第24話 昭和二十八年十二月二十日

 外から眺めても大きい車体はやはり中も幅広で全員が乗車してもまだゆとりがある。



 大通りを走れば衆目を集め、前方を走る車は路肩に寄って道を譲る。まるで重役にでもなったような気分だ。これが心地良い、と菫さんは言って運転を楽しみながら助手席で子供の様に興奮している善太郎さんにこの車の解説をしている。後部座席で羽鳥さんと鼎先生に挟まれる僕達は二人の専門的な話を聞き流しながら、此方は此方で話を盛り上げていた。



 山梨や長野を経由して群馬へ入る。篝家本家は富岡市の端っこにあるそうだ。製糸工場を横目に通り過ぎ、山の麓に大きな門構えの屋敷に辿り着いた。表札に篝の文字。門戸を叩いた菫さんの表情は緊張しているのか、妙に硬い。何度も末広さんとこの屋敷に足を運ぶが、義龍さんはとても怖い人とのことで、あの人は一生を使っても慣れない、と僕と羽鳥さんに話した。



「鍵は開けた。お前達の意志で敷居を跨いでこい」



 善太郎さんと羽鳥さんが門を押し開くと、夕陽を浴びて陰気で偏屈そうな顔半分を陰らせた背の低い着物姿の男性が迎えた。僕達がお邪魔させて頂くことは野菊さんを通じて耳に入っているはず。それでもこの徹底した傲岸不遜な態度はきっと生まれついて持ち合わせた、身長の低さを差し出して得た自慢の自尊心に違いない。



「私が篝義龍だ」



 圧のある声と視線を受けても動じなかったのは善太郎さんだけ。「唐突で申し訳ありませんが、お話をお聞きしたく訪問させていただきました」流石は元軍人といった様子で怖い物知らずに話す。



「私に聞きたいことがあるのだろ。どうした、付いてこい」



 鼻を鳴らして背を向けると屋敷の方へと歩いて行く。続く僕等は緊張しながら敷居を跨いだ。砂利を踏む音と遠くから鳴る鐘の音が緊張した心臓に悪い。末広さんの屋敷より二回り以上はありそうな屋敷。その佇まいは圧巻の一言。僕はこれを権威の象徴として捉えて見上げた。



 屋敷内は和洋を混在させつつも見苦しくない内装だ。給仕の人達はどうしているのだろう、というくらい全く生活の音も人気も無い。



「ここで待っていろ」



 案内された部屋は赤いカーペットを敷き詰めた無駄に広い部屋。部屋中央には十人が対面して座れるソファと硝子製のテーブルが置かれている。義龍さんは扉を閉めて何処かへと行ってしまった。



「怖い人ですよぉ、あの人。五十嵐刑事より纏う空気が怖いですねぇ」

「私は無理、苦手! つか、嫌いだ。何考えてるかわからないから余計に」



 羽鳥さんと菫さんはようやく表情を崩して溜め込んでいた物を吐き出した。鼎先生と善太郎さんは笑いながら二人を眺めている。



「待たせたな」



 不機嫌な義龍さんは背後に女性……、奥さんだろうか。



「家内の佐和子だ」

「野菊さんからお話は伺っております。義龍と私に話があるそうで」



 あまり覇気もない口調の女性はゆったりとした動作で僕達に座るように促す。



「まどろっこしいのは好きじゃない。簡潔に話せ」

「では、簡潔に。山梨の山間にあった村で事業を立ち上げましたね。精肉工場でしたか……、それについてお話をお伺いしたく」



 友好的な態度を演じる善太郎さんとは打って変わり、あからさまに触れて欲しくない内容だという表情をした義龍さんと佐和子さん。そこにすかさず、「どうされました?」事情を知っている僕から見てもなんて嫌らしい笑みだろうか。表現するなら鬼が菩薩のような表情を浮かべているようだ。



「山間の村というのは貧しい者ばかりですよね」

「もういい! 貴様は事情を知っているのだろう。まどろっこしい真似はするな、話す」



 内に込み上げた怒りを飲み干した義龍さんがソファを座り直して咳払いした。



「明治の頃から日本民族は徐々に肉を食うようになってきた。しかし先の大戦でこの国は貧しくなった。肉を食うにも金がいる。なら、そこを補ってやれば此方も儲かり大衆も肉が手軽に食える」



