第28話 昭和二十八年十二月二十七日(2)

 運転できない菫さんと万が一の責任を取りたくない善太郎さんの平行線のやりとりに終止符を打ったのは、誰もが不安になりそうな興奮気味な羽鳥さんの立候補だった。



 いや、本当に大丈夫なのかな。事故で死にたくはないけど、本人はもう運転する気満々で意気揚々として、菫さんが渋々渡した鍵をねじ込んだ。車は震えながら機械的ないななき声をあげる。



 助手席には咄嗟に手を出せる善太郎さんが乗り込み、後部座席には怪我人二人と鼎先生。妥当な席順といえばそうだけど、「本官はこれより運転の大命を請い、中野へと皆さんを運びますよぉ」アクセルを踏みながらギアを操作する手際はどうして上手いのか、走り出しは順調で、最悪の事故は全くの杞憂であったと改めるのに時間は掛からなかった。



 大型車を完全に扱いこなす羽鳥さんの満面の笑顔がフロントミラーに反射して、子供の様なはしゃぎように反した安全運転。そんな隣で周囲に経過を解かない善太郎さんの腕はスーツの内胸に忍ばされている。中野にある篝家で見せてくれた南部拳銃を思い出す。二度の襲撃に慎重に慎重を重ねている。普段見せない緊張感と気迫を纏う今の姿は元軍人に相応しい在り方。



「賀楽ちゃん、痛み止めを飲んでおいてね」



 水筒と薬剤を受け取って確かに腹部の痛みが主張しだしてきた絶妙な時機だった。鼎先生ほどの医師になればこれくらいは経験や知識から痛み出す時間を割り出せるのだろうと思ったがどうも違うらしい。



「少し額に脂汗をかいているからね。もしかしたらって」

「そういうことでしたか」



 しかし患者をよく観察して状態を把握するのもできる医師の一つの条件なのかもしれない。痛み止めが効くまではしばらく時間を要するがそれでもその間の痛みは我慢できないというものでもなく、気楽な車旅を楽しむくらいにはゆとりがあった。此方の旅気分を余所に相変わらず善太郎さんは垂れた目を車外に向けていて、僕の視線を感じた彼とミラー越しに目が合った。心配してくれているような、気を引き締めろと言われているような、そんな読み取りづらい視線を受けて、曖昧に微笑むと、一瞬だけ目を大きく見開けば気まずそうにまた車外へと目を戻した。



 結局何事もなく中野へと帰ってきたのは夕方だった。初めに鼎先生を診療所で降ろしてから写命館まで送ってもらい、僕と善太郎さんだけが下りて、ハンドルを握れない菫さんの代わりにそのまま羽鳥さんが専用駐車場まで運転することになった。専用駐車場から篝家まで徒歩でも十五分くらいかかるそうで、羽鳥さんにはそのまま屋敷まで菫さんを送り届けるように、と善太郎さんが言い付けた。



 写命館を前にして僕はずいぶん長い期間を空けていたような懐かしいという感情を抱き、恥ずかしいので心の中だけで、ただいま、と呟いた。



 このまま写命館に戻るなり何処かへと電話をかけ始めた善太郎さんは、和やかな声音でなにやら話し込んでいる。僕はそのまま二階居住区に登って自室で一息ついていた。予定より二日も長引いてしまったこの旅を善太郎さんは犯人の核心に迫ると言っていた通り、二度の襲撃を受けた。僕も菫さんも生きていたから良かったけど、これはいよいよ犯人の探られたくない、懐に手が届いたという実感をこの身にしかと得られた。



 診療所で降りた鼎先生は念を押して、「しばらくはあまり動いてはいけないからね。駄目だからね、絶対に」しばらくは毎日、診療所か篝家に顔を出して経過を観察するようにとも付け加えられた。明日は午前中であれば診療所でカルテの整理をしているようなので、都合の良い時間にお邪魔させていただく予定にしている。



 考えるのも今日は疲れて頭が働かない。というのも色々なことがありすぎて、整理するには散らかりすぎていて、何処から手を付ければいいのかもわからないだけなわけで、長旅で身体が披露しきっているのもその要因ではあった。



