第33話 昭和二十八年十二月三十一日

 松葉診療所で療養していた間の世間は年越し準備で大忙しのようだ。



 僕が入院をしていると聞きつけたファンの方々が、診療所に見舞い品を持って殺到するものだから、これには割けない人材を無理矢理割いて警察官が派遣された。



「ごめんなさい。僕のせいで」



 他の患者やお医者様達に謝ると彼等は、「坂下さんのせいじゃないさ」温かい言葉を掛けてくれた。見舞いは限られた近しい間柄の人のみという制限を設けると、今度は写命館にその見舞い品の数々や僕の容態を聞こうと殺到したようで、これにまた警察官が派遣された、と善太郎さんが笑いながら話した。



 現在、野菊さんは警察の威信の警護の下で無事に過ごせてはいるようだけど心中は穏やかではないはず。



 写真が残っている加代さんはともかくとして……、いいや、あの写真に写っていた加代さんだって数年前のもの。ずいぶんと印象だって変わっているはずだし、なにより大人顔負けの頭脳と異常な思考回路を持つ弥生さんと行動を共にしているとなれば、その点もぬかりないと考えるのが自然というもの。



 問題は一切の写真も見つからない弥生さん本人だ。



 此方が持ち得る情報としては名前とずば抜けた頭脳くらいのもの。偽名を使用して東京に潜伏しているなら見つかるはずもない。警察は僕の手渡した写真を便りに加代さんの捜索に操作路線を切り替えたようだ。弥生さんと繋がりを持っているなら、加代さんを道筋に辿り着くしかない。



 あの写真の印象から影のあるあまり活発的な子には見えなかったというのも、長めの髪は目元まで覆い隠していて、撮影時もうつむき加減で顔の輪郭の正確な処までは判然としなかった。



「駄目だなぁ。僕はお手上げです」



 溜息をついたりして病と退屈との戦いに辟易としていた。お正月にはお餅を入れたお汁粉を善太郎さんが作ってくれると言っていたのが今のところの唯一の楽しみである。年明けをまだかまだかと子供の様に待っていた僕に、「あ、起きていたんすね?」そういえば席を外していた羽鳥さんが真っ白くした制服と警帽をその場で叩いて、「外は雪が積もっていて、歩き辛くてかないません。あ、これどうぞ」手に持った小さな茶紙の包みを手渡してくれた。



「シベリアっすよ」

「あんこを挟んだカステラでしたっけ?」

「カスティーラっすよぉ」

「え、カステラではないの?」

「どっちでもいいと思いますけどぉ、うちでは小さい頃からカスティーラでしたから。にしてもケッタイな菓子っすよねぇ。あんこを異国の菓子で挟むなんて。日本がぺちゃんこっすよ。でもそれが美味いんすから、やっぱりけったいですねぇ」

「あんこに挟まれていたら食べづらいですよ」



 僕は手に持ったシベリアを口に入りやすい厚さになるまで少し潰して口に入れた。口の中ですり潰されながら交じると違和感が無く、見た目以上に不思議な菓子であることに賛同する僕であった。



「すり潰す……?」



 僕はどうしてかこの行為が気になってしまった。理由はわからない。しかし重要であるような気がしてならない。何度か頭の中ですり潰して交じるシベリアを想像しながら、「すり潰す。交じる。異物が違和感なく交じりあう」頭が痒くなるようなもどかしさに襲われる。



「異物は酷いっすよぉ?」



 ケラケラ笑う羽鳥さんは火鉢に向かって霜焼けで赤くなった手をもみ合わせている。そういえばハンバーグのあのぷっくりと丸い形に整えるのは手作業で、変わり種としてハンバーグ内部に具材などを忍ばせたりもしている店もある。トマトやチーズならまだしも、チョコレートやあんず、批判を殺到させたあんこは即日で店から姿を消したとファンの方達から笑い話として聞いたことがある。



 上手く適応できなかったものは淘汰されるのが世の習わし。逆に言えば上手く適応できればそれは長い年月の間を重宝されいつしか在るのが当たり前となる。



 このシベリアというお菓子は見た目こそ変手個ヘンテコではあるものの、上手く互いに主張しすぎず絶妙な相乗効果を発揮した一品とも言える。



「善太郎さんはお店ですか?」

「どうなんでしょう。さっき店前を通ったんですけどぉ、お店が閉まってたんすよねぇ。お出かけじゃないっすか?」



 僕が入院する前にお客様からの依頼は無かったはず。せっかくの雪景色を撮影しに足を伸ばしているのかもしれない。これもまた退院後の楽しみだ。死写体を始める前は各地の風景写真を撮影して売っていた善太郎さんの写真家としての腕は確かで、湖面から飛び立つ鳥や顔を上げた小動物といった一瞬の奇跡を逃すこと無く撮影してしまえる秘訣を伺ったところ、「戦地で敵兵を狙撃銃で狙っていたのが役に立っているんですよ」とのこと。軍人の頃に培った技術を写真家として活かせているのなら天職ではなかろうか。



 人間ハンバーグを成形し続ける弥生さんも篝家の人肉加工事業に関わらなければ、今頃はその秀才な頭脳を活かし、誰かの為になる仕事をしていたかもしれない。僕もこんな病気や身体を持ち合わせていなければ鎌倉で両親と平穏な毎日を過ごしていたかもしれない。戦争なんて起きなければ善太郎さんも死に魅了されることもなかったし、多くの人が死ぬこともなかったかもしれない。もし、あの場で、あの選択を、そんな無意味な過去からの可能性の現在を夢想しても、現在にわずかの変化ももたらさないことくらい百も承知である。



