第31話 昭和二十八年十二月二十八日(2)

 昼間からお酒を飲み交わしている野菊さんと鼎先生に交じって、僕はお茶を頂きながらあれから何事もなかったか、不安があれば話して欲しい、と親身に野菊さんの話を聞いて時間を過ごした。



 昼時になると祐介君と千紗ちゃんも手が空き、警察官を呼びに戻ると厨房と居間を往復して全員分の食事を配膳した。羽鳥さんを含めた警察官四名が席に着く。警備を羽鳥さんも手伝っていた……、というよりも手伝わされていたのか、彼の表情は不満気である。



「佐々木さんは車の手続きがあるそうなので、昼食はいま居る人だけで頂きましょう」



 野菊さんが手を合わせると全員がそれを倣う。



 最初は戸惑っていた警官達も慣れたようで肩から力が抜けている。食事の席という短い時間でも息抜きが必要なのだ、と鼎先生が彼等に説いていたのを思い出した。そのお陰か篝家の流儀に上手く嵌まって楽しく談笑を自分たちからも率先している。



「坂下様、お口に合いませんか?」



 手が止まっていた僕を見て梶木さんが不安そうな顔で聞いた。



「違うんです。ちょっと考え事をしていてボーッとしてしまいました。とても美味しいですね。僕もこれくらいの料理が作れたら、と思います」

「練習次第で料理は上手になります。写命館では坂下様が調理を担当していると伺いましたが」

「はい。お恥ずかしいものばかりしか作れませんが」



 料理本を参考に試行錯誤の味付けを加えてみたりしても善太郎さんは、「うん。美味しいですよ」としか言ってくれない。本当にそれが美味しいのか不味いのか、僕好みの味付けだからなんとも判断が付かない。ちなみに当然ではあるけど僕からしたらとても美味しいのは言うまでもない。最近ではようやく羽鳥さんという別意見が聞けるようになったのはいいけど彼も、「美味しいすねぇ」同様の感想しか返ってこない。



 梶木さんの料理は見た目にも拘っていて、大根やにんじん等に包丁を器用に入れて様々な形に仕上げてしまう技量。味付けも飽きさせない工夫が凝らされていて、これは高級料理店そのものだ。いま、僕達が頂いているハンバーグは野菊が所望したもので、細かい軟骨を混ぜることで食感が楽しめる。末広さんのことがあったというのに、ハンバーグを美味しく頂けている彼女、篝家の人達は流石の一言。事件のせいで最近の洋食屋で食べれずに我慢していた一品は絶品の一言に尽きる。



 常に誰かが話している食事を楽しんだ後に居間で食後のお茶を啜っていると、五十嵐刑事と善太郎さんが篝家に顔を出した。



「あれ、佐々木さんが居ないんですね。車の話をしようと楽しみにしていたんですけど」



 肩を落とした善太郎さんに、「先程、佐々木さんから連絡があって、今夜は旦那さんのご実家にお線香をあげてから帰ってくるそうですから、遅くなるわね。大丈夫かしら、今から連絡して一泊させてもらうように言った方がいいわね」野菊さんはグラスに入ったウイスキーをクイッと飲んでから立ち上がった。



 一瞬だけよろめいたが直ぐに祐介君が支え、「飲み過ぎですよ、奥様」連れて居間を出て行く。玄関にある電話から話し声が聞こえてきた。どうやら相手は菫さんのようだ。



「大庭さんは車に興味はありますか?」

「そこまでは興味はありません。でも、持田君はいつか車を運転したいと言っていたことがあります。ですよね、梶木さん」

「そういえばそんなことを言っていましたよ。奥様を乗せて旅行に出掛けたいなんてお熱なことをね。持田君が奥様に恋しているのは誰の目に見ても明らかですから。いやぁ、若い若い」



 でもその気持ちもわかる気がした。野菊さんは三十代半ばでありそれ以上に若く見える容姿や清廉された所作。身内に対してはまるで無垢な少女のような一面も見せる親しみやすさもある。そして何より給仕をも家族として大切に想い接する華族では珍しい在り方。そんな彼女に好意を寄せない男性のほうがどうかしている。野菊さんに甘えてしまいたいという欲求を持ってしまった僕が言うのだから間違いはないはず。



「このことは本人にはご内密に、でお願いしますよ」



 人差し指を立てた梶木さんが目を細めて笑った。



 視界の端で五十嵐刑事は羽鳥さんを含めて警察同士の話し合いをしている。僕はなんとなしに席を立ってソロリソロリと忍び足で近寄って耳をそばだてて聞いてみると、警視庁宛てに野菊さんを殺害する予告状が届いたようだが、上層部はこれを好機とみて、二十四時間体制で警察官を増員して彼女を警護する手筈を進めているそうだ。



