなかった、そういうことだな」



 少々落胆したような反応を示した。



「少し話疲れました。今度は話していただいても?」



 呼吸を整えながら僕は問う。



「何を話してもらいたい?」

「野菊さんと千紗ちゃんの安否をまず。その次に僕をどうやって拉致したのか。最後に加代さんについて」



 僕が知りたい順に聞く。



「篝野菊と大庭千紗はまだ生きている。直ぐ近くにいるから安心していい。キミの後にハンバーグ加工させてもらうから、寂しくはない。あの世という場所で再会する姿が人の形を留めている、までは保証してあげられないのが申し訳なく思う」



 少し人間味のある、かといって優しさなんて微塵も含ませない調子で笑った。



「お前の身柄をあの警備から攫うのもそう難しいことでもない。全員を眠らせてしまえばいいだけだからね」

「眠らせた……。どうやって?」

「やり方なんてどうとでもなる。二十五の発想から一番手っ取り早い手段を行使しただけだよ。全員を殺してしまうのが一番楽ではあったけど、無関係な人を殺せるほどの度量は持ち合せていない。私は己が大成すべく無関係の子供を食い殺せる篝家の人間とは違う」



 滞在していた篝家にいる二十名を全員眠らせた方法で最も考えられるのは、食事や茶にでも薬を盛るくらいか。そうなるとおかしいのだ。調理を担当しているのは梶木さんだ。彼はまぎれもなく男であり、人伝に聞いた弥生さん程の人がそんな誰もが思いつく手段を取るとは思えないし、なにより弥生さんが篝家の食事事情を知るはずがない。



「加代は良い子だ。ずっと私について回ってくる可愛い子だ。あの子には負担を押しつけ、私に協力したことで苦しい思いもしてしまったことだろう。共に身内をハンバーグの加工肉にされた同胞はらから。せめて最期には彼女の苦悩や葛藤を解放させる」

「それは、殺すという意味ですか?」

「直ぐに死と直結した考えを持つのは、お前が死に取り付かれているその証拠だ。まあ、間違ってはいないけど。あの子は染まりやすいほどに純粋だ。魂にまで染みこませてしまったようだよ。人の優しさ、家族の温もり、生きる喜びというやつを、復讐を一瞬でも忘れてしまうくらいに」

「弥生さんはどうなんですか。復讐だけに囚われて生きてきた、そういう訳でもないはずです。人と触れ合ったならわかるはずです。加代さんが感じたものと同じものを」



 その訴えは静かに否定された。



「そんなものを感じたのは家族がまだ誰一人欠けていなかった頃だ。もう何も感じれない。己の欲を満たせるなら平然と他人を巻き込み、その熱意に対する純粋な残酷さと醜さを如何様にも変容させる人間の本性、というものを垣間見てから私の心はもう、何も感じなくなってしまった。いや……、感じるようになってしまったんだ。上辺の温情に秘めた人間の根幹に対する嫌悪を」



 声の調子から悲嘆と諦観、そしてそんな自分を自嘲するような響きが僕の耳へ届く。知りたくなかった。知らなければ、あんな現実に直面しなければ、今も自分は何処かで家族と平穏に暮らしている普通の人間でいられたはずだ。そんなあったかもしれない世界を羨みながら呟いているように感じた。



「後悔しているんですか?」

「天才なんてもてはやされもした時もある。天才の定義とはなんだ……。私は人だ。喜怒哀楽を併せ持ち、人並みに幸せへ手も伸ばしもするし、悲しければ涙も流す。この空虚を解いて理解することができないんだ。ずっと……、ずっとだ。復讐や殺された罪もない子供の解放を大義名分に掲げても、私は人を殺す時にここが……、胸が苦しい。私を内側から引き裂こうとするこの痛みは罪悪以外で説明ができない!」



 打って変わって、先程の静けからの荒波。弥生さんの中で僕なんかでは説明できない感情や考え方の相違がごちゃごちゃとない交ぜになって、彼女でも収拾がつかないようになっている。不安定な感情を押し殺せずして、いいや、そもそもそんな感情を抱くことが矛盾であると天才の葛藤に苛まれている。その原因の追及を嵐が遮っているのだ。



