第27話 昭和二十八年十二月二十七日

「もう大丈夫ですよ」



 酷い眠気のなか目を開けると善太郎さんが覗き込んでそう言った。何が大丈夫なのだろうか。全身に力が入らない。なんだかお腹が凄く痛いし、少し気持ちが悪い。



 しばらく天井を眺めていて自分が仰向けに寝ている状態だと理解すると同時に、自分の身に何が起きたかを思い出した。



「そうだ。撃たれたんだ、お腹」

「犯人は見つからなかったけど、斜線上を探ってみたら、廃墟から九九式狙撃銃が見つかったよ。床に大量の水やら何やらがこぼれていたことから急いで逃げたんだろう。私達が通過するその瞬間をずっと待っていたと考えていいね。目立つ車なわけだし。オニギリやパンが手付かずの状態でそのままにされていたから、もしかしたら昨夜からなんてことも」

「自分もその現場を確認しましたが、射撃精度がおかしくないですかぁ。あんな距離から発砲して坂下さんの腹部に打ち込むなんて」

「腕利きの射撃手でもあそこまでの距離からはちょっと難しい」



 辺りを見渡して自分が何処かの医療施設にいることだけはわかった。鼎先生は直ぐ近くの椅子に座って眠り込んでいる。菫さんはいない。代わりに白髪頭の白衣を着た老人が僕の傍に寄って、「危ないところだったね、お嬢さん。彼女……、松葉さんと言ったかな。彼女の医療技術は素晴らしいよ、完璧な域だ。きっと、私や他の医師が担当していたら、間違いなく助からなかっただろう。にしても、診療所のドアを叩き割って侵入してきた時は驚いたもんだ」彼はここの診療所の医師で、小塚こづか浩志ひろしと名乗った。



「すみません、僕のせいで。壊したガラス代はお支払いします」

「いいんだ。気にしないでくれ。医療の奇跡を、いや、医療の神を拝めたんだからね。それより聞きたいのだが、キミは坂下賀楽さんで間違いはないかな」

「はい。僕が坂下賀楽です」

「そうかそうか。孫がキミにお熱でね。まだ五つなんだが、話は嫌という程に聞かされていたよ。実際に会って私もお熱になってしまったようだ。これは医術ではどうしようもないね。今度、写真を買いに伺わせてもらうよ」

「その時はサービスさせてください」

「楽しみにしている」



 目元の皺をより一層に深くして朗らかな笑みを浮かべた小塚先生は思い出したように、「ああそうだ。これを落としたよ」二枚の写真を渡してくれた。



「山梨の孤児院だろう。知っているよ、私も昔はその近くに住んでいて、往診なんかもしていたからね」

「あの。当時の事お話しして頂けませんか?」

「まだ安静にしていたほうがいい。今度、お店に伺ったときでも」

「いえ。いま知りたいんです」



 僕の様子に善太郎さんと羽鳥さんが何事かと此方を向き直る。



「わかった。確か……、焼失する一年くらい前かな。私に定期的な往診を頼まれたのは。月一で孤児院を訪れていたんだ」



 全体ではなく個人を知りたいので、榎本楓という女性と鈴本加代という少女に絞って聞いた。



「榎本さんと加代ちゃんか。覚えているとも。あの孤児院で他の子たちや職員達とは違う眼をしていた。親を亡くしたり捨てられたりした子達よりも深く絶望した、まるでこの夜の地獄を見たような目だったからなぁ。写真には写っていなかったけど、榎本さんには娘さんがいたんだが、可笑しなことに、名前は無い、と言うんだよ。私も含めてみんな困っていたね。どうして名前を付けないのか、と。それでは困ってしまうと言ったんだが、名前はもう無いんだ、と楓さんに泣かれてしまって。本人も何も喋ろうとしないものだから、これは容易に踏み込んではいけない問題だと諦めたさ。加代ちゃんも他の子供達とは距離を置いて、楓さんの娘さんとばかり遊んでいたよ。ああそうそう、娘さんなんだけどね、ちょっと不気味というか、いつも木で出来た電車のおもちゃで遊んでいたんだけどね」

「それの何処が不気味なんですか?」

「人形を床に横たえさせて、電車で轢いて遊んでいたんだ。加代ちゃんもそれを見て笑っていたのを遠巻きに見てゾッとしたのを思い出した」



 普通の子供であれば無邪気ゆえの残酷さを持つが、それとは一線を画する雰囲気だったそうだ。



「あとね。これもまた娘さんの話になるけど、頭がずば抜けて良かったんだよ。特にこうしたらこうなる、という複雑な仕組みを取り入れたおもちゃを作っては、他の子供達にあげていたようでね。しかしこれがまた子供達に人気で、ビー玉を目的地まで落とさずに盤を傾けて運ぶという単純なものなんだけどね。その途中途中で軽量を使った仕組みやら、熱で作動する仕組みなんかも取り入れていたんだ。私も一度遊ばせて貰ったことがあるんだけど、あれはあんな子供が思いつくような仕組みじゃない。しかし、ねぇ。孤児院が焼失した後は楓さんもその子も、加代ちゃんも消息が掴めなくなったんだ」