「賀楽さん、どうかされましたか?」



 急須を載せた御盆を手にした千紗ちゃんが聞いてきた。警察官の話を盗み聞きしていたなんて言えず、「この御屋敷と本家の御屋敷を比べてみても似通った造りだなって」なるべく返し辛い、彼女の知識にないことを言ってみたけど、「ご本家ですか。私はお邪魔したことはないですけど、とても大きな御屋敷だとお聞きしています。賀楽さんから見て義龍様はどんなお方でしたか?」簡単に一言二言で返されて終わると思っていたのにこれは誤算であった。



 五十嵐刑事は僕達を一瞥すると、場所を変えるためか居間と隣接する食事の広間を出て行ってしまった。



「威厳のある人だったかな。ちょっと怖い雰囲気を持っていて、でも、やっぱり末広さんと似通った……、家族を大切にしている、そんな方だよ」

「そうですか……。私はただ恐怖の対象でしかなかったです。あの人に睨まれると竦み上がってしまって。手汗なんかも、この間の葬儀の時なんて怖くて怖くて」



 一礼をして居間を出た千紗ちゃんに次いで善太郎さんが、「そろそろお暇しましょうか」ちょっと疲れた顔をして笑った。



 殺害予告のことを五十嵐刑事が篝家の人達に話し終えたようだ。野菊さんは酔っ払っているので顔色はほんのり赤く、自分が殺されることなんて何ら怖がっていないかのような笑顔。善太郎さんが帰宅を再度促すが僕は聞き流して、ジッと、野菊さんを観察した。



 あの笑顔は生きていない。



 そう思えたからだ。



 というのも彼女の眼が生きることを望んでいない、かつての僕のような眼をしていたから。末広さんを亡くしてこれからどう生きていけばいいのかわからなくなってしまったのかもしれない。酔ってしまったことで己の内面を知らずのうちに曝け出してしまっているのだ。長年使えている給仕達は彼女の様子を察しているように表情を曇らせている。



「帰りますよ」



 五十嵐刑事は警官達にいくつか言い残してから羽鳥さんと十七型ダットサンに乗り込んだ。



 車内はどこか重い空気で満ちていた。狙撃の警戒をしているのかもしれない。僕としてもまたお腹に穴を開けられるのは勘弁である。しかしあの時は運悪く後部座席の真ん中に座っていたため射線を遮る物が無かった。今回は五十嵐刑事の真後ろに座っているから狙われるなら側面か背後。こんな暗がりの中で真っ当に対象を撃ち抜くなんてまず不可能だ、と善太郎さんと五十嵐刑事は言ったが、それでもあの狙撃技術を持っている影の狙撃手を警戒しているようだ。



 無事に写命館の真ん前に車を寄せて停めると助手席の五十嵐刑事が先に降りて周囲を警戒している。あらかじめそういう手順を話し合っていたのか次いで羽鳥さんが善太郎さんから鍵を預かると僕を跨いで車を降り、直ぐに写命館の扉を開けて電気を付けた。



「大丈夫だ、さあ」



 手を差し伸べられた五十嵐刑事の手を握って僕は彼にぴったりと身を寄せて急ぎ写命館に入る。犯人の忠告を無視して事件に首を突っ込んだのだから命は狙われている。しかしそそれにしてもここまでの警戒は不信感も抱く。



 二階を一瞥した五十嵐刑事に頷いた羽鳥さんが二階へと駆け上がる。電気を付けて一部屋一部屋確認しているようだ。途中でガチャガチャと施錠された部屋を開けようとしているようだが、その部屋が直ぐに善太郎さんの部屋だとわかって諦めたようだ。



 善太郎さんは自室だけは誰にも見せない。僕も入ってみたいとお願いしたことがあるけど、無言の笑みで拒否された。彼の部屋には何があるのかと常々疑問に思っている。見られたくない何かを隠しているのか、と邪推されても仕方がない。



 僕等も二階に上がってようやく五十嵐刑事は息をついてソファーに腰掛けた。



 直ぐに善太郎さんも二階に顔を出して大きな溜息を付きながら淹れたお茶をちょっとずつ啜る。



「何処に行っていたのですか?」



 片目だけ伏せて僕の問いに、「何処って?」とぼけるように返す。どうやらあまり詮索されたくないようだが、事件のことであると踏んでいる僕は食い下がる。



「事件の捜査ですよね?」

「んー、まあ、そうですね」

「何処で何をしていて、成果はあったのですか?」

「今日はえらく食いつく。大物でも釣ってしまったかな」

「真面目に答えてください」



 肩を竦めてまだ喋ろうとしない善太郎さんに、「話してやったらどうだね、善太郎君」意外な五十嵐刑事からも味方をされてしまい、これにはいよいよ顔を一瞬だけ歪めた笑顔を見せてから鼻を鳴らし、「佐々木家を調べていたんだ。佐々木菫さんの嫁ぎ先だね。本家では門前払いでしたが、関係者には話を聞けたよ」これは変ではないだろうか。