 誰も口を挟まない。



「肉不足を補う問題を、ある顧問から助言を得た俺は道徳も慈悲も捧げて解決した。人間の肉を牛豚の肉に混ぜ込む手段でな。表沙汰にされれば間違いなく会社は倒産し篝家も潰される。承知で手を伸ばさねばならないほど篝家も逼迫していた」



 それから直ぐに手頃な肉を仕入れた。



「これを世間に晒すか?」

「私にはどうでもいい話ですので……。羽鳥君も黙っているでしょう。さて、一つご確認をさせていただきます。その工場から逃げ出した子供、もしくは篝家の事業を知って反発していた人がいれば教えて頂きたいのです」

「何故だ」

「それは此方の台詞ですよ。どうしてわざわざ貴方は御家の悪事を話したか。合点がいかない」

「もう疲れた。口を閉ざし続けるというのも」



 ここでようやく堅牢な肉の表情に閉ざされていた罪の意識が顔を覗いた。みるみると弱っていく義龍さんは腰掛ける姿勢さえも崩して天井を仰ぎ見た。



「私も裁かれるだろうな。だが、いい。ようやく楽になれるのだから。息子を巻き込んだあげくに亡くし、多くの騙した寄付者にもあの世で謝罪できよう」

「騙した寄付者とは?」

「工場を設立させるのに金を借りた支援者だよ。彼等もハンバーグとなってしまったようだが……、残るは私一人だ。それで犯人が収まるなら、言うことも無い」



 一気に八歳は歳を食ったような顔は全てを諦観している。自分の罪に向き合う覚悟さえも捨てている。殺されるなら殺されて許されたい。そんな身勝手な救済を望む篝義龍さんに、「そんな勝手な事を口にする権利はありません! 全てを衆目に晒し、罪を償うべきだと僕は思います。犯人だってきっとそう」驚くほど冷静に言った。



 驚いたように目を見開いて僕を見たのは義龍さんだけでない。



「落ち着きなさいな、賀楽ちゃん。また悪化するよ」



 僕の発言がこの場で不適切だったと今になってようやく気付いた辺り、そうとうに自制心を欠いて感情的になっていたようだ。「すみませんでした」俯いて自省しながら、ああ、やってしまったと後悔した。



 罪は償うべきではあるけど、篝家がその悪事を公にすれば野菊さん達までも非難の的にされかねない。あの家族は無関係であることくらい考えればわかるが、世間というものはそこまで単純にはいかない……、いや単純だからこそ、悪に連なる物は共に石を投げつけようという精神であるのかもしれない。



 無心な発言で菫さんと鼎先生を傷つけてしまってはいないか。隣に座る鼎先生が身を乗り出して膝の上で握る拳をそっと包み込んでくれた。



「気にしていない。大丈夫だから、賀楽ちゃんが気にすることじゃないよ。これは篝家の問題だからね。私達は義龍さんと世間の判決に任せるつもり」

「そうだな。最悪の場合は野菊さんのご実家に身を寄せればいいだけだろ。批判なんてとことん逃げてやるってね」



 鼎先生も菫さんもおちゃらけて肩を竦めた。



「賀楽さん。あの件を聞かなくていいの?」



 言われて思い出した。僕は二枚の写真を懐から取り出して義龍さんに渡した。彼は落ちくぼんだ眼で一瞥してから僕を見て、「これはなんだ?」何を知りたいのかと聞く。



「この中に篝家の事業に関わった人、もしくは事情をしっている者がいますね?」



 そういうことか、と再び写真に視線を落として、一枚目の写真の裏に書かれた一人一人の名前を照らし合わせながらしばらく、「昔の記憶だ。定かではないが鈴本加代という九つの娘が工場を逃げ出したな、この娘だ」指さした写真前列に座って影のある笑みを浮かべる少女。「榎本楓は二人の娘のうち妹を。この女性が榎本楓だ。姉の名前が書かれていないな。なんと言ったか。まあいい。この写真には写っていないが阿式政美は一人息子を差し出した。他の者は新聞にも大きく載っていたな。大田区の民家で起きた集団殺傷殺人事件で二十人が死んだんだったか」写真を返されて僕はその事件に心当たりがあった。



