第34話 昭和二十九年一月一日

 仕事を終えた善太郎さんが松葉診療所に手土産を持参して顔を出したのは夜八時前。



 今日は何処に行っていたのかを問おうとする前に、「今日は大雪でしたね。いや、外は寒くて堪らないけど、此処は患者に負担を掛けないよう配慮されていて過ごしやすい」雰囲気を察した善太郎さんが話題の主導権を握った。



「賀楽さんは大晦日を何して過ごしていたの?」



 善太郎さんの少し前に帰ってきた鼎先生と羽鳥さんにも大判焼きを手渡すとお茶の準備を始めた。



「羽鳥さんに写真を撮ってもらいました。雪に倒れる僕の写真を」

「趣があるね。辺り一面に赤い塗料を溶いた水でも撒けばさぞ美しい殺害現場、かな」

「普通の写真も売っていきたいので」



 普段からこんな血生臭い会話をする僕等に鼎先生と羽鳥さんは苦笑いだ。大判焼きに詰められた大粒のあんこの優しい甘さがホッとさせてくれる。まだ温かいのは作りたてを頂いてきたのだろう。しかしこの時間で作り立てが屋台に並ぶはずもないが、「賀楽さんのきわどい写真一枚で交渉をしたら、無償で作ってくれたんですよ」呆れてしまうやりかたではあるけど、お陰でこうして温かい大判焼を頂けているので僕は何も言わない。



 宿直の医者が部屋に顔を覗かせて、「松葉先生、篝家の方からお電話です」と言った。「また佐々木が愚痴でもこぼしているのかな」と小さく溜息を付きながら病室を出て行った。



 聞くとそうとうに荒れていたようで、鼎先生が篝家に到着した頃にはまるで栄養失調にでもなってしまったのかという顔色を悪くした千紗ちゃんに迎えられたそうだ。そこから数時間お酒を飲みながら一方的に止まることの無い佐々木家の嫌らしい苛めやらなんやらを聞かされ、ある程度の落ち着きを見せた好機にいそいそと診療所へ戻ってきたそうだ。



 電話越しに愚痴を聞かされているのではないか、なんて予想する羽鳥さんを裏切って、普段見せない慌てた様子の鼎先生が、「大変よ! 野菊奥様と大庭ちゃんが居なくなったの!」一番初めに事態を把握した善太郎さんが、「どうして!? 篝家は警備が……、まさか警護も付けずに出掛けたのでは」立ち上がって鼎先生に詰め寄った。



「私が佐々木さんを相手している間に、大庭ちゃんを可哀想に思った野菊奥様が彼女と喫茶店に出掛けたようで……。私が帰る際もまだ帰宅していなかったみたい」

「喫茶店はもうとうに閉まっている時間だ。遅くなる理由があるなら電話で伝えるはず」

「これはつまり……」

「そういうことでしょう。警察にはもう篝家から連絡はしているでしょうが、此方からも念のために連絡を入れておきましょう」



 この日、夜通しで野菊さんと千紗ちゃんの行方を警察が捜し回るも、二人が見つかることはなかった。どうでもいい話を挟めば屋敷近辺を警戒していた警察官たちは、二人を見ていないと言ったのだ。というのも今の篝家は佐和子さんを含めて、本家でお世話をしていた休暇を返上した使用人達も身を寄せていて、人の出入りが多かったとのことと、二人とも出かける際には変装をしていたというのだから使用人と見間違っても仕方ないと言えばそうだが、念には念を入れて身元の確認はしておくべきだった、と五十嵐刑事は彼等の失態を指摘した。



 昭和二十九年一月一日。



 日が昇ってから篝家に向かうと祐介君が青ざめた顔で屋敷内をウロウロと徘徊していた。梶木さんは警察の人に心当たりが在りそうな場所を話していたが、これが誘拐であるならそれはほとんど役に立たない情報だ。菫さんは元の原因は自分にあると消沈した様子で泣き崩れていた。男勝りで普段が明るく元気のある彼女の変わりようは見ていられず、鼎先生が彼女の身体を抱きしめている。



「探しに行かなきゃ……。奥様も大庭も俺が見つけなければ」



 見た物をおののかす見開いた眼でフラフラと屋敷を出ようとしたところを五十嵐刑事が阻み、「退いてくださよッ! 旦那様が殺されて、奥様や同じ孤児施設に居た大庭まで殺されたら……、俺は……、俺はァ」完全に自分を見失っている悲痛な叫び。しかし五十嵐刑事も引かず、祐介君も犯人の殺害対象である以上は勝手な行動をさせまいと頑なに彼の進路を阻み、あげくには力業で彼を組み敷いた。手の空いている警察官に彼を監視するように怒鳴りつけ、冷静さを少し取り戻すと警察官に付き添われて部屋に戻った。