 篝家で善太郎さんは確かに、菫さんが不在で残念だ、と言っていた。佐々木家を調べに向かったなら彼女が滞在しているのも知っているはず。大手建築会社を営む佐々木家がどれだけの邸宅を構えているかはわからないけど、篝家の外車を見間違うはずもないし、あれだけの車が走っていれば噂にもなる。



「関係者の話だと社長……、菫さんの旦那、佐々木智一さんが亡くなる前日は何やら浮かれていたそうだよ。十八時頃に新調したスーツを着て家を出ていったのが智一さんが生きている最期の姿」

「浮かれていた?」

「犯人に呼び出されたか、それとも何か予定があってその途中で犯人に襲われたか。これは冷静に考えれば前者である可能性が高いでしょうね」



 五十嵐刑事と羽鳥さんも口を閉ざして善太郎さんの推理を聞いている。



「智一さんの予定を部外者が把握できているわけがない、と考えれば犯人の呼び出しに応じて殺された。ここで問題がありますね、なぜ犯人に呼び出されて浮かれていたか」

「大切な人とか大事なお客様との商談すかぁ?」

「前者だよ、羽鳥君。さて佐々木智一さんにとって大切な人とは誰か」

「菫さんですか?」

「確かに正解ではある。でも、佐々木さんは僕等とその時は篝本家へ向かっていた。彼女以外でだと」

「ご両親?」

「わざわざご両親と会うのにお洒落をして浮かれるかな」



 これはわからない。



「智一さんは病気を患っていたそうだよ、肺の病気だ。だから現場にはほとんど顔を出さずに、進捗状況の報告を受けては指示を出す役割を担っていたそうです。神奈川には彼を看れる医師はいないようで困っていたときに、佐々木菫さんが松葉さんを紹介していたのを通いのお手伝いさんから聞いた。直ぐに松葉さんの診療所に電話を掛けて確認したらヒット、彼女のご助力もあって情報を開示してもらったら予約患者の欄に佐々木智一の名前がありましたよ。診察予定日は彼が遺体として見つかった日、でしたけどね」

「少し待ってください。整理が追いつきません。ええと、つまり、佐々木智一さんは診察前日に殺されたんですよね。でも、どうしてわざわざ前日に浮かれて、スーツを着て出掛けたのでしょうか」

「それがわからない。佐々木さんなら知っているだろうと思ったんだけど、どうやら佐々木家に滞在しているようで、会わせてもらえなかった」



 思い出したように善太郎さんは、「少し過ぎましたが、海外ではクリスマスという文化があるそうで、向こうの神様だか、なんだかのお祝いをするようです」善太郎さんは自室に一度戻ると、四角い白い箱を手に戻ってきた。



「なんだい、それは」

「良い匂いがしますねぇ」

「横浜の帰りに買ってきたんだ。氷嚢を乗せていたからよく冷えているね」



 卓上には丸いケーキ。白いクリームで覆われた姿は無垢そのもの。



「ひとまず休憩ということで。といっても私の話は終わりなんですけどね」



 なんとなくの想像だけど善太郎さんはまだ話していないことがある。しかしこれで終わりだと言われたらもう話す気もないということ。切り分けたケーキをお茶と一緒に頂いた。とても贅沢なケーキにそれぞれ満足した顔をしている。



 それぞれ部屋に籠もる。僕は窓を少し開けて夜風を取り込みながらベッドに寝転がり、善太郎さんの話を思い返してみたが、新たな発見もなく、やはり打ち切られた先の話を聞かなければ真実に近付かない。犯人はもう特定はされている。楓さんの娘である弥生さんと彼女に懐いていたという加代という少女。二人は野菊さんを殺害するつもりでいるのはわかるが、どうしてわざわざ警視庁に殺害予告なんて出したのか。警備も増員されて手が出しづらくなるのは明白なのに。



「殺せる自信があるから?」



 僕は目を閉じて眠ろうとした途端、ベッドの下辺りで何かが転がる音を聞いて身を転がして覗き込んだ。



 クシャクシャの紙が小石を包んで丁寧に紐で縛ったものが転がっていた。さっきまでこんなものは転がっていなかった。僕は視線を少し空いた窓に向けて、急ぎ窓から身を野路出して周囲を見渡した。誰も居ない。外灯のわずかな明かりを頼っても静かな中野の街並みしかない。



 紐を解いて紙を広げて見ると、『最後の忠告はした。残念だ』とだけ書かれていた

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