「パンドラの箱ですね」

「なんだと?」

「パンドラの箱は弥生さんの心そのものではないですか?」



 少しだけ体調も落ち着き初め、「見つけてください。自力で、一粒の奇跡を」しっかりと力強く言った。



 そういえば。僕は五十嵐刑事の自宅で見つけた手紙を思い出した。押し入れに隠された厳重な床下保管庫。その中に仕舞ってあった数枚の手紙を。僕はそのことを弥生さんに伝えた。娘を案じる母の優しさ。これもまた母が願ったパンドラの奇跡に相違ない。此方も偶然が重ならなければ開けもしなかった楓さんの心。



「母さんが……、私を」



 しばらく沈黙が続く。僕はその間に体調を少しでも回復できるように努める。ぐっしょりと濡れた肌に張り付く着物の気持ち悪さをようやく実感できるくらいにまで楽になると、まるでその瞬間を待っていたように、「そろそろお前を殺すがいいか?」なんて宣言をしてくる弥生さん。「僕を殺す理由がまだ明確にされていませんよ」生きたいという僕の欲求を真っ向から潰そうとする弥生さんにようやく怒りの感情も抱くことが出来た。



「そもそも、ただの素人の捜査に何を危惧しているというのですか。殺すなら優秀な警察官を殺した方が、貴女に辿り着く可能性の芽も潰せるというものでしょう?」

「私が恐れていたのはお前ではない。落合善太郎だ。奴はとても危険な人物だ。もう私の存在にも気付いているだろう。だから、お前が事件に首を突っ込まなければ奴も事件を調べようとはしなかったはずだ。だというのに」

「僕が善太郎さんに捜査をさせたから」

「そうだ。だが、もういい。本命の義龍とその息子の末広を初め、あの工場関係者並びに後援者を殺せたのだからそれで十分だ。野菊と佐和子の二人には直接的な恨みはない。篝家縁の者を根絶やしにするために殺すつもりだったからな。しかし、お前には責任を取って殺されてもらう」



 背後でシャンという背筋がぞわぞわとするような嫌な音がした。冷たく薄い、そう刃物のようなものが首筋の血管の真上に押し当てられる。



「待ってください!」

「命乞いをするだけ無駄だ」

「一つ確認させてください。僕が群馬へ行っている間に、佐々木菫さんの旦那さんが殺されました。そして群馬では僕と菫さんが狙撃されました。どちらが弥生さんの仕業ですか?」

「ああ、そのことか」



 弥生さんがそれこそ簡単な仕組みだと笑うと、「その答え。私が解き明かしてもいいかな」一発の破裂音がと閃光が暗闇に響く。



 背後の弥生さんは苦悶の声を上げて、状態反射のように飛び退き刃物は地面に落ちた。



「善太郎さんですか!?」



 閃光のした場所を見て声を掛けると、「ごめんね、遅れてしまったよ」照明が付くと、善太郎さんが拳銃を構えながら五十嵐刑事と此方に駆け寄って、「五十嵐刑事は彼女の捕獲を!」僕の拘束を解いている間に五十嵐刑事が距離を空けた弥生さんと対峙する。「お前……、だったのか」五十嵐刑事が呟くが、彼女の姿は大きな背中によって阻まれて見えない。



「まさか……。お前が楓の娘だったのか」



 五十嵐刑事がたじろいだ時に見えた。



 佐々木菫さん……、葵菫さんの姿。



「だからなんだよ。お父さんとでも呼んで欲しいか? 冗談はよせよな」



 弥生さんを演じていた口調と調子をいつもの明るい声音に変えて言った。しかし余裕は無さそうだ。どういうことだ。おかしい。説明がつかない。菫さんは一緒に群馬へ運転手として同行した。神奈川の旦那さんを殺すのはまず不可能。……待って。旦那さんを誘拐して殺害したのが加代さんだと仮定しても、一つだけ証明できない。運転中と彼女の狙撃だ。