 医師は声を低くして、「楓さんの娘さんが焼いた、なんて子供達や職員が囁き合っていたのを聞いたよ。確かにあの子ならそれくらいは簡単にやってのけそうだと納得してしまった」これで話は終わりだと息を吐いた。



「消息不明の名も無き天才児。それほどまでに頭の回る子供であれば、犯行計画や手段も容易に浮かびそうではあるね」

「探偵みたいっすねぇ、落合さん」



 憎悪の念に掻き立てられた名無し子が人間加工肉の関係者に復讐していく。筋書きとしては真っ当であり、その目的の一つに篝家が人道を外れた行為の公言。秘めた災厄を隠すパンドラの箱。最後に残る希望がやはりまだわからない。



 希望を読み解いてこそ犯人に辿り着ける気がしているのはどうやら僕だけではないようだ。難しい顔をした善太郎さんが思案するように腕を組んで壁にもたれている。



「おっ、目を覚ましたのか。良かったぁ」



 警察の事情聴取の愚痴をこぼしながら僕をそっと抱きしめた菫さんは何度も、「死ぬかと思ったんだから。あんなにぐったりしてて、血だらけで」心底心配掛けてしまいこれには僕も謝罪するしかない。



「こら。佐々木さん、離れて。傷口が開いちゃうよ」



 今まで眠っていた鼎先生が大きく両腕を天井に突き出しながら肩を鳴らして言った。彼女の様子から治療に随分と神経を磨り減らしたようである。そもそも僕はどれくらい眠っていたのだろう。そんな疑問に、「二日間も意識が戻ってくれないから、神様にお祈りするしかできなかったよ」切れ長の目を擦りながらまだ眠そうに、小塚先生がカップにコーヒーを注いで渡した。



「キミは天才だ。医療の知識から治療技術どれを見ても完璧だった」

「長い年月を海外の医療を学んでいたものですから。身に付いていなかったら師に殴り飛ばされてしまいますよ」



 コーヒーを一口、大きな溜息を付いたことでようやく身体から余計な力も抜けたようで、「賀楽ちゃん。今のところはどう、体調」僕は頷き返した。



「いつ、帰れますか?」

「まだ安静。賀楽ちゃんは最低でも二日は様子見。傷口が心配だから。わかった?」

「善太郎さんはどうしますか?」

「私は賀楽さんの保護者ですから。もちろん残って君の傍に居るよ」



 全員が二日間、この町に留まることになった。



 しかし翌日の朝刊でまたハンバーグ事件の見出しが大々的に報じられていて、大衆の関心を惹き付ける事件であるという理由とは別に、被害者が大手建築会社の若社長であり、その人こそ佐々木菫さんの旦那さんだったからだ。



 死亡推定日時は篝本家に向かった当日の夜。つまり篝家に宿泊していた日で、昨日の早朝に神奈川にある建築会社近くの神社裏手で発見された。その神社は日中多くの人が参拝にくるようで、遺棄された時刻は深夜だと予想されている。



 僕や鼎先生とお喋りしている時にその事実を知り、菫さんは口を閉ざし、項垂れてしまった。しばらく一人にして欲しい、と病室を出て行った。こういう場合に安易な言葉は掛けられない。下手に言葉を投げかけても余計に傷つける場合がほとんどだ。



 事情を知った善太郎さんが五十嵐さんに連絡を取り、佐々木建築会社が請け負った依頼の中から、山梨の奥地で精肉加工場の建設依頼書が見つかったそうだ。



 菫さんは知っていたのだろうか。



 旦那さんが山梨の工場を建設に携わっていたことを。



「お辛いかも知れませんが、佐々木さんは旦那さんが例の工場建設に携わっていたことを知っていましたか?」



 善太郎さんが無言を破った。



「知らないよ」



 短く答えた声に生気は無い。



「結婚していてもほとんど別居みたいな生活だったし、会うのだって月に四回くらいだしさ」



 少し顔を上げた彼女に表情は無く、涙も無い。ただの無がそこにあった。



「ああ、涙も流せない私って最低だよ、ほんと。好きだったのに心が揺さぶられないっ! 悲しんでいないんだ、私は!」

「それは違うんじゃないかな。佐々木さんは大切な人を亡くして心に大きな穴が開いちゃったから、どうしていいかまだ整理も付かなくて、感情がどう感じて良いかわからなくなってるだけ。直ぐに涙は流れてくるよ」