 事態の急変にこれから警察がどう動くべきか、面倒な新聞屋の対応に回せる人員の余裕なんて無い。ひとまず中野区を手当たり次第に聞き込みをして二人の行方を辿って行くしかないと判断した警視庁から直々に指示を受けた。



「私も手伝いましょうか、五十嵐さん」

「その申し出は非常に嬉しいよ、善太郎君。しかしだね、そういうわけにもいかないだろう。坂下さんも狙われる可能性があるんだ。キミの実力は俺がよく知っている。だからこそ、キミには篝家に残っていて欲しい。……持っているんだろ」



 最後の一言は声を小さくしていたが、善太郎さんはいつもの調子で、「最悪の事態には備えてありますから」肩を竦めて返した。



 それが拳銃であることは、善太郎さんが実物を見せてくれたから予想できた。善太郎さんは僕を優先させて生かすと言った。犯人を前にして躊躇うこと無く弾丸を撃ち込むはずだ。



 五十嵐刑事はこの屋敷からなるべく出ないよう言い置き、数人の警察官を引き連れて聞き込みへと向かった。僕もこのまま篝家で過ごすことになるようだ。念のために来るときに善太郎さんの愛車に薬品や医療器具等を詰めてきたので万が一の対応も十分。



 それより僕は本家に使えていた給仕が四名しかいなかったことに驚いた。あんな広い敷地を四人で掃除から手入れまで出来るはずも無いと思っていたが、外部から専門職の人を招いていたと給仕の一人が話した。直接雇用の四人は基本的に料理や買い出し、運転といったことを任されていたそうだ。



 二十数名の警察官が常に篝家の内外や周囲を警戒していては、弥生さんもこれ以上の手出しは出来ない。もちろん誰も敷地から出ようともしない。鼎先生、善太郎さん、羽鳥さんの三名は僕から離れようとはせず、常に誰かの視線に晒されているのが少し窮屈だけど文句も言えないし、言える立場に無い。廊下で警官にすれ違う度に外出は控えるように釘を刺される、それは僕だけではなく篝家の全員に対して呼びかけているようだ。



 現在、野菊さんも不在の篝家は義龍さんの奥方の佐和子さんが取り仕切っているが、彼女は見た目のまま消極的であまり口を挟むようなことはせず、完全に給仕達に任せっきりとなっている。色々と不安に押し潰されそうになっている彼女を居間で梶木さんが、菓子と珈琲を出して慰めていた。



 気になったのが野菊さんに好意を寄せていた祐介君だ。彼の自室を覗くと此方に背中を向けて書き物をしていた。僕の呼びかけにゆっくりと振り返った顔は、泣き腫らして目を真っ赤に染めた陰鬱な表情で、「なにか。御用ですか」彼を慰める言葉の一つも持ち合わせがなく、いや……、その顔を見たら全ての言葉が無に帰したと言った方が正確だろうか。それくらい今の彼は他人が容易に近づけるような心境ではないということ。



 しばらくはそっとしておくべきだと襖を閉じた。彼の部屋の前に警官が一人立っているのは、五十嵐刑事から要注意で監視するように言われたのか。あの調子ならば家を飛び出すような真似はしないだろう。ぞろぞろと後を付いて回る善太郎さん達に、「あの……、ずっと付いてこなくても」振り返って彼等を見上げて言う。



「犯人が何処に潜んでいるかなんてわかったものではないですから」

「警察が居ますよね?」

「警察が犯人でないと?」

「弥生さんは女性ですよ」

「野菊さんと大庭さんの二人が忽然と姿を消した点を考えて、弥生さん自ら誘拐した可能性は低いでしょう。どちらかが叫び声の一つでもあげれば目撃者の数人くらいは出てくる。その証言もまだ出てこないとなると、顔見知りもしくは……、この人なら安全だと思わせられる立場の人物、とか」



 善太郎さんの推論を聞いて、「えぇ!? まさか警察内部を疑ってますぅ? そんなことは絶対にないっすから」羽鳥さんが即座に意義を申し立てる。



 これに善太郎さんの返答は謝罪ではなく無言であった。そのまますたすたと僕の脇を抜けて通路奥の方にある善太郎さんに割り当てられた部屋に戻ってしまった。これにもちろん、「なんなんすかぁ!」ご立腹の羽鳥さんを僕と鼎先生で宥めていると、「なんだかご立腹だけど、なにかあったのか?」鉢合わせた菫さんが事情を聞く。



