第29話 昭和二十八年十二月二十七日(3)

 五十嵐刑事と善太郎さんが写命館へ戻ってきたのは夜遅くだった。心配して残ってくれていた野菊さんと菫さんは篝家を警護している警察官の一人が迎えに来て帰って行った。



「西新宿なら時間は掛かりませんよね?」



 どんなに遅くても五時間以上も掛からない。話し込んだとしても二時間から三時間くらいか。それに今日は記念日と言っていた五十嵐さんも一緒に写命館に戻ってきたのは不可解だ。なにより二人の顔色は悪く、まるで見てはいけないものを見たように口を閉ざし、二階の居間で対面してソファに腰を下ろした。



 さっきまでとはまるで別人のように、身長が一回りは低くなってしまったのではないかと錯覚してしまう雰囲気は異常だ。羽鳥さんも上司の様子に違和感を感じているようで、軽口も挟めず、僕と一緒に台所でお茶の用意をしている。



「何があったんすかね。あんな五十嵐さん見たこと無いんすよぉ」



 小声で話したつもりらしいが、緊張でうわずった声が出て、一瞬だけ五十嵐刑事が顔を上げたが直ぐにテーブルへと落とす。



「善太郎さん?」



 ただ黙して目を瞑る善太郎さんも自分から何かを話すつもりは無い、というよりかは考え事をしているようで、何か尋常では無い事が起きたのは明白。



「楓……」



 重い溜息を吐きながら呟いた五十嵐刑事の声は震えていた。



「あんなのはハンバーグどころじゃないですね」



 彼も同様に溜息をついて瞑っていた目を開けて五十嵐刑事を睨み、「物盗りにしては行き過ぎている。殺人も然り。どうしてあんなことが人間にできるというのか」いつも車に積み込んでいるはずの予備カメラをテーブル上に。



「な、何があったんですか」



 いよいよ聞くのも憚れるが勇気を振り絞って五十嵐刑事を見た。



「楓が……、俺の妻が殺されていた。バラバラだったよ……。用意された鍋には頭部が煮込まれていた。楓の血は壁に塗りたくられて、さようなら、と書かれていた」



 他の身体の部位もその他の料理に使われ、洋菓子店から取り寄せた二人分のケーキには婚約指輪をはめた左薬指が蝋燭の代わりに突き立てられていたそうだ。



「善太郎君。これはハンバーグと同一犯だろうか?」

「私に聞かないでください。それを調べるのは警察の仕事であり、旦那さんの五十嵐さんの役目ですよ」



 あんまりな言い方ではないか。五十嵐刑事がここまで消沈しているというのに突き放したような口ぶりで。



「ですがね、素人の第三者見解でいえば別人でしょう。これまでのやり方とかけ離れすぎていますからね。人間の身体を料理に使う点では共通しますが、近くて模倣犯の仕業と考えた方が現実的だ。なにより心臓を収めた箱さえ見つからなかったのだから、パンドラという訳でもない」

「これは……。この事件も続くのか」

「五十嵐家に恨みを持つ者の仕業でなければ続く可能性もあるかもしれません。ハンバーグ事件に感化されでもした、一種の盲的な信仰……。絶対的な憧れの形代に自分を嵌め込みたい子供染みた願望に過ぎない」



 ここにきて全く別の事件が起きては捜査も攪乱し、ただでさえ足りていない人手を割かねばならないと嘆きつつ、楓さんを亡くした喪失感も拭えずにいる五十嵐刑事は心此処に在らずである状態も仕方ない。



 しっかりしろなんて誰が言えるか。



「しっかりしてくださいよ。五十嵐さんがそんな状態だと部下や周りも気遣ってしまう」



 時々、善太郎さんには良心がないのではないかと本気で思ってしまう発言を耳にする。一見して優男で頼りない、物腰の柔らかな一面と反した断崖から突き飛ばすような一面の持主。ちぐはぐしている。落合善太郎という人間が定まっていない、いくらでも如何様に変化する彼のそれはもはや才能とでも言えようか、これは何処に派遣されても反発なく馴染んでしまえる柔軟性と評価すればそうなのかもしれない。



 しかし間違っても今はそんな時ではないはずだ。



「私と五十嵐さんの仲じゃないですか。何でも言ってくださいよ、出来る範囲でよければ協力はします。むしろ使えるものは何でも使うくらいの覚悟で挑まねば、今の貴方と同じ思いをする罪も無い市民が増えますよ。ただでさえ馬鹿げたハンバーグで世間は混乱もしている。こういう芽は早期に摘むべしと軍時代に習いましたよね」

「憲兵くらいではないのか、そんな非国民を取り調べるのは」



 少し笑った五十嵐刑事はみるみるうちに活力をその芽に滾らせ、復讐よりも市民の安全を守る警察の大命に燃えているようである。



「しかし私は疑問に思っていますよ。楓さんを殺害した犯人はどうして五十嵐家を漁る必要があったのか。閑静な住宅街といえど西新宿です。石垣を隔てた向かい側はそれなりに人通りもある。私が犯人であるならば殺してさっさと逃げ出しますけどね」