 菫さんを真っ直ぐ見つめる鼎先生から視線を外さずに、「そうだろうか。私は案外非常で冷徹な女だったってだけかも」自虐的な笑み。



 少し気分転換をしたいと診療所を出て行ってしまった。誰も付いていかずに大丈夫だろうか、とも心配するもあの状況で付いていくわけにもいかない。ついて行けるはずもない。



 菫さんが診療所に帰宅したのはそれから三時間後だった。気分が晴れたのか、少しだけ元気な素振りを見せるくらいまでには回復していて、警察から車を返却してもらいに怒鳴り込んでいたそうで、いつでも発てると言った。



 狭い診療所に大所帯で二泊させてもらう。僕の傍には鼎先生と善太郎さん、もしくは羽鳥さんが常に張っていた。連日の徹夜で鼎先生は眠そうだけど、万が一の様態悪化に備えて眠れない、と医者としての責任を全うしようと意気込むが、今日は小塚先生も泊まり込むと言ってくれた。彼の目的は鼎先生に休息を取って貰う為。彼女は義理堅い人で昼間の診察を手伝っていたのだ。休む間もなく患者の対応に追われるこの診療所だけでは手一杯だと部屋の外の様子に耳をそばだてていれば明白。



「私が様子を看ていますからどうか休まれてください。何かあれば起こしますから」

「じゃあ、隣のベッドをお貸りしようかなぁ。うーん、眠い」



 カーテンで遮ってベッドに潜り込んだ鼎先生は、シンと無言に音も立てずに眠ったようだ。



「ここは私が張っているから羽鳥君、キミは佐々木さんに付いていてあげてくれるかな」

「佐々木さんっすかぁ?」

「彼女も篝家の人間だよ。旦那さんも殺されたんだ、彼女だって狙われる理由は十分にある」

「了解」



 ビシッと敬礼した羽鳥さんは彼女が休んでいる待合室へ。



 寝過ぎて眠くない退屈な時間に長く深い息をついた瞬間だった。外から、診療所の入口や待合室の方角から発砲音が聞こえた。



 ガダッと物を蹴飛ばした音や慌ただしい足音が向かってきて部屋に二人が転がり込んできた。菫さんを支えた羽鳥さんが、「肩を撃たれたんすよぉ!」誰よりも隣のベッドで寝ているはずの鼎先生が飛び起きるなり、菫さんの衣服のボタンを外して右肩を露わにさせた。善太郎さんと羽鳥さんはというと視線を合わせて頷き合うと、それぞれ部屋の扉の左右の壁に張り付いて、正面廊下の奥、受付や待合室のある方角へ顔を半分だけ覗かせて伺っている。



 僕も身体に負荷をかけないように身を起こしたけど、何かが出来るわけでもない。ただこんな事態で横になっていることができなかっただけだ。せめて怪我さえしていなければ良かったのだけど、「賀楽ちゃんは危ないから布団被っててね」菫さんの手当をこなす鼎先生が言った。



 渋々横になって布団を頭から被る。



布団の暗闇の外から、「どうするんですぅ。外を確かめてきますか?」に対して、「いや。相手は銃を所持していますからね。銃声を聞きつけた警官が到着するのを待つのが賢明だよ」二人のやりとり。



「ねえ、佐々木さん。犯人は見てないの?」

「見てないよ。羽鳥さんが来て立ち上がった途端に撃たれたんだからさ。帰りは運転できそうにないな、これは」

「落合さんにでも運転してもらうとしましょうかね」



 努めて明るく振る舞う二人も緊張しているようで、その空気を察していたのか、「あんな高級車の運転なんてご免ですよ。傷つけでもしたら弁償できる自信が無いですから」飄々と笑っている声。



 町中での発砲ともなれば近隣住民や警官の対応は迅速で、直ぐに診療所に数名の警察官が駆け込んできては事情説明を求めた。これには菫さんと羽鳥さんが対応し、診療所の大通りを挟んだ向かいの雑居ビルの間に狙撃銃と台座の役割を担う木箱が転がっていたと報告を受けた。



「昨日の件といい今回といいどうしてわざわざ狙撃銃を置いて行く? ああ、お巡りさん。狙撃銃の近くに飲食物などはありませんでしたか」

「ゴミだらけだったよ。でも、雨も降っていないのにずいぶんと地面が濡れていたかな。それにまだ温かい蝋燭と半分に千切ったオニギリが置いてあったなぁ」

「ボヤ騒ぎにならなくて良かったですね。しかし、狙撃手はずいぶんと目の良いことだ。暗闇の中にいる人を撃ち抜くんだから、これはいよいよ」

「いよいよなんですか、善太郎さん?」

「言葉の綾ですよ。忘れてください」



 しかし菫さんも命に別状が無くて良かった。そこは喜ばしいことで、鼎先生の診断では上手く腱や筋、神経と言った重要な箇所は外れているので動かなくなることはないようだ。狙って撃ち抜いたなら本当にただ者ではない。



 警察官一人を捕まえた善太郎さんは彼を連れて何処かに行ったのを僕は何も言わずに見送った。

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