第32話 昭和二十八年十二月二十九日

 夕刊を見て僕達は目を疑った。



 篝義龍さんが昨夜、ハンバーグとなって警視庁裏のゴミ捨て場に遺棄されていた見出しが大々的に報じられていたからだ。これには警察も何をやっているのだ、と民衆の反感を買ってその対応に右往左往している様子。世間はハンバーグの犯人より警察叩きに沸いている。



 早朝から五十嵐刑事は緊急招集を受けて写命館を飛び出して行ったが、これが原因で間違いは無さそうだった。群馬の名家、それも親子揃って東京でハンバーグになったとなれば、いよいよ人の噂も篝家がキナ臭いと疑い始める頃合いだろう、と善太郎さんが言っていた。



「殺されたんすか?」

「そう書いてあるよね」



 いまだに信じられない僕等三人は隅々まで新聞に目を通した。これ以上の情報は得られず、結局は五十嵐刑事が戻ってくるのを待つしかないと言うことに。僕は思い出したように我に返り、急いで一階の電話機を手に取って篝家に掛けた。



 千紗ちゃんが対応してくれた。いま篝家でも混乱している状態らしく、本家で一人となった義龍さんの奥方である佐和子さんがこれから中野にしばらく身を寄せるようだ。



「賀楽様ももしかしたら篝家の関係者だと思われているかも知れませんよ。だから、しばらくは家に籠もっていた方がいいと思います」



 心配してくれる彼女にお礼を言って受話器を置いた。



 ふらふらとした足取りで階段の一歩目を踏むと、意識がフワリと浮遊した。そのまま何が何だかわからず、視界は天井を向いてそのまま仰向けに倒れてしまった。



 二階から善太郎さんと羽鳥さんが駆け下りてきて、僕の身体を起こすが、「頭痛い……」ガンガンと直接脳を叩かれているような衝撃を受け、よく見れば着物に赤い点が幾つもできているのに気付いた。鼻血が垂れている。段々と気持ち悪くなっていく。僕は支えてくれる善太郎さんと羽鳥さんを弱々しく突き飛ばして身体を丸めてその場で嘔吐してしまった。水のような吐瀉物に紛れて血が滲んでいる。加えて目眩と息苦しさの重症だ。



 意識を保っているのもやっと。善太郎さんが僕を抱えて直ぐに車の後部座席に横たえると出発した。松葉先生の診療所に緊急搬送された僕は直ぐに寝台の上に寝かされ、たまたま書類作業をして残っていた鼎先生と彼女の助手たちが処置の準備を始めてくれた。



「松葉さん。賀楽さんの病気は何ですか! ここまで酷い症状を見たのは初めてだ。だんだん悪化している」

「もしかしたら……、とは思っていたけどね。確証も無かったから言えなかったけど、海外の医学書を漁ってほぼ間違いはないと思う」



 辛そうに息を漏らした鼎先生は善太郎さんをしっかりと見て、「白血病だね」聞いたことの無い病名を口にした。



「落合さんは賀楽ちゃんの身体のことは?」

「知っていますよ」

「そう、なら見せても良いかな」



 断りを入れた鼎先生は僕の着物をハダケさせ、少しだけ身体を転がして背中辺りを見た。



「青紫色の痣がうっすらと見えるよね。これも含めて賀楽ちゃんの症状は全て白血病の症状そのもの」

「治療法は?」

「あとで話します」



 今は処置を済ませるのが先決だと次々と指示を出して点滴を僕に繋いだ。口周りを拭ってくれた鼎先生は全員を一度外へ出し、衣服の交換をしてくれた。まったく動けない僕を脱がして着替えさせるのは大変そうだった。



「僕は……、死ぬの?」

「ううん、大丈夫。賀楽ちゃんは私の医者としての技術と知識を信じていて、ね?」

「信じていますよ。小塚先生も褒めていましたから」

「しばらくすれば痛みも不快な症状も無くなるとはず。ゆっくりと休んでいて。栄養を取ってお薬を飲めばきっと治るから。他の先生達と今後の処置や経過観察について話してくるけど、何かあれば……、そうねぇ、これを床に落として」



 鼎先生はベッドの縁に膿盆のうぼんを置いて部屋を出ていってしまった。代わりに善太郎さんが入ってきてベッド脇の簡易椅子に腰を下ろして、「なんだか難しそうな病気のようだ」そう言って僕の髪を易しく撫でてくれた。



「僕が病気で死ぬのと誰かに殺されるのだと、どちらがお好みの死でしょう。この間仰っていた悩みは解決しましたか?」

「結果は綺麗な死であればどちらでも良いですね。過程ではやはり賀楽さんには楽しんでから死んで頂きたい。失うモノが大きければそれだけ感動も抱けるはずだ」

「素直ですね。恋人にでもなりましょうか」

「大人をからかうものではない。ですが間違っても、賀楽さんにハンバーグは相応しくは無い、とだけ何度でも言いましょう」

「鼎先生を信じていますから。きっと、完治します。でも、そうしたら直ぐには死ねませんね」

「その分、人生を満喫していただきます。モデルと兼業で写真家として活動する賀楽さんを私は楽しみにもしていますから」

「ばりばり稼ぎましょうね」



 僕等は笑い合った。こんなにも笑えない生死の話から冗談を交えた話題で子供のように声を上げて笑ってしまえる僕等は、間違いなく、世間から乖離かいりした特別な関係であると確信を持てる。