 窓を開けて外気を取り入れると気分もいくらかは晴れる。中野の香りを運ぶそよ風が僕の髪を悪戯に撫でていき、籠もった空気の隅々までをかっ攫ってしまった。



 自分の身も危険と隣り合わせにあると自覚しているからこそ、窓から顔も出さずに道行く人々を窓枠に顔を当てて人の往来を見渡せば、中野駅のロータリーに羽鳥さんの姿が見えた。彼の背後にはピッタリと張り付くように五十嵐刑事が歩いてくる。遠目でわかりにくいけど警帽から覗く羽鳥さんは背後の人物に気付いていない様子ではないだろうか。上司と同行していてあそこまで気にも留めない顔なんてできるはずがないからだ。いや……、羽鳥さんだったら本気で気にも留めない態度ができるかもしれない。菫さんの車の運転をしていた彼は、本来の役目を忘れたかのように浮かれていたのをしっかりと見ていたから言えること。



 二人は写命館へと向かって歩いてきて、扉のノブに手を掛けた羽鳥さんが飛び跳ねて五十嵐刑事に敬礼をした。ようやく気付いたようだ。隙だらけな若い警察官になにやら小言を垂れているのが真上の部屋にも届いた。



 店前で賑わう二人に善太郎さんがやれやれと迎え入れた。興味に駆られて自室を出て一階に降りると五十嵐さんが、「旅先で大変な目に遭ったと善太郎君から聞いていたよ。まだ安静にしていなきゃいけないそうだね」気遣いの言葉をくれた。



「本当に死ぬのかと思いましたよ。まだ無理をすると痛いですし、傷口も癒えきっていないので絶対安静です」

「絶対安静だとわかっているなら上で休んでいてほしいですよ」

「刑事さんと、どのようなお話をされるのか気になって休まりません」

「はぁ……。羽鳥君に身辺警護を任せて外で会ってくれば良かった」

「つれませんね」



 そう言いつつも善太郎さんは四人分のお茶を用意してくれた。



 テーブルを囲んで顔を付き合わせ、「善太郎君。それで聞きたいこととは何だね? わざわざ群馬から電話を掛けてきたくらいだ。事件に関係する重要なことなのだろう?」なるほど、篝家で電話を借りたのは五十嵐刑事に電話を掛けていたのか。ということは、帰宅して和やかに話していた相手も五十嵐さんということになる。



 足下に置いてあった鞄から二枚の写真。僕が阿式家にあった児童施設の写真を撮影した写真を五十嵐刑事の前に並べた。



「これがどうかしたのか。写真を撮影するなんて、まさか新しい写真家としての作品というわけでもないだろう?」

「よく見てください。この二枚を」



 目を細めて手に取った写真を比べながら見比べてしばらく、「まさか……」その反応に善太郎さんはほくそ笑んだ。



「あまり関わりのない俺では確信が持てませんでした。同姓同名だって珍しくはないですからね」

「榎本楓……。間違いなく家内だ。ずいぶんと印象も違うが、俺が見間違うはずもない」

「やはり、そうでしたか。五十嵐刑事にお聞きしたいのは、彼女の娘さんについてです」

「待ってくれ善太郎君。娘だと!? 楓に子供が居たなんて聞いていない」



 なんとなくそうだろうと予想していたように肩を竦め、「詳細は省きますが、この施設で娘と共に過ごしていたそうですよ」茶を啜る善太郎さん。



「これは事件と関係がある、と言いたいのか?」

「かもしれない、というだけです」



 目を閉じて難しい顔をする五十嵐刑事はしばし考えたあとに、「電話を借りる。直接聞いた方が確実だろうからな」大きな巨軀を揺らして立ち上がって売り場に置いてある電話に手を伸ばした。しかし一向に話す素振りもない。通じないようで、「おかしい……」眉間を寄せて戻ってくると、「今夜は記念日だから腕によりをかけて待っているといっていたんだが」凶兆を背筋に感じたようにソワソワとし始める。



「材料を買いに行っているのでは?」

「それはない。選りすぐりの材料は全て届けさせる手配になっているんだ。朝から家事やら支度で家を出る時間もないと笑っていたからな」



 いよいよまた立ち上がって、「なんだか嫌な予感がする。今日は帰らせてもらうよ。また後日話そう」店を飛びだそうとする五十嵐刑事を制して、「送っていきましょう。西新宿なら車で向かった方が早いですから」善太郎さんも表情から笑みを消した真面目な口調で言った。