 ずいぶんと落ち着いているようだが顔色はまだ優れない。泣き疲れか愚痴の吐きすぎかで声は少し枯れている。



「そうだ、松葉さん悪かったね。さっきはありがとう」

「いいのいいの、気にしないで。佐々木さんが元気出してくれれば私も嬉しいんだから」

「それで、もう一度聞くけど何かあったの?」



 これは羽鳥さんが説明した。



「落合さんは賀楽さんを守らなきゃいけないから、つい疑り深いんだよ、気にしないほうがいい」

「そうっすけどぉ」

「そんなことを言ったら一番怪しいのは篝家だよ。二人に疑われず自然と拉致れるのはね」



 溜息交じりになんとか笑えた、そんな顔をした菫さんは、「気分転換にお風呂に入るけど、お二人もどう? なんなら酒を厨房から拝借してきてもいいし」僕と鼎先生を誘う。お酒はともかくとして誰かと一緒に居たいのかもしれない。僕はこの身体のことがあるのでご一緒はできないから無難な言い訳で丁重に断り、鼎先生はその誘いに二つ返事で乗った。



 羽鳥さんを連れて部屋に僕は戻ると、火鉢が用意されていて室温は快適だった。さっそく大きな欠伸をし始める羽鳥さんに、「寝ていても大丈夫ですよ」日中ならまだ安全だという判断で畳まれた敷き布団を指さす。



「そういうわけにもいきませんよぉ。坂下さんを守り切るのが自分の仕事っすから」

「視界の悪い夜間に居眠りをされないか、僕は不安ですよ」

「た、確かにそうっすね。落合さんや松葉さんだって厠に立ったりするだろうし……。ここはお言葉に甘えさせてもらうとします」



 彼はペロンと布団を敷くと、制服の上着だけ脱いで大の字に寝転んだ。驚くほど早く寝息が聞こえてきたので、彼の顔を覗き込むと、これはまた子供の様に開けた大口の端から涎を垂らして眠っていた。そうとう疲れていたんだね。掛け布団を被せたらなんだか僕も少し眠くなってきていた。野菊さんと大庭さんの存否が危ぶまれているというのに薄情にも眠気は次第に強まっていく。



「少しだけ、寝よう」



 布団を占領している羽鳥さんを退かすのも申し訳ない。仕方なしと敷き布団の空いている場所に身体を丸めて眠ることにした。



 一瞬だけ眼を閉じたつもりだったが、いつ来たのか、僕の身体を揺さぶる善太郎さんの顔は夕焼け色をしていた。



「夕飯だそうですよ。ここは賀楽さんの部屋だというのに、羽鳥君が布団を占領しきって眠ってしまうなんてね。窓を開けたまま寝ていたら風邪を引いてしまいます」



 垂れた眼を細めて笑いながら今度は羽鳥さんを揺さぶった。ボーッとする頭で周囲を見渡して、「あれ……、窓開けてない、よね?」ブルリと身体が大きく震えた。こんな寒いなかでずっと寝続けていたことに、自身でも驚くばかりだった。



「さっむいっすねぇ。酷いっすよぉ、冷気を逃がしてしまうなんてぇ。坂下さんが風邪引くっすよ?」

「私がこの部屋に来たときには窓は開いていたよ」

「あれ、じゃあ坂下さんが開けたんすか?」

「開けた状態で寝ませんよ」



 誰かが換気をするべく訪れたがそのまま閉め忘れて何処かへと行ってしまった、と考えておくしかない。



 人数が多くテーブル席と居間のテーブルに人数を別けて、羽鳥さんを除いた警官達が居間を使用した。配膳は菫さんと鼎先生も手伝って手早く済ませた。面々を一巡して見て、まるで別の家の食卓に感じてしまう違和感が拭えない。末広さん、野菊さん、千紗ちゃんを欠いた篝家の食卓にはいつもの談笑もなければ、家族の温もりも感じられない。黙々とそれぞれが食事を進めて終わった人から席を立った。



 食後の簡単な診察で問題も無さそう、と判断されて部屋に戻る。しばらくすると鼎先生と菫さんが敷き布団を抱えてやってきて、「一緒に寝ましょう。その方が安心だし医者としても直ぐに対応できるからね」僕の返事も待たずに布団を敷いた。



「一人の方が良かったか?」



 僕は首を横に振った。



 眠る前に火鉢の炭を突いた菫さんが盛大にむせ返ったのは笑えた。

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