僕は善太郎さんに抱えられて少し離れた場所で横たえられた。



「佐々木建築が所有する、彼女に与えられた趣味の展示場。その本来の役目は人間ハンバーグ加工場としての隠れ蓑でもあるわけですね」



 ようやく自分が居る場所をグルリと数台の車を見渡してその中に、あの日、ゴミ袋を積んだ似通った車種を見つけた。その脇には酷く汚れたトラックが一台、タイヤは外され純正でない規格外の大きさのホイールは赤黒く変色し、よく見れば細かく小さい棘状をしていた。その真下には細かい穴が幾つも空いた金網が見えた。身を起こしてよく見るとそれもホイール同様に赤黒く変色している。



 戸塚医師が言っていた、「人形を横たえて電車で轢いて遊んでいた」その異常な遊びを応用して人間ハンバーグを形成していたのだ。おぞましい光景が脳裏を過ぎると吐き気が喉を伝い上がってくる。堪えられずその場で大量の液体を吐き出してしまった。吐き出せるものもなくただ無色透明の液体だけが口からゲェゲェ吐き出され続ける。



 そんな僕を見下ろしていた善太郎さんが膝を突いて僕の耳元に顔を近づけて、「とても良い姿だ」なんて囁く。



「そんなことより……、聞いて下さい。群馬で菫さんは一緒でした。加代さんが菫さんの旦那さんを誘拐殺害していたとすると、誰が僕と菫さんを射撃したのか。おかしいです、無理ですよね。それに、菫さんだって腕を」

「それは理論的に言えば可能な仕掛けでしたよ。しかし……、上手く物事を運ばせる少し複雑な計算が必要ですけどね」



 両手を広げて何も隠し持っていない、と示す菫さんへ五十嵐刑事が少しずつ詰めていく。手には拳銃を。銃口は彼女の心臓部へ。何か不審な動きをしようものなら躊躇いなく撃つ意志をしっかりと見せている。愛した女性に遺された娘を止める使命を胸に。



「さっさと捕まえて死刑にでも何にでもすればいい。私はやるべきことはやった。その後のこの身の処遇に興味なんてないね」

「無責任だぞ! これだけの人間を殺しておいて、まったくの責任も抱かない奴に罰を与えても意味なんて無いだろう!」



 怒鳴る五十嵐刑事を冷めた眼で見返す。



「罪を自覚しろ。そして償うんだ……、楓の、お前のお母さんの為にも」

「母さんの為? 私は自分のやるべきことをやった。罪悪の情はたしかに在る。だがな、それ以上に在るのは達成した己の賛辞のみだな」



 元から罪悪という感情が欠如したように振る舞い微笑む菫さんに、しかし五十嵐刑事も食い下がり、有利な体格によった解決ではなく訴え続けるも、これ以上は無駄だと取り合う姿勢を見せない。これにはもう諦めを付けたのか、彼女の撃ち抜かれた肩を一瞬だけ見てもうこれは反撃のしようもない、と判断したのか逮捕すべく彼女に近寄っていく。



「五十嵐刑事。少し待ってもらえますか。まだ、聞きたいことがあるんですよね」



 善太郎さんが声を掛ける。



「答え合わせがまだ済んでいませんよ」

「そんなものは署ですればいいだろうに」

「楓さんの想いを無為にしてしまっても?」



 足を止めた五十嵐刑事は溜息を付く。菫さんを見張るように少し離れた位置に移動した。今度は善太郎さんが彼女と対峙する格好で、「天才というが、詰めが甘い小娘でしたね」なんて挑発から入る。



 これには菫さんは心の底から可笑しそうに笑い、「ああ、そうだな。探偵小説のような完全犯罪なんて現実には不可能だ。捜査をしていたのが馬鹿者か、犯人の持ち前の運がよくなければ、いつかは全て白日の下にさらされる。現にこうして証明されているわけだからな」篝家で善太郎さんと車の話をして盛り上がっていたときの顔をした。



「採点してやるから、話しなよ」

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