「賀楽さんはお留守番だ。羽鳥君しっかりとよろしくね」

「は、はい! それが自分の居る理由ですから」



 いつもの間延びした受け答えで無く背筋を伸ばしてハキハキと返した羽鳥さんは、五十嵐さんがこの場に居るからという理由ではなく、善太郎さんの調子のせいだということは僕も彼から発せられる雰囲気に気圧されたからに他ならない。



 写命館を飛び出した二人を見送った羽鳥さんは鍵をしっかりと閉めた。



「嫌な予感がするのは気のせいでしょうかぁ」

「僕もこれから良くないことが起こるような気がしてます」



 二人顔を合わせて、ですよねぇ、と互いに不格好な笑みを浮かべた。



「ひとまず上に行きましょうか。料理を教えてくださいよぉ。あっ、身体に無理させない程度にですけどね」

「いいですよ。何が残って」



 二人で階段を上がろうとした時に背後、扉をコンコンと叩く音に振り返った。



「善太郎さん、何か忘れ物でもしたんすかねぇ?」



 扉にはレースのカーテンがされていて訪問者の顔もわからない。日も沈む直前のせいで外は暗く、カーテンに浮く影絵は二人分だけど、少なくても身長の高い善太郎さんと五十嵐刑事のものではない。鍵はしまっているし写命館は大通りに面しているので人目もある。押し入られた場合は悲鳴でもあげて見せれば有利なのは此方。



 羽鳥さんがカーテンを捲ると、野菊さんと彼女の背後に菫さんが佇んでいた。



「ありゃぁ、篝家の奥様と佐々木さんじゃないですかぁ。どうしたんすか?」



 彼女たちを招き入れて良いのか判断もつかない羽鳥さんは此方に視線を向けた。僕は是非上がってもらってくださいと、頷くと二人を招き入れて鍵を閉めた。



「佐々木さんから話は聞きました。群馬で銃撃にあったって。心配で心配でいても立ってもおられずにこうして足を運ばせてもらいました」

「電車できたんですか?」

「バスを使ったわ。診療所でもう一度、佐々木さんを看て貰っていたの」

「しばらくは運転できそうにないですよ」



 撃たれた腕の手を痛そうにヒラヒラさせた。



「料理をしてあげたほうがいいかと思いましてね。シチューでよろしいかしら?」



 野菊さんの持つ手提げ袋にはタマネギやジャガイモといった材料が大量に入っていた。



「梶木さん程ではないですが、嫁修行で料理はひと通り食べられるくらいのものは作れますわ」



 せっかくの申し出に感謝をして台所に立ってもらうことにした。羽鳥さんは恨めしそうに手際よく皮を剥いている野菊さんを部屋の扉からこっそりと伺っていた。菫さんも野菊さんの傍に立ってあまり負荷の掛からない作業をこなしている。彼の機嫌を直すべく僕は彼を部屋の中に引っ張り込んで、「羽鳥さんが居てくれるから、善太郎さんも自由に行動ができて、僕も安心して暮らせています。今回は教えられなかったので、また別日にお願いしますね」彼の役割に感謝して、「少し僕と遊びませんか?」お酒とトランプを取り出した。



「なにが始まるんすかぁ? あれ、坂下さんって未成年すよねぇ」

「飲むのは羽鳥さんですから。ちなみに言えばこのお酒は善太郎さんのお気に入りに一本です」



 銘柄や価値もわからないけど黄金色が綺麗なウィスキー。ちなみにこれから何を始めるのかと言えば、お互いにカードを一枚ずつ引いて、数字が低かった方がショットグラスに並々注いだお酒を一気飲みするという、流行のバーで人気を博している遊戯だ。善太郎さんが本気で楽しめる遊びで、たまに僕を相手にしたりバーに顔を出しては時間を過ごしている。



 もちろん僕は未成年だからお酒は飲めない。僕が負けた場合は着物を一枚ずつ脱いでいく。酒が入れば善太郎さんは饒舌になって色々と恥ずかしい秘密などを勝手に吐露し、僕が肌を晒していき最後には秘密が露見するという非常に危ういもの。