 死写体の撮影現場で訪れた二十人が殺し合ったとされる民家。僕はツーとうなじをひとしずくの汗が伝い落ちたのか、死が舌を這わせたのか、全身が総毛立った。



 すぐに気持ちを持ち直したが、「落合さん。どうしたんだ?」菫さんが怖い顔をした善太郎さんに怪訝な顔を向けている。



「善太郎さん?」



 呼びかけにも応えない。そういえば昨日もこの写真を眺めて何かを考えている風ではあった。なにかひっかかることでもあるのだろうか。



「榎本楓という名前に覚えがあるんですが……、同姓同名かな。あの人には子供は居ないはずだし」



 ぶつぶつ呟く善太郎さんにいよいよ菫さんが眉間を寄せて渇を入れた。背中を思いっきり叩いたのだ。尋常とはいえない状態だった善太郎さんは短い悲鳴を上げて背筋を伸ばした。辺りをうかがうと全員が自分へと注視していたことに初めて気付いた様子。



「榎本さんはお知り合いなのですか?」

「まあ、珍しくも無い苗字と名前だからね、賀楽さんの名前と違って。義龍さん、電話をお借りしてもいいですか?」

「ああ。佐和子、案内してやりなさい」

「此方です」



 二人は部屋を出て行ってしまい、誰もが沈黙の時間を作った。



「松葉さん、佐々木さん。末広は、息子は家族を大事にしていたか?」



 唐突に沈黙を破った義龍さんはこの沈黙に窮してというよりは、ずっと聞きたかったことをようやく意を決して聞けたという口調だ。



「奥様を初め私達にもよくして頂きました。佐々木さんは専属の運転手をされています。彼女の方が末広さんについての話を伺えるでしょう」



 話を振られた菫さんは目を閉じ、思い出す素振りを見せた。「何度かこの家にもお付きとしてお邪魔させていただきましたね。旦那様は決まって帰りに途中の土産屋で好きな物を選びなさいって、私に色々な物を買い与えてくれました。いつもありがとう、感謝しているよ、と何よりも嬉しい言葉を添えて」口調を改めて義龍さんに話した。



「末広には家族として注いだ愛が不十分だった、と私も佐和子も気に掛けていたが……、そうか、アイツは自分の家族を愛せていたのだな」



 それが聞けて十分だと目を閉じた。



「あの、少し厠をお借りしてもいいですか。ちょっと飲み過ぎてしまって」



 空になった湯飲みを持ち上げて見せた菫さんは明らかな作り笑いをして言った。義龍さんの返事を聞く前に、部屋を飛び出した。逃げ出したいほど苦手ではないように思えたが、もしかすると本当に限界が近かっただけかも。僕は苦笑して彼女を見送り、鼎先生と義龍さんの三人で残されて早く善太郎さんが帰ってきてはくれないか、と強く願った。



「遅くなりました」

「誰かに話したのか?」

「言ったはずですよ。私は他言するつもりは無いと。ただ知り合いに色々と聞いていたんです」

「さしずめキミが気にしていた榎本楓についてだろう。彼女は生きているのか?」

「さあ、どうでしょうね。ただの同姓同名の可能性もありますから」

「仮にだ。彼女が生きていたとして、キミの前に現れたら私の代わりに謝罪してもらえないか。篝義龍はあの時の過ちを後悔している。その怒りをぶつけに来てくれて構わない、と」

「伝えるだけは伝えておきましょう。ですが二つ条件を付けさせてもらいます。自ら死を選ばないこと。生きること。生きる努力をするのは権利ではなく義務です、大罪を犯した罪人の」

「天命尽きるまで、この業を背負って行くことを約束する」



 次に戻ってきたのはお盆に新しい茶を載せた佐和子さんだった。飲み終えた湯飲みと新しい冷たい茶を交換していく。黙々と。粛々と。まるでカラクリ人形のような動きと表情をした佐和子さんは、自分の役割を終えると義龍さんの隣に座り目を伏せた。



 僕は義龍さんを向いて言った。



「義龍さん。お聞きしてもいいでしょうか」

「ああ」

「野菊さん達はどうなりますか?」

「どうもならない。何一つ変わることこと無くこれまでのように……、いや、末広はもういないが、住んで貰って構わないと伝えた。あの家族なら心配しなくても大丈夫だ。末広が愛情を注いだ家庭だからな」



 一瞬だけ誇らしい表情を浮かべたように見えたのは錯覚だっただろうか。義龍さんも少しは心の整理が付いたようで初めて見せた無愛想な顔で茶を啜った。



「今日は泊まっていくといい」

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