第25話 昭和二十八年十二月二十一日

 パンドラの箱は開ければ災厄が瞬く間に世界を呑込み、最後に箱の底には希望が蹲っている。犯人が求めているのは災厄か希望か。仮定としてパンドラの箱を人の心とした。しかし篝家のパンドラの箱の災厄とは一体何を指すのだろうか。精肉工場を災厄とするならば、わざわざ中野の篝家でなく、本家に送りつけるべきではないだろうか。希望は義龍さんの後悔や懺悔であれば良いと思う。



「やっぱり義龍さんが胸に秘めていた事業のことかな。世間に知られれば篝家せかいに災厄が降りかかる?」



 客間で熱いお茶を啜りながら明けていく夜を眺めていた。なんともノスタルジーな時間だろう。最近覚えた海外の言葉だ。なんでも望郷を懐かしむという意味があるようで、故郷の鎌倉や隔離された病院ではこんな気持ちを抱いたことも無い。このような幻想的な雰囲気を何処か……、胎児の頃に母胎で見た夢か、前世の記憶に想起して抱いた感情だということにしておく。



 僕もだいぶ馬鹿なことを考えるようになったものだ。一人盛大に笑って咳き込むと、息切れにぜぇぜぇと悶えながら床に転がり落ちて身体を丸めた。軋み上がるような筋肉と骨の痛みは発症したからだ。



 しかしこの程度ならすぐに収まることを長年の経験から知っていた。実際、十分もしないうちに息切れも全身の痛みも和らぎ、ただ置き土産として残る頭痛だけは時間が掛かりそうだった。



 仰向けにベッドに倒れ天井を眺める。



「入るよ、賀楽さん」



 返事もしないで善太郎さんが部屋に入ってきた。



「何か御用ですか? 僕が寝てたら引き返してくれました?」

「まさか。夜這いに来たのに引き返すなんて女々しい」

「こんな身体を抱きたい?」

「冗談だけどね」

「面白くない冗談です。酷く傷つきました」

「それは、すみませんでした。大切な賀楽さんを傷物にしたくはないのですがね。商品に自ら手を付けるなんて真似はしません」

「心はいくら傷つこうがお構いなしですか?」

「私は最近悩みが出来ました。今にも死んでしまいそうな貴女を美しく好ましく思っていた。しかし実際、貴女が死ぬときに人形のような坂下我楽と、人間のような坂下賀楽、さていったいどちらが私の望む死を魅せてくれるのか、とね」



 優しい眼に穿たれた底なしの死の色。ジッと死が此方を覗く。僕も死の底に惹き付けられたように視線を動かすことが出来ない。今にもバリバリと善太郎さんの皮膚を内側から引き裂いて何者かが姿を現しそうな想像が脳裏を過ぎる。



「本当は何をしに来ました?」

「実は部屋の外にずっと居ました。変な意味で捉えて欲しくはありませんので弁明をさせてもらうと護衛です。気付きましたか? 三時間前までは羽鳥君が扉の前で船を漕ぎながら仁王立ちをしていたんです」

「気付きませんでした。物音一つしませんでしたから」

「で、何か部屋の中から大きな物音がしたから確認に、というわけ」

「どうして護衛を? ここは篝家ですよ」

「此処が安全だなんて保証もない。これだけ広い屋敷だ。給仕もいない、人の眼も警備も手薄な洋館なんて侵入しようと思えばなにも難しいことはないだろ」



 確かにこれだけ広い屋敷に給仕がいないのは、義龍さんが急遽暇を出したからだそうで、事件と被害者を知って万一にも余計な二次被害を出さないための処置だと佐和子さんが教えてくれた。



「此方の足取りはもう知られていると考えていい。いつ、どのような形で賀楽さんが狙われるかわからない以上は、こうして手薄な時間を私と羽鳥さんが張っているというわけです」



 ベッドの縁に腰掛けた善太郎さんはそのまま仰向けに倒れ込み、僕と並んで添い寝する。「寝ていなさそうだね。抱きしめてあげますから少し寝むってはどうです?」気遣う彼に、「もう目が冴えてしまっていますから」丁重にお断りする。



 しばらく静かな時間を過ごした。特に話すこともない時間。時折、飽きたように善太郎さんが僕の髪に指を絡めて遊んでいるが、気にも留めずにされるがままでいる。



 朝日が部屋を照らすまでの時間が長く感じた。



「誰かが来たようですよ」



 身を起こした善太郎さんとノック擦る音が同時で、「はい。どうぞ」僕の代わりに善太郎さんが応えると、「あれ、ここって賀楽ちゃんの部屋だったよね。私、間違えたっけ?」ベッドの上に胡座をかいていた善太郎さんを見て首を傾げ、次にまだ寝転んでいた僕を見て、ははぁん、と意味ありげに口角を持ち上げた。



 それは勘違いである。僕も身体を起こして弁明するけど、「あらあら、いいのに必死にならなくても」なんて聞く耳も持たず、少々不満である。



「冗談はそれくらいにしないと賀楽さんの機嫌を悪くしますよ、松葉さん?」

「それはいけないねぇ。冗談を言っていて言いそびれたけどおはよう。朝の診察だよ」



 小さく溜息をついて、「先程、身体が悲鳴を上げていましたけど、もう大丈夫です」そう返した。



「ちょっと窓まで来てくれる? 明るい場所でよく視診したいから」



 先程まで座っていた窓辺の椅子に座ると正面に賀楽さんが中腰になって視線を合わせる。首回りを初め色んな箇所を見て、「口開けてくれる?」できるだけ口を大きく開ける。



「のどが少し腫れている……、かな。微熱もありそうだね」



 額に当てられた手が異様に冷たく感じたのは僕が熱かっただけのようだ。



「あとで解熱剤を持ってくるから、飲んでおくように」



 ここで医師としての顔を崩し、「それで、二人っきりで何していたの?」下卑た笑みをまた浮かべて聞いた。

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