「ほら、また血が滲んできている」



 僕の口を拭ってくれたタオルには薄らと綺麗な赤が染みこんでいた。僕はそれをジッと見て、僕の生きている証だと思い、またそれが馬鹿馬鹿しい考えだと一蹴してまた笑う。頬が痛いのは笑いすぎによるものだが、この胸の痛みは病気でもなんでもなく、僕の整理のまだついていない心の部分が訴えているからだろう。



 日が暮れそうになる黄昏時の病室。次第に暗闇が病室へと影を延ばし、上辺の人間性を張り付かせた善太郎さんの笑顔をも飲み込んだ。



 照明を付けた善太郎さんが上着を正して、「羽鳥君に連絡を入れてくるそのついでに必要な物とかあれば、買ってこようか」微笑んだ。



「大丈夫です。ありがとうございます」



 部屋を出る善太郎さんをベッドから見送って大きく息をついた。急に心細くなった。死ぬと孤独ひとりなのか。あの夢で見たような墓前に魂を囚われた一生を過ごすのか。仏教の輪廻転生という概念は嘘偽りであるのか。そんなことばかりを考えてしまい少々気分が滅入った。



「ちゃんと休んでいるかな、鼎お姉さん達が様子を見に来ましたよ」



 両手にぬいぐるみを大量に抱えた鼎先生がニッコリと眼を細めて、それらを枕周りに並べ始めた。



「あの、これは?」

「んー、寂しいと思ってね。こうして私のお友達を連れてきたのです。仲良くしてあげてね」

「鼎先生は子供っぽいところもあるんですね」

「どの子もオランダで研修医をしていた時からのお友達。悔し涙を流すときも、うれし涙を流したときも、ずっと励ましてくれたり、一緒に喜んだ人情に篤い子達なの」



 長い付き合いのようで、彼等の体毛のような毛糸が少しくすんだ色をしているのがその証拠。僕はその中からひよこの子を手にとり、フワフワとした感触と毛糸の柔らかさを堪能していると、「話しかけてみたら答えてくれるよ」彼女も犬のぬいぐるみを手にして、「こんばんは、今日は良い天気よね」とぬいぐるみに話しかけはじめ、「わんだふる」と声音を変えて続いた。



「わんだふる?」



 聞き慣れない言葉に聞き返した。



「素敵ね、って意味の英語よ。ちなみに今のわんだふるは、犬の鳴き声のワンとわんだふるを掛けた高度な言葉遊び」



 意味がわかれば面白い言葉遊びだった。



「こんばんは、キミの名前はなんて仰るの?」



 僕はひよこに問いかけていた。



 これにはまた別の声音でひよこを演じた鼎さんとしばらくの人形遊びを子供さながらの童心で楽しみ、楽しんでいるうちに寂しいという気持ちは嫌な考え諸共何処かへと霧散して笑い飛ばされていた。



「うんうん、少し顔色も体調も回復したみたいだね」

「だいぶ楽になりました。さっきまでは死ぬかもしれないって、そう思っていたのに」

「私がついてる。だから絶対に生きることを諦めないで、いいね?」



 口調を変えた鼎先生がしっかりと僕と目を合わせて念を押すように言う。



「この子達もついてるし、ほら、応援しているよ。がんばれがんばれって」

「可愛いですね。本当に元気が湧いてきます」



 戻ってきた善太郎さんの背後に羽鳥さん。それはもう真っ青にした顔色で病室に先陣の善太郎さんを押し退けて僕に詰め寄った。



「大丈夫すかぁ!? ビックリしましたよぉ、いきなり倒れて焦点も合ってないんすからぁ!」

「心配おかけしました。でも、今はだいぶ落ち着いていますよ」



 泣きそうになる彼を安心させられるか微妙だけど努めて笑顔を見せた。すると安堵したように身体からジワジワと力が抜けたようにへたり込んで、「ああ良かった。本当に良かったっすよぉ」泣き出してしまった。



 大の大人がワンワンと声を上げて鳴くものだから、他のお医者様達が僕の容態が悪化したのかと勘違いして雪崩れ込んできた。が、それも安堵の号泣であるとわかるや彼等の肩からも力が抜け落ちた。しかしそろそろ泣き止んでもらわないと滂沱の涙でベッドシーツもぐっしょりと濡れている。被害拡大を抑えるために鼎先生に視線を送り、彼女が羽鳥さんを羽交い締めにする恰好で引き離した。



「警護は羽鳥君に任せるとして、私としては賀楽さんにはこのまま入院していただきたいですね。五十嵐刑事は新しい義龍氏ハンバーグの件でしばらくは帰れないみたいですし」



 最近の僕の症状は写命館に身を寄せた時と比べて悪化している。名医の直ぐ近くに居れば即時対応ができて安心だという善太郎さんに、「私もそうした方がいいと思うわ。ここなら医薬品が揃っているわけだし、最悪の場合は手術の準備も整えられるから」医者としての彼女は冷静に利点を挙げていく。



「善太郎さんはどうするのですか? 事件を嗅ぎ回っている善太郎さんだって、狙われないという保証はありませんよね」

「昼間は写命館の仕事をしたり、少し五十嵐刑事のお手伝いかな。確かに何処から狙ってくるのかわからない狙撃手は厄介だが、私も戦地を生き抜いた元軍人です。なんとかなりますよ」



 根拠の無いなんとかなります、は信用に値しないが彼の目を見て信じようと思った。垂れた優しい目付きのいつもと変わらない風ではあるのに、底冷えするような手段を厭わない冷徹さを伺えたから。



「写命館に戻りますので松葉先生、何かあれば連絡をお願いします」

「その何かにならないために私達は努力をするのよ」

「そうですね。では言い換えさせてください。どうか賀楽さんを宜しくお願いします」

「はい。任されました」



 最後は二人とも表情を崩して笑い合った。

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