「血液の乾きと変色具合からザッと見ても六時間くらいだそうだ」

「夕方には殺されていた、というわけですか」

「難しい時間帯だ。あそこら一帯は子供を持つ家庭が多い。人目も多く逃げ出すのは困難なはず。それにあれだけ解体したとなれば」

「血痕はあらかじめ作業服でも着ていたんでしょう。身体に付着したのだって洗い落とせなくも無いですから、後はどれだけ自然に家を出て行くかでしょうね」

「近隣住民には警察が聞き込みに回っているから、明日くらいになれば証言も得られるはずだろう」



 そこで事件に関する話題は打ち切られた。というのも鑑識や聞き込みの調査結果を聞かなければ机上の空論に過ぎないからという理由で。五十嵐刑事も善太郎さんも食欲はないようで、自宅も殺害現場ともなれば帰宅することができず、善太郎さんの提案でしばらく写命館の空き部屋を使うことを勧め、「ああ、助かるよ。すまないね」好意に甘えさせて貰うと頭を下げた。



「気にしないでくださいよ。困ったときはお互い様。戦場で私を助けてくれた五十嵐さんには本当に感謝しています」

「昔のことを持ち出すな」

「持ち出して巻き込んだのは誰でしたか」

「そこを突くなよ。痛いだろ」



 上司から二日の休暇を強制されたが明日から現場に復帰すると言って聞かなかった、と善太郎さんは笑いながら言った。五十嵐刑事も奥さんを忘れようとしているのか無理に笑っているように見えた。



「あの。五十嵐刑事に調べて頂きたいことがあります」



 あの晩の黒い袋を担いだ人物が乗っていった車の写真を見せた。



「たしかにそんな時間に黒い袋を運ぶなんて怪しいな。何処にでもある車種だし、なにより霧がこうまで濃くて明かりも外灯だけじゃあ、割り出すのは難しいよ。調べてみよう」



 それから煮干しを肴にウィスキーで乾杯する二人の時間を邪魔しないよう、僕と羽鳥さんはその場を撤退してそれぞれの部屋に籠もった。



 榎本楓さんの件に不可解さを抱いていた。



 榎本楓さんが殺されてしまった理由。血で書かれた、ごめんなさい、の意味。殺すだけではなく自宅内を漁った痕跡。なにより此方の都合の悪い、狙ったような時機に殺害されたことだ。



 群馬で僕等は襲撃を受けた。これは脅し文句の警告をしていたハンバーグ事件の犯人で間違いはないはずだ。仮に犯人が本家での会話を盗聴していたとして、榎本楓さんの存在を知って消そうと働いた場合、それでも問題は二つある。どうやって彼女の住所を特定したか。そしてもう一つが善太郎さんも言っていたように殺し方が異なる。流儀違反と言ってもいい。たまたまでない限り、あの人肉加工に関わりのある人物だと犯人は自ら証明してしまったことにならないか。



 一つ浮かんだ仮説だけど、ごめんなさい、の血文字は榎本楓さんの犯した罪に対して。榎本楓さんは人肉加工工場に姉妹のうち妹を差し出している。娘に対しての謝罪を犯人が彼女の血を以て残した、と考えるのは少々現実的ではないだろうか。



「わからないよ」



 行き詰まった頭では考えても進展はしない。僕も警察の捜査報告を待ってからにしておく。



 シンと静かな部屋の外からは獣の雄叫びと聞き間違えるような声が轟いた。五十嵐刑事の慟哭であることは疑いようもない。酔ったお陰でこれまで溜め込み、せき止めていた感情が崩落して涙を流しているのだ。大切な人を失って悲しくないはずがない。野菊さんも含めて殺された人を大切に想う人がいたはずだ。あと何人の人間が死ねば犯人は満足するのか。人が一人死ねば最低でも一人以上の人間が悲しむ。いったい世界中の人間が悲しみに飲まれるまで何人の死を捧げればいいのか。



「僕が死んだら何人が悲しむのかな」



 鎌倉から会いに来てくれた両親はきっと悲しんでくれる。あとは僕を応援してくれるファンの方達が悲しんでくれれば何人かはわからないがそれなりの人数になる。逆に喜ぶ人間もいる。そう、善太郎さんだ。彼が魅了された至高の死を演出すれば喜ばれる。逆に中途半端な醜い死であれば善太郎さんは涙を流すかも知れない。が、その涙は自分の求めていた物を得られなかった悲しみであり、虚から流された自分勝手な涙に他ならない。



「少しだけでも長く生きたいな」



 でも死ぬなら確かに血反吐をまき散らして醜く死ぬより、美しい最期を迎えたい。その点では善太郎さんと一致しているはずだ。もしかしたら僕が血反吐嘔吐塗れになった遺体を望んでいる可能性も捨てきもしないけど。いや……、それはちょっと勘弁していただきたい。たぶん大丈夫。ハンバーグ人間に対して否定的だったから。



 お腹の縫合後を手で擦ってみてた。



 切開跡は一生残ると言われたけど小塚先生は、「これだけ綺麗な処置だから気にはならないはずだよ」鼎先生の腕に感心していた。



 鼎先生は資料やカルテを相手にまだ仕事をしているのかな。野菊さんはもう眠ったかな。梶木さんの料理は美味しかったな。菫さんも運転できなくなる怪我じゃなくて良かった。持田さんは責任感が強い印象だったから警察と一緒に夜通し見張っているかもしれない。千紗ちゃんさんは怖がりさんな性格だから毎夜怯えていなければいいけど。



 ひとまず明日から善太郎さんがどう動くか。僕も勝手に行動できないし無理もできない身体なので、善太郎さんの監視の下に出来ることをするつもりだ。いつも通りに写命館でお客さんの対応。たまに善太郎さんと外回りに出るくらいだろう。



 外が静かだ。

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