 掴んだ選択こそが最適解だとその時は思い込んでいても後々になって不適当だった、なんてままあること。



 篝家への恨みを晴らす手段を弥生さんは後悔をしていないか。僕は当事者でもないし独善的な視点から見た物の言い方をしたら、もっと他のやり方は無かったのかなんて考えてしまう。



「泣きそうすよぉ?」

「泣きたいかもしれません」

「席外した方が良さそうすかぁ?」

「羽鳥さんは警察官になったことを後悔したことはありますか?」

「どうかなぁ。まだわからないっすけど、後悔をするつもりはないっすねぇ。あの頃の自分はこれがやりたいって選んで進んだ道っすから。自分の道を自分で否定なんてしたくないじゃないすかぁ」



 爽やかな笑顔を見せてくれた羽鳥さんの鼻から垂れ出た鼻水を見て僕は盛大に笑った。締まりがないですね。羽鳥さんの言っていることは至極真っ当ではある。僕も死写体を演じる道を自分の意志で決めた。もちろん亡くなった方には罪悪の念は抱きもするけど、後悔はしていない。僕は僕が持つ才能を活かしているのだから。



 かといって人を殺めて訴える選択を僕は是とするつもりはない。



「お昼の診察だよ、賀楽ちゃん。ほら男の子は外に出た出た」



 カルテを手に持った鼎先生が火鉢で暖まる羽鳥さんを閉め出した。



 問診、視診、触診を多角的に、合間に雑談を挟みながらぬかりなく進めていく鼎先生が、「横浜の佐々木家が遺産云々で揉めているみたいでね、昨夜遅くに帰ってきた佐々木さん……、ああえっと、ごっちゃになっちゃうね。葵さんが佐々木家で喧嘩してきたみたい」そんな話を始めた。



 子供もいなければ、ほとんど家にも帰ってこない彼女に遺産を相続させたくないようで、親族総出で葵さんに、好き勝手やっていた女、遺産目当ての結婚、等々と責め立てられたようだ。遺産を辞退するつもりでいた彼女だったが、佐々木家の追い立てに腹を立てて喧嘩をして帰ってきたらしい。篝家に戻るなり千紗ちゃんを相手に愚痴をこぼしていたのを野菊さんが襖越しに聞いていて、今朝電話で鼎先生に報せたようだ。



 僕の容態を見て大丈夫そうであれば、診療所を少し抜けて葵さんを慰めに行ってくるとのこと。



「僕は大丈夫ですよ。行ってきてあげてください。それより佐々木さんの苗字は葵だったんですね」

「みたいだね。私も今朝知ったところ」

「え……」

「篝家に来たときからもう佐々木さんだったから」

「そうなんですか」



 結婚前のことなどを話したりはしないのか。鼎先生は終戦まではオランダで医者をしていたし、梶木さんはどこかの料亭で修行を積んでいた。祐介君と千紗ちゃんは空襲で孤児施設が焼失するまではそこで過ごしていた。そういえば菫さんの過去だけ聞いた覚えがない。戦前は一般家庭に生まれて平穏だった、くらいは言っていたような気もするが……。



「何かあったら連絡を寄越すように伝えておくから、少しでも身体に異変を感じたら誰にでもいいから遠慮しないで言うのよ」

「わかっています」



 僕もその一因であるけど鼎先生も多忙でしっかりと休めているのか心配になってしまう。入れ替わりで戻ってきた羽鳥さんがまた火鉢の近くで手を温め初めた。僕はベッドから身を起こして冷たい床に足を付けて立ち上がった。少しフラついたのはベッドで過ごす時間が長かったせいだ。危うい僕を支えようと駆け寄ってきて、「どうしたんすか? 何か必要があれば自分に言ってくださいよぉ」そんな彼に、「雪が見たいの」ゆっくりと二人で窓辺まで歩いて白いカーテンを開けた。ついでに窓も開けて手を外へ差しのばす。



 だいぶ大粒の雪が降っている。掌に落ちた雪は直ぐに体温で溶けて跡形も無く水に変容してまう。儚い白は僕を魅せた。しばらくその美しい風景を眺めている内に「ふぅ」白い息が空へ昇っていく様はまるで魂が抜けていくよう。



「羽鳥さん。カメラを」



 窓枠に肘を置いて自身を支えた。



 枕元にあるカメラを羽鳥さんに取ってもらう。



「雪を撮影するんすかぁ?」

「違いますよ」



 グッと腕に力を込めて枠組みに足を掛けて外へ飛び出した。病室から羽鳥さんの素っ頓狂な声。そのまま雪の積もった診療所の裏庭に転がり倒れ、あまりの冷たさに一瞬だけ身体が硬直した。素足の刺す痛みが体温を奪っていく。同じように外に出た羽鳥さんにその場でカメラを構えてもらう。少し離れた場所で寝転がり、「僕を撮影してください」死写体ではないただの写真を撮影する。



「自分はカメラのなんたらもわからないので、良い写真ではないっすよぉ?」

「それで構いません」



 着物と袴の雪を落として、「さあ、戻りましょうか。霜焼けになってしまいますから」出たときと同じくじゃじゃ馬さながらに窓を伝って病室に戻る。



「昼間は袴姿で過ごしているから丁度良かった。患者服では様にならないですから」

「吃驚したんすからね。賀楽さんにもしもの事があったら自分の責任なんすよぉ」

「ごめんね」



 次は鼎先生に言い付けるから、と警告を頂いたがもう僕は十分楽しめた。開け放っていたせいで室内の微々たる温かさはかっ攫われてしまっていた。



 窓を閉めてベッドに潜り込み、少し浮かれてはしゃいだせいか頭が痛み出していた。

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