 羽鳥さんは顔を真っ赤にして僕の頭から足先までを二度往復して、「じ、じじ、自分は市民の安全を守る警察官ですよぉ! そ、そんな破廉恥な」予想以上の慌てぶりに、「女性経験がありませんね?」この言葉がトドメになってしまったようだ。



「気にしてるんすよぉ。親父もお袋も早く嫁を取れって急かすのに、相手なんてどこにいるんすかぁ」



 これは申し訳ないことを言ってしまったという罪悪感から、「では脱ぎません。僕に勝てたら、僕で良ければ貰ってくださいませんか?」条件を改めると、「あ、それなら良いっすよ!」俄然やる気が出て千変万化に表情を変えた。



 僕は賭博師ではないがこうした賭け事が嫌いではない。むしろ好きなくらい。この遊戯で僕は一度の敗北もなく常勝無敗の戦歴を誇っている。運は僕に味方をしているのだから今回も負けるはずが無い……、そう高を括っていたのだが……。



「そんな……、どうして」



 まったく勝てないのだ。決して引いた札も悪くなかったはずなのに羽鳥さんはルール上で最強のジョーカーを最適な場面で引き当てる。



 この遊戯は山札が無くなるまで続くか、もう逆転できないと判断された時点で勝負は打ち切られる。残り三回の敗北で僕はもう逆転できない。



 焦る。これは非常に宜しくない。指先が湿る。動悸がしてくる。鼓動も激しく。羽鳥さんは賭博に対しての天賦の才でも持ち合わせているのか、妙に真剣な目付きで山札を凝視して僕が引くのをジッと待っている。



「せーのぉ!」



 同時に引いた札を場に出す。



 二番目に強い十二の絵札の僕に対して最強の十三の絵札を出した羽鳥さん。



 この回も負けだ。



 次も負けた。



 残り一回の敗北しか許されない。



 これは僕もいよいよ覚悟を決めなければならない。勝負を諦めていた僕が羽鳥さんに勝てる道理も無い。さようなら坂下賀楽。僕は……。あれ、どうして僕は結婚するなんて言いだしたのだろう。僕は死ぬ。だから結婚しても旦那様を置いて逝ってしまう。それが嫌だから僕は一生を独り身で、もちろん身体の理由もあるけど、貫こうとしていたはずだ。



 その意志は罪悪感から投げ出すようなものでは決してなかったはずだ。



 これはいよいよ僕はそこまで生に執着してしまっているようだ。



 誰かとこの先も一緒に生きたい。



 叶わない願いを乞う僕は哀れだなぁ……。生きられるはずなんてないというのに。これでは残りの人生を苦しむはめになる。死ぬからこそその時まで悔いなく生きよう、僕にはそれが相応だ。ちょうどいいのだ。高望みしても虚しいからこそだ。



 しかし一度口にした約束事を反故にするつもりもない。



 互いにカードを引いて、僕は自分の持ち札を見て笑いが込み上げてきそうになるのを必死に堪えた。スペードのエースカードだ。この遊戯で最弱とされるカード。



「坂下さん。この勝負はお預けにしましょうか」

「どうして?」

「事件が解決してから、カードではなく、男としての自分を見て決めて欲しいんすよねぇ。自分を賭け事の景品にするのは、やはり警察官の自分は見過ごせないんすよ」



 自ら勝負を放棄する羽鳥さんの見せた笑顔はなんだか寂しそうで、僕という景品を前に浮かれてしまった自分自身を恥じているようにも見えた。彼の手からカードを抜き取って見ると、この山札に眠る最後の十三の絵札だった。それもハート柄の。



「ごめんなさい」

「ん、何がですかぁ?」

「羽鳥さんを弄んだしまったことです。猛省しています。もし僕に気があるようでしたら、僕も真摯に羽鳥さんと向かい合わなきゃいけませんでした」

「ならば事件解決後に坂下さんのことを教えてください。まずはお友達から関係を作りましょうよ」

「はい。そうですね」



 真っ直ぐに好意を向けてくれた彼に僕は強く頷いた。

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